第七夜
やはり彼はいた。
いつもより大きな音で曲をかけているものだから、高架橋に近づいた時には、賑やかなリズムが既にはっきりと聞き取れた。
彼の選曲とは違う気がして、まさか別の者がいるのじゃなかろうかとすら考えた。
「こんばんは」
「おや。こんばんは」
「今日は趣向が違うんですね」
「ドラムンベースというジャンルですよ。Malakyというアーティストです」
「なんて言えばいいんですかね。たぎるような曲調ですね」
「たまにはこんな夜も良いものですよ。どうぞ、ペルノアブサンです」
男は取り出したグラスに酒を注ぐと、淵に金属の板をかわし角砂糖を乗せ、そのまま火で炙りだした。
「このお酒は錬金術最大の遺産と言われていましてね」
溶け出した砂糖ごと水を注ぐ。
「もともとは薬酒として作られたものですが、麻薬の一種とされていたこともあるんです」
どうぞ。
なるほど。その動作を見るに、何らかの魔術的要素が絡んでいるように見えなくもない。
今までに味わったことのない不思議な飲み口だった。錬金術うんぬんについて聞いてみたくもあったが、蘊蓄語りが長くなりそうなので止めた。
曲との取り合わせも良い。
つい昨日のことだ。やっと、例の番号に電話をしてみた。
一夜寝て起きてしまうと、昨晩の高揚感はどこへやら、それがなんだか恐ろしいもののように見えてしまっていた。
安寧が崩れてしまうのでないか、男がいなくなってしまうのでないか。杞憂とは思う。それでも、いまの僕の拠り所はあの場所だ。
「この電話番号は現在使われておりません」
機械音声が流れて少し安堵した。と、同時に、男は幽霊か怪異か、とかく現実ではない何者かだと、本当に思えてきた。あの場所からして非現実なのだ。主たる彼という存在もまたそうなのかもしれない。
「今夜は何かお辛そうでいらっしゃいますね。どうかされたんですか」
「いえ。そんなことはないはずです。それよりあなたは、少し浮かれてるように見えますよ」
音楽を通すからか、この男の観察眼は異常だ。歳はそう違わないはず。僕は、死神に魅入られるほど、薄汚い人間だったのだろうか。羅刹でないとするならば、彼の人間性はあまりにおかしい。
「浮かれている、ねえ。たしかに私は浮かれているのかもしれません」
男は語り出す。
「朗報があったんですよ。私は卑しい人間だったのです。が、それでも、最悪の中の最悪だけは回避できていたかもしれない、そんな希望が見えてきたのです。ただの願望という線も捨てきれないのですが、私はいま、甘い妄想にすがりついているのかもしれません。私の罪はゆるされるものではありませんが、想像が誤りだったのだとすると、私はまだ、ここにいて良いのかもしれない」
殺人がどうのと言っていたことだろうか。
男の言うことは解らない。
問い質そうとした言葉は迷子になり、僕は代わりに酒を求めた。
男は、ではイエーガーをと言ったが、僕はペルノをいただいた。ぐずぐずと灯る火を見つめながら、周囲の音を探してみようと耳を澄ましたが、甲高く打ち鳴らされるバスにかき消され、何も飛び込んでは来なかった。
曲はもう何曲も切り替わっていた。珍しく紹介が入らない。この曲はなんです? 聞いてみる。ああ、それはSilence Grooveです。Blue Skyという曲名ですが、今日のような濃紺の夜空にも、合いますでしょう。
「以前あなたは、ここからの景色を、私たちの町と、言っていましたよね」
「おや、そのように言いましたっけ」
「言いました。生まれは、ここなんですか」
「そうです。出戻りはありましたけれど、この町で生まれ、育ちました」
「昔から、ここでこのように飲まれていたんですか」
「ええ、そうです」
お一人で? と聞いてみようとして、これも口から出ていかなかった。曲が止み、男は人差し指を口に当てた。
「次は、ああ、Pola & Brysonですね」
解約されたあの電話番号は、男とどのような繋がりがあり、この場所にどう割って入るのだろう。
錬金術は完全なる生を追い求めた学問と聞く。しかして、我々に濁りなき世界などありえない。男もまた、そうなのだ。
「アブサンは多くの芸術家の人生を壊してきたのです。いいえ、逆ですかね。破綻の見える人間こそ、このお酒にはまるのでしょう」
僕はそこで場を離れた。
橋を離れてもまだ音楽が聞こえる気がしていた。
振り返ると山向こうに巨大な影が。大入道は手を振った。僕も振り返した。
陽気なそれに見送られ、僕は帰路に着く。
番号のメモは消去した。
これ以上この僕に構ってくれるな。矮小で瑣末な僕の、これは自己愛だ。
おやすみなさい、世界。僕は寝る。すすり泣くメロディによりて、場は終わる。大入道は手を振っている。
ああ、そうだ。これは、酔っているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます