ベイビー・ジェネレーションズ8

「クリュさん、ポルさん……!?」

 目の前に現れた子猫達の名を、花中は思わず呼んでいた。

 クリュもポルも両足を広げ、腕を組んで仁王立ちしていた。花中はその姿を背後から見ていたが、間違いなく怒りと興奮に満ちた表情を浮かべていると分かるぐらい堂々としている。

 確かに、彼女達はフィアとフィリスが激突する直前、何処かに投げ捨てられていた。どうせ盾にはならないし、確保するだけエネルギーの無駄とでも判断されたのだろう。フィアとフィリスが戦っている間に心身を落ち着かせ、慎重に時を待っていたとしたら、クリュ達が此処に現れる事が出来たのは頷ける。

 しかし、何故此処に来たのか。

 どうして彼女達はフィリスをのか。

「さっきから見てれば、自分のお母さんに酷い事ばかりして!」

 困惑する花中の前で、クリュが力強く語り出す。うんうんとポルが頷いた。

「それにパパとおばちゃんにも酷い事して!」

 ボクにも言いたい事はあるんだぞ。そうとばかりにポルも批難する。クリュがうんうんと頷いた。

 フィリスは、二匹の言葉に何も答えない。が、吹き飛ばされたその巨躯を起こし、立ち上がり……怪物の姿を変形させて、幼い少女を模る。

 されどその目にあどけなさはない。

 憎悪や苛立ちもない。あるのは純粋なる怒りと、殺意の二つだけ。あと一歩で仕留められた獲物を奪い取られた捕食者のような、鋭い視線をクリュ達に向ける。直接視線を向けられていないのに、花中なんかは一瞬意識が飛んでしまうほど恐ろしい目付きだった。

 だが、ミュータントの子供達は一歩も退かない。

「嘘吐きだし、家も壊すし、みんなを傷付けて! 悪い奴なら容赦しないよ!」

「しないぞ!」

「……しないなら、どうするつもりですか?」

「一発、ううん、めちゃくちゃぶん殴る!」

「ボッコボコにぶん殴る!」

 威勢の良い宣告と共に、クリュとポルは同時に前傾姿勢を取る。それは正しく獲物へと向かう獣のよう。

 二匹は挑むつもりなのだ。フィアすら手に負えない、フィリスという化け物に。

「ま……」

「待て! お前達!」

 花中が咄嗟に止めようとした、それを遮るようにキャスパリーグの声が飛ぶ。

 未だフィリスに付けられた傷の影響があるのか。キャスパリーグの足はガタガタ震えていて、立つのがやっとという様子。それでも前に出ようとするのは、我が子達を止めるためか。

 そうだ、止めなければならない。フィリスは新世代のミュータントであり、数多の強敵を打ち倒したフィアすら敵わぬ存在だ。まだまだ幼いクリュとポルでは相手になる筈が――――

「(……?)」

 自分の言葉に、花中はふと違和感を覚える。

 答えは、すぐに明らかとなった。

「お前達が本気を出したら、この町なんて一瞬で消し飛ぶぞ!?」

 大慌てといった様子の、キャスパリーグの言葉によって。

 されど花中がその言葉を理解する前に、クリュとポルの姿は……消えた。

 直後、フィリスに二匹は蹴りを食らわせる。フィリスの身体が大きく仰け反る。

 そんなフィリスから遠く離れていた筈の花中は、襲い掛かってきた衝撃により吹っ飛ばされた!

「ぎゃぶっ!?」

「花中っ!」

 吹っ飛ばされた花中を、後ろに居たミィが受け止めてくれた。彼女もキャスパリーグほどではないが、少しは動けるようになっていたらしい。もしもミィが助けてくれなければ、恐らく何十メートルも飛ばされていた。今でも身体が痙攣している中、自分のため動いてくれたミィに花中は感謝の視線を送る。

 勿論本当はお礼を言葉で伝えたかったが、今はちょっと叶わない。

 何故ならクリュとポルが奏でる打撃音は、花中のちっぽけな声なんて掻き消してしまうほどに大きいのだから。

「だぁりゃああああああっ!」

 クリュは目にも留まらぬ速さで拳を繰り出す。人間である花中の目には残像しか見えないが、まるで一つの音であるかのように続く拳とフィリスの衝突音が、そのスピードを物語っていた。

 無論スピードが速い分、その破壊力も凄まじい。正面からフィリスは殴られているが、衝撃はフィリスの背中から抜けていき、まるで巨人が指でなぞったかのような溝をアスファルトに刻み込んでいく。脆弱な人間では、フィリスを盾にして隠れても無事ではいられまい。

「やぁっ! たぁっ! うりゃあっ!」

 クリュに対しポルは、非常に大振りな一撃を打ち込む。花中でも今から攻撃するのだと分かるぐらい大きな予備動作を伴うパンチは、一発打ち込む度に大地と大気を震わせた。

 一発一発が、まるで火山噴火や地震のようだ。天災を次々と生み出す様は、英雄や神々をも彷彿とさせる。パワーのスケールが違い過ぎて、花中には最早恐怖すら感じられない。

 強い。強過ぎる。

 フィリスがフィアをも圧倒したように、クリュとポルは親であるキャスパリーグすらも超えていると思わせる、圧倒的な力を花中に見せ付けた。フィアを捻じ伏せたフィリスも、二匹の猛攻には顔を顰める。どんどんどんどん顰めていき……ギリッと食い縛った歯を見せた。

 それが怒りの限界を示す顔だった。

「小賢しいわ、この虫けら共がァァァァァッ!」

 ついにフィリスが、本性を露わにする。

 途端クリュとポルは跳び、フィリスから離れた。次の瞬間、フィリスの周りの地面が粉々に砕け散りながら吹き飛ぶ!

 大地に深々と刻まれる無数の傷。それはフィアが好んで使う技、『糸』が縦横無尽に振るわれている証だった。娘であるフィリスもこの技が使えても不思議ではない。

 同じ能力の使い手であるフィアにはあまり効果のないこの技も、生身であるクリュとポルには致命的なもの。それを察してクリュ達は離れたのだろうが、フィリスとてむざむざ逃がしはしない。

 フィリスが指先を向けたのはポル。するとポル目掛け、猛烈な速さで大地の傷が刻まれていく。おまけにその傷跡はポルを取り囲むよう……全方位に『糸』が展開されていた。更に傷の範囲は刻々と狭まっている。

 フィリスは逃げ場を塞ぎ、確実にポルを仕留めるつもりだ。自分が取り囲まれていると気付いたポルは、しかし泣き喚いたり動揺したりはしなかった。素早く両腕と手を広げ、大地に刻まれる傷が自分の側まで来た刹那、ぎゅっと手を握り締める。

「っ!? 何を……」

「とぉーりゃあああああああっ!」

 フィリスが困惑した、そのほんの一瞬の隙を突くようにポルは自らの身をぐるんと一回転。

 するとフィリスの身体が、一気にポルの下へと引き寄せられる! 繰り出した『糸』が素手で掴まれたのか。フィリスは踏ん張ろうとしているのか足こそ地面に突いたままだが、まるで抵抗出来ず、瞬きする間もなくポルの目の前まで引っ張られた。

「やあぁッ!」

 そのフィリスの腹目掛け、ポルは真っ直ぐに拳を叩き付ける!

 殴られたフィリスは『く』の字に身体を曲げる。桁違いのパワーにより、背筋を伸ばした体勢を維持出来なかったのだ。

 加えてポルは素早く腕を回し、フィリスの腕をガッチリと掴む。フィリスは腕を動かそうとして身体を震わせるが、ポルの怪力には敵わないようでビクともしない。ポルは更に力を込め、一層フィリスの腕を固く拘束する。

 しかしどれだけ強く掴まれようとも、フィリスの顔に苦悶の表情は浮かばない。水で出来た身体相手では、どんな攻撃をしようが『本体』にダメージなど通らないのだから当然である。

 ただ、苛立ちはするのだろう。

「小癪なァッ!」

 苛立ちに塗れた叫びを上げながら、フィリスはポルの顔面目掛け掴まれていない方の手を伸ばした。

 ポルは何かを察知したのか素早く手を離し、フィリスから跳び退く。空振りしたフィリスの手は、大きく宙を薙ぎ払う。

 すると彼女の手が通った場所に、白い靄のようなものが一瞬現れた。

 あの靄はなんだ? 花中は考えようとする。

「ほほう沸騰までさせますか……何処までも器用なものですねぇ」

 尤も考え付く前に、花中のすぐ横から答えが伝えられた。

 フィアだ。吹き飛ばされた拍子に離れてしまった花中の傍に、彼女の方から戻ってきてくれたのである。

「ふぃ、フィアちゃん! 大丈夫!? 怪我してない!?」

「怪我はしていませんよ。まぁあのままだとかなりヤバかったかも知れませんが」

 花中がしがみついて尋ねると、フィアは不機嫌そうにそっぽを向きながら答える。常に自信満々なフィアだが、相手の過小評価はしない。『かなりヤバかった』という事は、実際かなりヤバかった、という事なのだろう。

 それだけフィリスは恐るべき力を持った相手という事だ。加えて、フィアは先程聞き捨てならない言葉も発している。

 沸騰までさせている。

 水を操る能力があるフィアだからこそ、一目で分かったのだろう。原理的には、確かに可能かも知れない。熱とは粒子の運動量だ。水分子の運動量を増大させれば、どんな水だろうがたちまち高温と化す。

 もしもフィリスの手がポルの顔に触れていたら、そこから血中水分が沸騰していたのだろう。ミィやキャスパリーグは筋肉などから生じた熱を血液で制御していたので、ポルやクリュも同じ筈だ。血液そのものを沸騰させられたら、如何にポルでも甚大なダメージを受けたに違いない。

 遠距離から沸騰させていないので、直接触るか、相当至近距離でないと力を発揮出来ないのだろう。しかしそれでも十分に驚異的な能力だ。血が沸騰しても平気な生物など存在するのだろうか? 少なくとも、花中の知る限りではいない。

 触れれば相手を即死させる。幾ら殴れどもダメージは入らない。パワーもスピードも段違い。遠隔攻撃だって行える。

 果てしなく強い。本当にフィアを純粋に強化したような、圧倒的な強さだ。

 でも。

「(こんな、なんでもかんでも強いなんて、あり得るの?)」

 花中は違和感を覚える。

 もしも予想通りDNAがフィリスをデザインしたなら、確かにフィアより強くなる事は可能だろう。純粋な強化だって可能な筈だ。

 しかし進化とは、それほど単純なものでもない。

 何かを得たなら、何かを失う。大きな長所と引き替えに、致命的な弱点を背負う。それが進化の、いや、『変化』の宿命だ。例えば人間の大きな脳だって、莫大なカロリー消費があったり、頭が大き過ぎるため出産時の負担が増大したり……様々な『弱点』を抱えている。現状の環境なら得られるメリットの方が多いから、こうして地球上に繁栄出来ているだけ。環境が変わり、知能が役立たずになれば、人間など簡単に滅びるだろう。

 人間以外の生命だって、環境変化などの要因で頻繁に絶滅している。生きた化石と呼ばれる生物種でも、内臓レベルでは大きな変異を遂げて、別種と呼べる姿に変化しているものだ。この世に完璧はあり得ず、だからこそこの星には数百~数千万種もの生命が棲んでいる。

 勿論既知の生物から見れば何もかもが非常識であるミュータントのような、変化によるデメリットをガン無視した生物誕生もある。けれどもミュータント同士、ましてや同種同士で、フィアとフィリスのような一方的力関係などあり得るのか? フィリスの方がより一層進化してるにしても、積み重ねた年月と身体の大きさで勝るフィアがこうも徹底的にやられるなどおかしくないか?

 何かある筈だ。驚くほど多彩にして強大な能力を扱うために支払っている、なんらかの代償が――――

「……ははーん。ふぅーん」

 花中が考え込み、だが中々答えが出ない中、不意にフィアが独りごちた。納得するように、或いはイタズラを思い付いたように勝ち誇った笑みを浮かべながら。

「……フィアちゃん? 何か、気付いたの?」

「まぁ一応は……さぁてどうしたものやら。私だけじゃ多分無理でしょうし」

 厄介ですねぇ、と言いたげにフィアは肩を竦める。自分こそが最強だと臆面もなく言い放つフィアが、自分だけでは無理だと語った。それだけフィアがフィリスを警戒しているのだと分かり、花中はごくりと息を飲む。

 同時に、期待する。

 フィアが気付いた点というのは、一体どんなものなのか。もしかしたらそれこそが、フィリスの力の『代償』なのでは……

「おっとお喋りしている場合じゃなさそうですね」

 出来れば答えを教えてほしかったが、しかしフィアがそんな悠長にはしていられないと教えてくれた。

 ハッとして、花中はフィリスの方へと振り返る。

 花中が目を離していた時間は、ほんの数十秒にも満たないだろう。だがミュータントの高速戦闘の中では、数秒もあれば状況が大きく変わる事もあり得る。

 例えばつい先程まで押していたクリュとポルが、今ではフィリスに押される側になっていたとしても、おかしくはないのだ。

「ぐ、うぅ!?」

 呻きながらもクリュが跳ぶ。クリュが跳ぶ前まで居た場所をフィリスの……まるで怪物のように肥大化し、二メートル近い長さになった右腕が叩く。衝撃で大地が割れ、砕けたアスファルトが辺りに飛び散る。

 しかしそのスピードは、決して速いとはいえない。勿論人間に躱せるようなものではないが、目視不可能な速さで動けるクリュ達にとっては止まっているようなスピードだろう。事実フィリスの攻撃を回避したクリュは体勢を崩しておらず、反撃に転じるためかその姿勢を素早く前のめりに傾ける事が出来ていた。

 あたかも、その瞬間を狙うように。

 フィリスが左手の指先をクリュに向ける――――するとどうした事か、前傾姿勢のままクリュは固まってしまった。困惑した表情から、クリュの意図するものではないと窺い知れる。固まっていた時間はほんの一秒か二秒程度。人間にとっては僅かな時間だが、ミュータント同士の戦いでは致命的な隙だ。

「てやぁっ!」

 その隙を潰すように、ポルがフィリスに肉薄

 した瞬間ポルの足下がもつれて、盛大にこけた。

「え、わ、わああああんっ!?」

 戸惑うポルの身体はフィリスを通り越し、地面を激しく転がりながら進路上にあった廃屋を粉砕。何百メートルと距離が開いてしまう。

「おっとっと。ちょっとやり過ぎましたかね?」

 おどけるような言葉を告げながら、まるでも蝿でも払うようにフィリスは腕を振るう。

 ただし払う相手は蝿ではなく、硬直から動き出し、再度攻撃を仕掛けてきたクリュ。彼女は足に恐るべき力を込め、フィリスに跳び掛かろうとしていた。

 されどフィリスの腕が近付いた瞬間、クリュの身体が空中でくるんと回る。足に込めていたパワーは暴発し、虚空を蹴り飛ばしてしまう。人間ならなんの問題もないその行動は、しかしクリュ達ほどのパワーがあれば別。蹴り出した際の空気抵抗がクリュの身体を高速で押し出す。

 クリュもまたポルと同じ勢いで、人の住んでいない家屋に突き刺さった。バラバラに砕け散る材木や瓦礫が、クリュが放とうとした攻撃の強さを物語る。

 人間なら跡形も残っていないであろう衝撃。されどクリュとポルにはまだ耐えられる一撃。

「だりゃあっ!」

「とりゃあっ!」

 瓦礫の山を粉砕して跳び出した二匹は、足を前へと突き出しながら、同時にフィリスへと蹴りをお見舞いしようとする!

 超音速で接近するクリュとポル。おまけに二匹は狙ってか偶然か、フィリスを挟み撃ちにする位置関係にあった。如何に野性の反応速度を有するフィリスでも、能力により超音速で動き回る生命体の攻撃を二方向から受けては躱す事など不可能。回避行動を取る事もなく、クリュとポルの飛び蹴りを受ける

 直前の出来事だった。

 フィリスに接近した二匹の身体の軌道が、ぐにゃりと曲がったのは。しかもその曲がり方は、ふわりと浮かぶように上方向に向けてである。

「えっ、な、わ」

「ちょ、あ、な」

「「ぶぎゃんっ!?」」

 自分達の予期せぬ軌道変化に対応出来ず、クリュとポルはフィリスの頭上で正面衝突。二匹は可愛らしくも間の抜けた悲鳴を上げ、激突時の衝撃波がフィリスを中心にしたクレーターを形成する。

 激しくぶつかり合ったクリュとポルは、弾丸のような速さで突撃時とは反対方向に飛ばされた。クリュはなんとか着地し、両手両足で大地を掴むが……ポルは失敗。背中から大地に叩き付けられ、僅かに埋もれる。

「まずは一匹目」

 フィリスが淡々と呟きながら、指先をポルへと向けた。

「がうっ!?」

 するとポルは苦悶の声を上げ、ビクビクと痙攣を始める。四肢をばたつかせ、苦しさに悶えていた。

 目まぐるしく変化する戦局故、花中はこれまで頭が全く追い付けていなかったが……ポルが苦しみ始めたところで、ようやく状況を理解した。

 フィリスは水の遠隔操作で、クリュとポルの血液を操作しているのだ。

 ただし逆流などはさせていない。ろくな血管を持たない解放血管系の生物なら兎も角、脊椎動物は血液が所定の経路を通っていく事を前提とした身体の作りをしている。もしも逆流などすれば、心臓がポンプとしての機能を失い、死に至るだろう。クリュとポルが今も生きている事がそれをしていない何よりの証拠だ。

 とはいえフィリスは手加減しているのではなく、やりたくても出来なかったのだろう。圧倒的身体能力を有するクリュとポルであれば、血液の流れを変えられても正せる筈だからである。逆にいえば、クリュ達でもなければ遠距離から敵を問答無用即死させられる訳だが。

 なんにせよ即死はさせられなかったのだろうが、水分子そのものの『位置』は変えられた。一瞬だけなら一定方向に軌道をずらすような真似も出来るのだろう。

 そうしてクリュとポルの動きを自在に操り、攻撃を躱し、相手を吹き飛ばし、同士討ちさせているのだ。正面からのパワー勝負に負けていたフィリスも、この『技』により二匹を翻弄出来るようになり、形勢が逆転したに違いない。

 そしてフィリスは今、恐らくポルの血液に『何』かをしている。逆流が無理だとすれば……血液そのものを暴れさせ、体組織を破壊しているのかも知れない。ミィやキャスパリーグには再生能力があるため、ポルにも同等以上の再生力がある筈だ。しかし苦しみ、藻掻くという事は、その再生力を上回るダメージがあると思われる。

 まず一匹目――――フィリスのこの言葉の意味が、ここで確実に一匹仕留めるというものなら……

「させるカアアアアアアッ!」

 その予感を抱いたのは花中だけではなかった。クリュが咆哮を上げた、刹那彼女は自らの姿を変化させる。

 人間の顔が歪み、獣のそれへと変わった。

 愛らしい身体が毛に覆われ、四肢は筋肉の塊である太く逞しいものへと膨れ上がる。

 可愛らしいお尻も筋肉に満ち、生えてきた尾は鞭のようにしなやかかつ強靱。

 一秒と経たずに、クリュは人間の姿から、クロヒョウのようなネコ科の怪物へと変化した。否、そもそもクリュはネコである。即ちこれこそがクリュの本当の姿という事。あらゆるリミッターを解き放った、最強の形態だ。

 後の動きは、最早花中には見えない。いや、最初からろくに見えていないのだが……クリュがと認識するのが精いっぱい。残像すら捉えられなかった。クリュが何をしたのかも分からない。

 分かるのは結果だけだ。

 姿を消したクリュが、何時の間にかフィリスの足下で寝そべっているという結果だけ。

「……!? なん……で……!?」

「いやぁ、最初は厄介だと思いましたが、タネさえ分かればなんとでもなりますねぇ。筋肉が力の源なら、その筋肉をズタズタに切り裂けば良い。あなたの血液をちょーっと操り、やらせていただきました」

 自慢げに語るフィリス。クリュは立ち上がろうと四肢に力を込めているが、すぐに崩れ落ちてしまう。フィリスの言葉通り、筋肉が傷付けられているに違いない。

 ポルは未だのたうつばかり。クリュは身動きが取れない有り様。これでは勝負にならない。

 花中は後ろを振り返る。ミィとキャスパリーグは、ようやく立ち上がっていた……が、その場に立ち尽くしたまま。未だ怪我が治っていなくて立ち尽くしているのだろうか。尤も、仮に駆け付けたところでミィ達の『弱点』を突けるようになったフィリスに敵うとも思えない。

 残す手立ては、花中の傍まで退避してきたフィアのみ。

 しかし基本自分本位であるフィアが、今にも殺されそうなクリュとポルを助けてくれるだろうか? その可能性は、限りなく低いだろう。けれども頼まなければ、可能性はきっとゼロだ。

「ふぃ、フィアちゃん! あの……」

 だから花中はフィアに助けを求めようとして、

「野良猫ォっ! アイツを取り押さえなさいっ!」

 されどフィアが張り上げた大声により、花中の懇願は掻き消された。

 掻き消されたが故に、花中は目を丸くして驚き、言葉を失う。自分が助けをお願いする前に、フィアが自らの意思で動き出したのだから。

「「任せとけッ!」」

 そしてフィアの言葉に応えるように――――ミィとキャスパリーグが

 ミィ達は、既に動けるようになっていたのだ。けれども敢えて動かずにいた。

 恐らくフィリスの『隙』を突くために。

「! ふん、素直にぶつかってあげるとで、も……!?」

 フィリスはミィとキャスパリーグの接近に気付くや、すぐに移動しようとした。ところがその身を少し仰け反らせただけで、一歩後退る事すらしない。

 何故ならフィリスの足に、ぐるぐると『水触手』が巻き付いていたのだから。

 フィアはこれを狙っていたのだ。クリュとポルを仕留める事に夢中になったフィリスを、確実に捕らえるために。恐らくは事前に ― 『糸』か何かを鼓膜に差し込むなどして ― ミィ達と打ち合わせをし、合図をしたら突っ込めと命じていたのだろう。

「ちっ! 何匹来ようが……」

 身動きが封じられたと分かるや、フィリスはクリュとポルへの攻撃を中断。接近するミィ達と正面から向き合い、その指先をミィ達に差し向けた。

 するとフィリスから十メートルほどの位置に入った瞬間、ミィとキャスパリーグの足がもつれる。遠距離からの血液操作により、足の筋肉が切断されたか。二匹の身体は前のめりに倒れた

 直後に、二匹は足先をちょんっと動かした。

 動きとしては本当に僅かなもの。足首を少し回した程度だ……しかしその動きだけで問題はない。

 こんなものでも十分に、ミィとキャスパリーグの身体は宙へと跳び上がるのだから。

「なっ……ふんっ!」

 フィリスは一瞬顔を顰めるも、両腕を前へと突き出す。クリュとポルにもお見舞いした、血液の遠隔操作。これにより突撃してくる相手の身体を、ほんの少しだけだが動かせる。

 ミィとキャスパリーグもこの技からは逃れられず、回転しながらも直進していた身体の軌道が捻じ曲がる。フィリスへの直撃コースからずれていくミィとキャスパリーグ。

 だが、その手は二匹には通じない。

「兄さん!」

 ミィが手を伸ばし、

「おうっ!」

 キャスパリーグが足を伸ばす。

 離れ離れになる間際、互いの身体を掴んでフィリスの干渉を防いだのだ。フィリスは更に顔を顰めたが、すぐにほくそ笑む。一回防がれたからなんだというのか。防いだならまた軌道を捻じ曲げれば良いだけの事。

 そんな時間があれば、の話だが。

 キャスパリーグはフィリスの能力が使われる前に、己の身をぐるんと空中で一回転し――――足を掴んでいるミィを、前へと撃ち出した!

 一撃で山をも砕くパワー。それを一身に受けたミィは、流星が如くスピードまで加速する!

「え、ぁ、がふっ!?」

 これにはフィリスも反応が間に合わず、ミィが己の腹に突っ込むのを止められない。呻き、身体をくの字に曲げ……だが間髪入れずにミィの身体を抱き込む。

「嘗めた真似をしてくれましたね……このまま内臓をズタズタにして……!」

 ガッチリと掴んだまま、フィリスはミィに死の宣告を下す。だが、彼女は怒りにより失念していた。

 猫はもう三匹居るのだ。

「ゴガオオオッ!」

「っ!?」

 本来の姿と化したキャスパリーグは猛獣染みた咆哮と共に、フィリスの右腕に喰らい付く! 腕を噛まれた衝撃からかフィリスは大きく仰け反る。

「この……!」

「がああァァっ!」

 反撃とばかりにフィリスは左腕を振り上げるも、今度はその腕にポルが跳び付いた! 幼く、嬲られたダメージが残っている身体は弱々しいが……それでも人智を超える怪力だ。フィリスは左腕を無理矢理下ろされる。

「こんにゃろぉーっ!」

 そして止めとばかりに、クリュがフィリスの背中から跳び乗る。爪を突き立て、首に噛み付き、さながら草食動物を襲う肉食獣のように組み掛かった。

 推定総重量二百トン以上、加えられる力はそれを遙かに上回る。文字通り桁違いのパワーがフィリスの全身に加わっていた。

 だが、フィリスは倒れない。

 それどころか仰け反った身を起こし、前のめりになりながらも大股開きで踏み止まる。腕を大きく広げて構え、可愛らしい少女の顔を猛々しく歪めていた。

 そして一歩、前へと踏み出す。

「この、程度……この程度ォォォォォォ……! こんなモノで、この私を止められると、思うなアアアアアアァ……!」

 開かれた愛らしい口から出るのは、恐ろしい魔獣のような唸り。大気を振るわせ、大地を揺らす声に、遠く離れている花中さえも血の気がどんどん引いていく。

 ミィもキャスパリーグも強い。クリュとポルも同じぐらい、いや、もっと強い筈だ。その四匹が力を合わせて押さえ付けたのに、それでもフィリスは止まらない。一歩、また一歩、ゆっくりではあるが着実に前へと進み、花中の方へと近付いてくる。

 いくらフィリスがフィア以上の力を持っていようと、同格のミュータント四匹を上回るなんて信じられない。DNAによる改良とは、生命の本当の進化とは、ここまで不条理なものなのか? クリュもポルも強いが、フィリスの進化はそれを上回るというのか?

 こんな『怪物』に、勝つ方法などあるのか?

 不安と恐怖に支配され、花中は後退り。しかしフィリスは逃さないとばかりに更に花中へと歩み寄る。花中は小さな悲鳴を上げながら尻餅を撞き、縮こまった身体は動けなくなった。

 フィリスはこれを好機と見たのか。ミィ達の拘束などお構いなしに、突撃しようとするかのような前傾姿勢へと移り――――

 この恐ろしい行動を邪魔するように、拍手の音がこの場に響いた。

「……フィア、ちゃん?」

 花中は音がした方……自分の傍に立つフィアへと目を移す。

 フィアはパチパチと穏やかな拍手をしていた。とてもゆっくりとした動きだが、強い叩き方によって奏でられるその音は何十メートル先にまで届くだろう。ましてやフナであるがため優れた聴力を持つフィリスに聞こえぬ筈がない。

 フィアは聞かせているのだ。心から尊敬し、同時に余裕に満ちた拍手を。

「いやはやお見事。この私の血を引くとはいえここまでの強さがあるとは予想もしていませんでしたよ」

「……図に乗ってるのですか。こんな虫けら四匹ぐらいで、この私の身動きを封じるなど嘗めた真似をして……!」

 フィアの挑発的な言葉に、フィリスは怒りを露わにしながら答える。ぶくぶくと四肢が膨れ上がり、腕を掴むキャスパリーグとクリュが持ち上がった。

 怒りに任せた無茶だろうが、キャスパリーグ達の拘束を本当に振り払おうとしている。フィリスの底なしの力に、花中は一層震え上がった。

「ところで何故馬鹿正直にそいつらの相手をしているのです? その馬鹿デカい身体をよろしいのに。あなたの『身体』だって私と同じ水で出来ているのですから簡単な話でしょう?」

 ただしそれは、能天気な口調でフィアが問うまでの短い間だったが。

 場に、沈黙が流れる。

 フィリスは歩くのを止めていた。視線を泳がせ、フィアも花中も見ていない。膨らんでいた四肢が萎み、大人しい少女の姿に戻ってしまう。

 まるで、図星でも突かれたかのように。

 ――――いやいや、そんなまさか。

 花中の脳内に否定の言葉が流れる。そんな事、ある筈がない。だって彼女は『それ』を操る魔物だ。だから彼女にフィアの言おうとしている事が出来ぬ筈がない。

 もし出来ないのだとしたら、にも程がある。

 ……そう、致命的だ。本当に危険な状況、つまり今のような場合、どうしようもなくなってしまう。自分より強い相手に為す術がないというのは、自然界ではかなり問題ある欠陥だ。アゲハチョウの幼虫すら、自分より遙かに強い鳥やトカゲを追い払うための武器として臭い角を出すというのに。

 だからこそ、それが代償だとしたら……見合う力が絶大なのも頷ける。

 差し引きで考えれば確かにおかしくない。しかし理性が「そんな馬鹿な」と言い続ける。だって、いくらなんでも『間抜け』過ぎるではないか。

「……あの、もしかして、フィリスさん……『身体』、というか操る水を、のですか?」

 水を操る能力を持ちながら、操る水に本来の柔らかさを持たせられないなんて。

 だが、フィリスは答えない。肯定は勿論否定もしないし、実演すらやらない。今ここで液状化してみせれば、キャスパリーグ達の努力を全て無下に出来るのに。

 この状況下に置いて、沈黙とは黙認を意味するものだった。

「えっ……嘘……ほ、本当に……?」

「多分アレですかねぇ。力が強過ぎて水分子同士がガッチガチにくっついちゃうんでしょう。以外と加減が難しいんですよ水の柔らかさを保ったまま形を維持するのって」

 唖然とする花中に、フィアは何時も以上に自慢げに説明する。普段説明する側である花中に説明出来たのが嬉しいのか、はたまたフィリスに出来ない事が出来ると自慢したいのか……恐らくは両方だろう。

「さぁーてではそろそろ止めといきますかねぇー」

 加えて、ついにこの戦いに終止符を打てる事への喜びもあるに違いない。

「ぐっ! ぬ、が……ぐぅううう……!」

「今更手遅れですよ。もうその四匹はあなたを逃がすつもりはありませんから」

「フィアの言う通りだ。子供達を傷付けた貴様を俺は許さん」

「あたしとしても、アンタを野放しにするのは危険過ぎるから反対」

 フィアの言葉に、キャスパリーグとミィも同意する。クリュとポルも頷くのみ。フィリスの味方はいない。

 ただ一人、花中を除いて。

 確かに、フィリスは危険だ。『身体』を液化出来ないという弱点はあるが、その弱点はミュータント四体が一斉に取り押さえてようやく意味を持つもの。もしここで逃がせばフィリスは此度の戦いを糧にして、より強く、より狡猾になるだろう。そしてフィリスは商店街や市街地での戦いを平然と仕掛けてきた。フィアと同じく人間を気にも留めていない。

 一人の人間として、フィリスに止めを刺す事は賛成すべきだ。

 だけど。

 それでも――――

「さぁてそれじゃあその『身体』をぐちゃっと潰して終わらせますかねぇ。私だけではちょっとパワー不足かもですが野良猫共も力を合わせればなんとかなるでしょう」

 花中が考えている間に、フィアはフィリスのすぐ傍までやってきていた。

 フィアは己の右手をフィリスへと伸ばす。自らの娘であるフィリスに、その命を終わらせるための手を躊躇いなく近付けた。ミィもキャスパリーグも、クリュもポルも力を込めてフィリスを圧迫する。

 そしてフィアの手が触れる、間際に。

「あっはははははははははははっ!」

 花中の開いた口を閉じさせるほどの大声で、フィリスが笑った。

 心底楽しそうな笑い方だった。死の恐怖に耐えられなくなったのだろうか? 一瞬花中の脳裏にそんな考えが過ぎるも、それはあり得ないと本能が訴える。野生に生きるミュータントが、気を違わせるなんて方法で現実逃避する筈がない。

 フィアもフィリスの笑いに何かを感じ取ったのか。ゆっくりとしていた手の動きを一気に速め、フィリスの顔面を鷲掴みにした

 瞬間の事だった。

 フィリスの身体が、突如として爆発したのは!

「わぶっ!?」

「ぬぐぁっ!?」

「みゃー!?」

「うにゃーっ!?」

 爆発に巻き込まれたミィ達の声が、爆音と共に辺りに木霊する。押し寄せる爆風は、大質量と怪力を有するクリュ達をも吹き飛ばした。

 爆発といっても、それは大量の水が一気に広範囲に散った事で見えた風景に過ぎない。しかしながら高さ云千メートル近くまで水柱が上がるとなれば、その水量と破壊力は察して知るべし。

 飛び散った水はやがて重力に引かれ、地上へと落ちる。一体どれほどの量があるのか、落ちた水は津波となって辺りに広がり、瓦礫と化した家々を押し流した。

 もしもフィアが花中を守るため水を全て自身の『身体』に取り込まなければ、町一つが呑まれていたかも知れない。

「……うぇっぷ。あのクソガキこれほどの水を支配下に置いていたのですか……つくづく化け物ですねぇ」

 どうにか全ての水を取り込むと、フィアはぽつりと悪態を吐く。よくよく見れば、足先からちょろちょろと排水していた。どうやらあまり長くは保持出来ないほどの水量らしい。

 あまりにも突然の事に、花中は恐怖すら感じられなかった。フィアのお陰で難を逃れたのだと分かったのは、フィアが飛び散った水全てを取り込んでから何十秒も経ってから。

 そしてフィリスの事を思い出したのは、そこから更に十秒以上経ってからだった。

「あっ! ふぃ、フィアちゃん! あの、フィリスさんは……?」

「逃げられました。全く完全に掌の上で踊らされていましたね」

「踊らされていた……?」

「アイツずっと地面の下で遠隔操作をしていたんですよ。つまり私達が見ていた『身体』の内側にアイツはいなかった訳です」

 花中の問いに、フィアは淡々と答える。

 花中はとても驚いた。フィア達が全力で戦っていた中、フィリスは全く危険を冒さず、安全圏から観戦していたのだ。そして勝負が付いたため地上で戦っていた『身体』の操作を切り――――制御を失った水が一気に元の体積へ戻った、という事なのだろう。

 こちらが命を賭けた中、向こうはずっと遊び気分。なんとも理不尽だ。

 しかしながら、花中は少しホッとしていた。フィリスが逃げ、生き延びた事への安堵だった。

「今度会ったらこってんぱんのボッコボコにしてやりますからねっ! ふんっ!」

 対するフィアは如何にも不機嫌そうに頬を膨らませ、拗ねるようにそっぽを向く。怒りを露わにし、悔しさを滲ませる。

 けれども。

 そうした感情を露わにしている声の中に、小さな『嬉しさ』がある事を、花中はなんとなく感じ取るのであった。

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