第五夜

よかった。いた。


花見の帰りだろう酔客がちらほらと見える中、月下の道をその場所へと向かった。

遅い山桜の夜闇に浮かび上がる様を眺めながら缶ビールを煽っていると、年が開けてからついぞ会えていない彼のことが気にかかった。

鈍色の中に淡く映える白があり、あの男が飲みに出ていないはずがない。

例の高架橋へ近づくにつれ、徐々に大きく聞こえてくる音楽。湿り気のあるスナッピーが鳴り終えるのを待って、僕は金蓋を開けた。


「こんばんは」

「おや、久しぶりですね。良い夜にいらっしゃいました」

「一人で飲んでいたんですけどね、ちょっと散歩でもと思いまして」

「今夜は良いスピリッツがそろっていますよ。強めですので、舐めるように」


「ズブロッカです。桜餅の香りといわれるお酒ですよ。さあ」

桜餅の匂いというよりは消臭剤のそれに近い気はしたが、なるほど、鼻腔を抜ける馥郁たるさまと、まろやかな飲み口に、晩春の夢に丁度合う気がした。

「BGMはjhflyです」

「さすが、華を添えてくれますね」

「ありがとうございます。私にとって最大級の賛辞ですよ。主役はこの場。供はお酒。隙間を満たすのが音楽です」


しばらく会話はなかった。話したいこと、聞いてみたいこと、それらはこの場において無粋だ。

この空気感があるのならばそれだけで十全なのだと、僕はもう知ってしまった。


職場の配置転換があり、ねちねちと嫌味を聞かせやがるお局とは顔を合わせなくなった。年度が変わってからこちら、嫌がらせのようなクレームも入っていない。気に食わぬことに上司は出世していったが、それでももう理不尽の押し付けがないのだとすると、これほどに喜ばしいことはない。

感じる全ては主観だけれど、構成する要素は他者でしかありえない。

美しくないものにかかずらっている暇はない。

とりあえずは心を綺麗に保ちたかったのだ。


「次のこれは、asokahですね」

首肯した。

香草の後味が体内を駆け巡った。淡い場においてするすると光を置く桃色。

「相変わらず」

男も食い気味に頷いた。僕はその先を飲み込んだ。

合いますね。

この言葉はおそらく毒だ。

現実に引き戻すための。


「やっと、仕事らしい仕事を回してもらえるようなりましたよ」

「ご就職先が見つかったんですね。おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます。お話していなかったのですが、実はそうなんです。はじめは、なんて嫌な人たちなんだろうと思っていたんですが、この春に班が変わってからは、慣れない先輩も別のところへ行ってしまって、そんなに苦ではなくなりました」

「私はただの世捨て人ですから、尊敬しますよ」


世捨て人とはどういうことだろう。

働いていないのだろうか。

いつも輸入物の高価そうな酒類を用意しているところから見るに、不労所得でもあるのだろうか。

ただ、尋ねる気持ちはもう失せた。

この男はただ存在しているだけの人間。ちょっとしたNPC。選択肢に沿って応えるキャラクター。


「中途採用のまだ下っ端だというのに、もう後輩ができてしまってプレッシャーですけどね」

「責任感ですかね」

「責任感なら良いのですがね。僕のこれは、実のないのに先輩面していることへの恥ずかしさからきているのかもしれません」

「繕おうとしているのでしたら、それはもう立場への責任なのではないですか」

「そんな格好良いものではないですよ。よしんばそうとしても、力量の伴わない者がそれを肯定するわけにはいきません」

「そのように考えられるだけ、あなたは本当に素晴らしい方なんですよ」


男にしては珍しく食いついてくる。

やはり聞き返してみようかと煩悶したところに、男の言葉。

「おや、お次のお酒といきましょうか」


「パトロンのゴールドです」

「いただきます。これは、先ほどと違い、すっと飲めますね」

「テキーラですよ。あまり早くに飲まれないよう、ゆっくり、舐めるようにして。巷では、安いのをぐいっと、なんて言いますけどね、私は、ショットグラスに注いで、時間をかけ少しずつ味わうのが好きなんです。強いるわけではないですが、断然、この場所で召し上がるのでしたら、この方が美味しいと思いますよ。ああ、曲が切り替わりましたね。José jamesです」


饒舌な男に取って代わり、甘いボーカルが場を支配した。

どこからか嬌声が聞こえてきた気がした。それはこのリズムと溶けていった。なのだから、やはり僕の幻聴なのかもしれない。


強い酒ばかり口にしたからか、考えがまとまらず、描いた音声は内へ潜り迷子となった。男も、僕も、示すものは何もない。この水は美味しすぎた。


「ごめんなさい。今日はもうこれで」

「おや、お気をつけて。また素敵な夜にお会いしましょう」


思えば、前回の失敬を謝ってもいない。

けれど、もう良い。彼も望んではいないだろう。都合の良い思いかもしれないが、ゆるされたのだ。僕らは大人だ。


扉を閉める間際、酔いどれの叫び声が耳に飛び込んだ。それは誘うように部屋の隅まで跳んだ。

僕はベッドに倒れこむ。

いいじゃないか。気にばかりして臆病を発揮するより、この方がずっと人間らしい。

「おやすみなさい」

意識は途切れた。

残念ながら、楽しい今夜はもうここまで。

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