第九夜

出向いてみるも人の気配はなく、しばらく猫腐しに体を預けていた。

彼はいなかった。


件のお局になんと恋人ができたらしく、貼り付けたプリクラを見せびらかしでもしたいのか、隙あらば携帯電話を取り出しては悦に入っている。

前の上司と久方ぶりに顔を合わした。頑張っているみたいだなと言われ悪い気はしなかったが、去り際の二言三言が癇に障った。それでも缶コーヒーを奢っていただき、この人はこんな表現しかできない方なのだなと思えば、これまでの溜飲が少し下がった。もちろん、僕自身が至らなかったことが根本ではあるが。


誰もいないとなるとこの場所は静かだ。

あの男は静謐な音楽を好みはするが、曲のあるなしで色味が違う。

今夜は心なしか車の通りが多い。

闇に消え行くエンジン音が、ひっきりなしに僕を責める。独りぼっちの寂しい僕。行きずりの男としか飲むこともできない、僕こそが稀代の変質者。

馬鹿が。


最近、事務の先輩と仲良くなった。

打ち上げと称した飲み会で、相変わらずの表情を絶やさぬよう隅でひとり皿をつついていたら、急に肩を小突かれた。

「お酒、強いんだねえ。さっきからずっと飲んでる」

「え、いや、普通ですよ」

「そんなことないよ。私もうきついから、これ代わりに飲んでくれる?」

くっつけていた笑みは熱され溶けた。

先輩は新しく烏龍茶を頼むと、ビールを僕に押し付けた。

こんなもの、あの男の出す酒と比べれば、もはやジュースだ。今まではあまり飲むほうではなかったが、これならばいくらでも入る。

「ありがとう。なんか初めて話す、よね。いつも一緒の部屋にいるのにね」

それから挨拶くらいは交わすようなった。


不意に着信が入り、出てみるとそれは同僚だった。

「お前いまどこにいるのよ。飲もうぜ」

できあがっているみたいだ。

喧騒に混じり、かすかにギターの音色も聞こえてくる。

「珍しいですね」

「一人で飲んでたんだけど、寂しくなったのよ。来なよ」

臆面なく放ちやがる。

水泡が頬を撫でるこんな夜には、誰もが孤独を嫌うのだろう。誰もが誰かを求めるのだ。

「行きます」

そこには音楽がある。


「乾杯」

アサヒビールに、もろきゅう、スジ煮込み、板わさ、カツオのたたき。BGMは、同僚の話によるならば、MR.BIG。いつもと違う夜が笑いかけた。

「ごめんよ急に。誰も捕まんなくってさ」

「いいですよ。暇を持て余して散歩していただけですから」

「こないだのあれ、どうだった?」

「あれ?」

「日本酒。教えたやつ」

「ああ、おいしかったです」

「だろう」

酒の周りには笑顔が集まる。どうしてこんなに上手な笑みが出せるのだろう。同僚は言わずもがな。みな頬を上気させ、美味しそうに喉を鳴らしやがる。

「お、次の曲、これ、Green Dayかな。いいねえ」

僕には、この騒がしさの中で聞き分けるだけの耳はない。もどかしい。けれど、断片的に飛び込んで来るそのメロディに、聞き覚えがある気がした。もっとゆっくり聴いていたいのに、この場はそれをゆるしてくれない。

「詳しいんですね」

「昔ギターやってたからね」

僕も何かをやっていれば、強くあれたのかしらん。


今まで飲み会くらいでしか居酒屋に来なかったから、この店はすごくお洒落に映った。一人で飲みに来るというこの同僚も、僕の目から見れば別次元の生物と思えた。個人店だろうか。先日のレゲエ好きの彼のような人間が営んでいるのだろう。あの男は言っていた。自由人と。ここの店主もそうなのかも知れない。


何杯目かのビールに飽きて、次は山ねこという焼酎にしてみた。同僚はもう虚ろな目になり、店員の女の子を目で追っていた。時折口にする「おっぱいでかいなあ」という言は黙殺した。

おいおい気取ってんなよ。同僚は言う。

僕は苦笑いする。応えられなかった。

「お、oasis」


「にしても、お酒詳しいですよね。よく飲みに来るんですか」

「ま、たまたまだよ」

同僚が枡を口に近づける。こういう所作は美しいと感ずる。僕にはできない。わざと受け皿に溢して注ぐような飲み物など、僕の人生には登場しなかった。あの男の作った酒もそうだ。過日、炙った角砂糖を落として飲ませてくれた。そんなものは知らない。グラスにスプーンを乗せるあの指先は、同性としても美麗に映った。

「俺、兄貴がいるのさ。少し歳が離れてんだけど、何やってても格好良くてさ。ギターも酒も煙草も、兄貴の真似して始めたかな」

「あ、すみません。煙草、遠慮せず吸ってください」

「いや、煙草はもうやめたのよ。ギターもだけどさ」


「お前、明るくなったなあ。まだ敬語だけど」

さすがに飲みすぎたのだろう。今夜はこれで解散となった。

別れ際、同僚はこう言って、また明日な、おつかれと、手を上げて去って行った。

はい、おつかれさまです。


電車に乗る前、酒屋へ寄った。同僚のあの酒を飲んでみたくなった。八海山。店員に尋ねなくともすぐ見つかった。有名なのだろう。僕もあの気品が欲しい。


改札を出ると建物の向こうに月が張り付いていた。

雨はもうどこかへ避難していた。

べたべたと寄り添うカップルが、ねえ半月が綺麗だよと囁き合った。

右手に提げた酒瓶が今夜の僕の供。

枡はなくとも注いで飲むことはできる。ここから先は僕が主たる世界だ。

恋人たちの嬌声を背に、家路を急ぐ。

今夜は、ここから。

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