ベイビー・ジェネレーションズ5

 キャスパリーグとミィは、共に夜明けを迎えたばかりの町を跳んでいた。

 早朝故に人の姿は殆ど見られない、が、皆無という訳ではない。ランニングをしている者や、パジャマ姿で新聞を取りに出ている者など、稀にではあるが外に人の姿はある。

 しかしキャスパリーグは気にも留めない。彼等の頭上を跳び越えるどころか、目の前を人外の速さで駆け抜ける事にも躊躇わなかった。人間が自分の存在を知る事と、行方知れずの我が子達を一刻も早く見付ける事。どちらが大事なのかなんて、比べるまでもないのだから。

 尤もそれは見方を変えれば、子供の事で頭がいっぱいな考えなし状態とも言い換えられる訳で。

「兄さんストップ!? すとぉーっぷ!?」

 キャスパリーグより幾分冷静なミィが、彼を後ろから呼び止めようとしていた。

 キャスパリーグの移動スピードは現在音速を超えており、ただ大きな声で呼んでも彼の耳には届かない。ミィは声帯を絞り、空気の塊を弾丸のように射出。超音速でキャスパリーグの耳にぶち当てていた。人間がこの声を聞けば、鼓膜どころか頭の中身が弾け飛ぶ威力があるのだが……頑強なキャスパリーグにとっては、ちょっとした大声でしかない。

 振り返った彼が苛立ち塗れの表情を浮かべた理由は、子供達探しを止めようとする、その言葉自体だった。

「止まってなどいられるか! クリュとポルが何処に居るのかどころか、どっちに行ったのかも分からないんだぞ!?」

「だぁーから落ち着けって言ってんの! あたし等が今向かってるのと逆方向に進んでるかも知れないでしょ!」

「ぐっ……それは……」

 しかしながら感情的な叫びなど、冷静で真っ当な意見の前では脆弱そのもの。キャスパリーグはすぐに反論を失い、口を閉じるしかない。

 妹の言う通りだ。感情に任せて行動するというのは、言い換えればただの運試しという事。落ち着いた方が遥かに効率的かつ確実に子供達を見付けられるのは、冷静に考えればすぐに分かる。

 感情的になってはならない。感情的にならざるを得ない状況だからこそ、その言葉がキャスパリーグの心にずしりとのし掛かる。

 キャスパリーグはアスファルトの上で急ブレーキ。舗装を粉砕しつつ、一旦足を止めた。

「……すまん」

「分かればよろしい。とはいえ、どうしたもんかね。手掛かりがある訳じゃないし……」

 ミィもキャスパリーグの傍に降り立ち、そのまま考え込む。キャスパリーグも妙案がないか、その頭を全力で働かせた。

 手掛かりなしの虱潰しで探すのなら、大桐家を中心にしてぐるぐると円を描くように捜索範囲を広げるべきか。されどもしも子供達が真っ直ぐ移動していたなら、この方法では追い付くのに時間が掛かる。いや、現在も移動を続けているとすれば、その距離は広がる一方だ。

 子供達が何処に向かったのか、それを知る術はないものか。考え込むキャスパリーグだったが……ふとその思考を妨げる『音』が聞こえた。

 音といっても、自然音ではない。生き物の声、もっと詳細に言うならば動物の声だ。それも『言葉』として発せられたもののようだと彼は感じた。

「……何か、声が聞こえてこないか?」

「あん? 声? ……いや、別に気になる声はないと思うけど」

 ミィにも意見を求めると、妹は頭を掻きながらそう答える。どうやらミィには聞こえていないらしい。

 確かにキャスパリーグは人間どころか、同種であるイエネコよりも ― 『圧倒的な身体能力』という能力の応用により ― 聴力に優れている。だがそれはミィも同じだ。自分と妹の耳の良さに大きな差があるとは、キャスパリーグには思えなかった。

 何か、おかしい気がする。

 おかしいとは思うのだが、或いは思うからこそ、彼は聞こえてきた声に意識を集中させた。すると声は不思議と少しだけ大きく、雑音のないクリアなものとなって聞こえてくる。聞こえてきた声を正確に理解しようと、キャスパリーグは意識を研ぎ澄ましていき……

 彼の聴力は、ついに捉える。

 微かな、本当に微かな『声』であったが……キャスパリーグはその声に聞き覚えがあった。否、忘れる筈がない。

 自分の子供の声を、どうして忘れるというのか。

「ッ!」

「え? ちょ、兄さん!?」

 考えるよりも先に、キャスパリーグは身体が動き出していた。声が聞こえていないミィからすれば、再び兄が考えなしに動き出したように思えたのだろう。ひとまず呼び止めようとしてくるのは当然だ。

 しかし今度のキャスパリーグは止まらない。あくまで本能的な確信に過ぎなくても、論理的な証拠など一つもなかったとしても……大切な我が子の声が聞こえてきたというのに、どうしてそれを無視したり、行動を抑えたり出来るというのか。

 キャスパリーグは明朝の町を、人目を憚らずに跳び越えていく。彼はこの町の作りにそこまで詳しくはない。だから何処に何があるというのは、実のところあまりよく知らないのが実情だ。されど彼は人間の知識を有しているため、目の前に現れた『区画』の名前ぐらいは知っている。

 商店街だ。

「クリュ! ポル!」

 キャスパリーグは我が子の名を呼びながら、商店街の大通りのど真ん中に降り立った。ミィも数秒遅れでキャスパリーグのすぐ傍に着地。兄妹で二度の地震を引き起こす。

 明朝とはいえ、客商売は比較的朝早くから始まる仕事。魚屋や八百屋は朝早くから動いており、コンビニであればこの時間帯でも普通に営業している。疎らながら人の姿があり、彼等は突然現れたキャスパリーグ達に驚愕の表情を向けた。

 しかし、誰よりもキャスパリーグの登場に驚いたのは――――道の真ん中で二匹寄り添っていた、クリュとポルの二匹なのだが。

「ぱ、パパ!?」

「えっ!? パパ、なんで此処に!?」

「お前達の声が聞こえたんだ。微かに、だけどな」

「えっ、声?」

「そ、そんな大きな声、出してたかな?」

 キャスパリーグが子供達からの問いに答えると、クリュとポルはますます困惑したように身動ぎする。

 ……確かに、少々奇妙だとはキャスパリーグも思う。声が聞こえた場所からこの商店街まで、数百メートル以上離れていた。聴力に優れるとはいえ、数百メートル先のこそこそ話が聞こえるほど、キャスパリーグの聴力は『非常識』ではない。

 仮に二匹の声が聞こえるのであれば、雑音もそれなりに拾った筈である。今この商店街をざっと見渡すだけで、幾人かの人間が活動しているのだ。クリュ達の会話より、段ボール箱を無造作に積み上げる音や、付近を通るトラックのエンジン音の方が大きいだろう。そうした雑音がなかったというのは、奇妙というよりも『異常』な状況である。

 何かが変だ。どうしてこんな、奇妙な事が起きている?

 疑問を抱くキャスパリーグ。しかし彼の抱いた違和感は、すぐに頭の隅に押しやられた。今はそんな『些末』な疑問に思考を割く事すら煩わしい。

 行方知れずだった我が子と再会出来た喜びに比べれば、そんなのは身体に付いた砂粒のようなものだ。

 自分の出る幕はないと判断したのか、ミィは前に出ず、むしろ後退りしていた。話に割り込まれると、確かに面倒になるかも知れない。妹に視線だけではあるが感謝の意を送り、キャスパリーグは我が子達と向き合う。

「お前達……どうして勝手に何処かに行ったんだ。心配したんだぞ」

 キャスパリーグは子供達に、此度の騒動の理由を問い詰める。キャスパリーグは一歩一歩、ゆっくり我が子達との距離を詰めていく。

 目的は叱るため、ではない。彼は自分の子供達が、どうしてこのような行動に出たのか、それを知りたいだけだった。その理由が身勝手でワガママなものであるなら、彼は哺乳類の親として我が子に鉄拳の一つでも落とさねばなるまい。しかし子供達にとって大切な、重大な理由があるのなら……それを叱るつもりはない。

「……パパがわたし達の事、どーでも良いって思ってないか、心配だったから」

 そうして耳を傾けていたところに返ってきたクリュの返答が、このようなものであったなら?

 キャスパリーグは我が子達の行動が、前者である可能性はゼロになったと判断した。

「どうでも良いと思っていないか? どうしてお前達の事を、どうでも良いなんて思うんだ?」

「だって、だってパパ、あの人間の言う事ばかり聞いてるんだもん!」

「あの人間が、どんな奴か知らないけど……パパの事、盗られるかもって」

「友達から聞いたのよ! 人間の中にはあの手この手で動物を飼い慣らして、自分の思うように操ろうとする奴がいるって!」

「人間が嫌いなパパが、あの人間とは普通に話してるし、言う事も聞いてて……だから、不安になって……」

「もしかしたら、わたし達の事なんてどうでも良くなって、探しに来てくれないかもって思ったら、怖くなって……」

 詳細を語るほどに、小さくなるクリュとポルの声。感情に従って行動を起こしたものの、いざ親を前にすると、罪悪感が込み上がってきたのかも知れない。

 何しろ突然いなくなった理由が「いなくなった自分達を探してほしかった」から……要約すれば、親の愛情を試した事に他ならないのだから。

 キャスパリーグは大きなため息を吐いた。子供達は親の反応から、こっぴどく怒られるとでも思ったのか。ビクリと身体を震わせ、互いに抱き合う……それがますますキャスパリーグの心に重圧を掛けてくる。

 先のため息は自分に対するもの。

 どうやら自分は愛情を求める子供達の訴えを、『他の用事がある』等というくだらない理由で見逃していたらしい。何時だかに本かテレビで、親失格な人間達についての特集を見た事があるが、もう人間の親を笑えないなと自嘲した。

「……すなまなかった。寂しい想いをさせてしまって」

 反省したキャスパリーグの口から出てきたのは、子供達への素直な謝罪の言葉。

 謝られたクリュとポルは、呆けたようにその目を丸く見開いた。パチパチと瞬きする姿は、愛らしいというよりも間抜けに近い。

 もしかすると、怒られると思っていたのかも知れない。

 もしもキャスパリーグに怒る箇所があるとすれば、その勘違いに対してだけだ。お前達の親を見くびるんじゃない、と。しかし子供の気持ちに気付けなかった自分が言ったところで、一方的な文句でしかない。

「不甲斐ないパパだな。自分の子供の気持ちに気付かないなんて」

「ぱ、パパは悪くないよ! 悪いのはパパを盗ろうとした人間の方だもん!」

「そ、そうよ! わたしは最初からパパの事信じていたもん!」

「えっ。いや、これクリュがやろうって言って」

「最初にこれやろうって言ったのは『アイツ』じゃない! わたしはそれに乗っただけ!」

「えぇー……」

 愛しのパパが来てくれた後は、なんとも醜い可愛らしい身内争いが勃発。後ろに下がっていたミィが呆れたように肩を竦め、キャスパリーグはくすりと笑みを零した。

 そしてキャスパリーグは姉弟ゲンカに夢中な我が子達の下へ歩み寄り……二匹を、そのまま抱き締める。

 いきなり抱き締められたクリュとポルは、呆けたように固まった。顔を動かし、互いの顔を見合う。

 だけど自分達の親が、自分達の事を今でもちゃんと愛してくれていると分かった途端、その目に涙が浮かんだ。

「う、ふぐ……ざみじがっだぁぁぁぁぁ!」

「バカバカバカぁ! ちゃんとボクとも遊んでよぉ!」

 クリュとポルの口から出てきたのは、謝罪ではなく批難の言葉。それは今まで言いたくて、だけど言えなかった本当の気持ち。

 キャスパリーグは黙って子供達の言葉に耳を傾ける。もう二度と、自分の子供の気持ちを見逃さないために。

 ――――さて、無事に問題は解決した、とキャスパリーグは思っている。

 実際問題これは、子供達のちっちゃな反抗作戦であったのだ。それも親の愛情が確かめられれば勝利という、恐らくフィアあの魚ならば「くだらない上に意味が分かりません」と答えそうなもの。だから解決はこのぐらいのあっさりで良い。

 しかし疑問が残る。

 何故二匹の移動経路に臭いが残っていなかった? それに二匹の声が、商店街から遠く離れた住宅地で聞こえてきたのは何故? こんな明朝に行動を起こした理由はなんだ?

 そして時折話に出てくる、『アイツ』とは誰だ? 『アイツ』とやらが自分の子供達を唆したのだとして……ならばその目的は?

 疑問は山ほどある。あるのだが、されどそれは後で確かめれば良いだろう。今は寂しがっていた子供達に、飢えていた分の愛情を全て渡したい。

 抱き締めてくる子供達の身体を、キャスパリーグも更に強く抱き締める。もう離すまい。見逃すまい。そう決心したキャスパリーグは、ただただ子供達を抱き締め続けた。

 何時までも、何時までも。

 ――――状況が何も変わらないのであれば、きっと夜が更けるまで続けたに違いない。

「はぁーい、くだらない三文芝居はそこまでにしてくださいねぇ」

 しかし親子の絆を確かめ合えたのは、心底こちらを見下した言葉が掛けられるまでの、ほんの短い間だけ。

 その言葉が聞こえてきた次の瞬間、キャスパリーグの背筋に冷たいものが走る。この感覚はかつて感じた事があり、同時に酷く恐ろしいものであると即座に理解した。

 そしてそれが、クリュとポルに近付いている。

「っ!」

「きゃっ!?」

「わっ!? ぱ、パパ!?」

 キャスパリーグが取った行動は、我が子二匹を遠くに投げ飛ばす事。

 自分の身の安全を後回しにしたキャスパリーグに、道路を突き破るようにして現れた『半透明な触手』が襲い掛かった! 神速の機動力を誇る彼も、子供を遠くに投げ飛ばすために体勢を崩し、挙句奇襲を受けては躱しきれない。

 半透明な触手はキャスパリーグの身体に巻き付き、その身を一気に締め上げた!

「ぐぁっ!? が、こ、これは……!?」

「兄さん!? 今助け――――ごふっ!?」

 肉親の危機にミィが動こうとした、が、意識が逸れた瞬間を狙うようにミィの背後から別の半透明な触手が現れ、今度はミィを拘束してしまう。ミィは頭以外の全身を締め上げられ、身動きが取れなくなった。

 なんとか吹き飛ばそうとキャスパリーグは力を込めた。見た目からしてただの触手肉塊ではなさそうだが、自分達はただものでない怪力の持ち主。力が通じない筈はないと読む。

 ところが、拘束は破れない。

 巻き付いた半透明な触手にどれだけ力を込めても、全くビクともしないのだ。彼の拳は一撃でダムを粉砕し、人類社会を容易く壊滅させるほどのものだというのに。

 一体これはなんだ? この半透明な姿は、まるであの時の――――

「まさかこれは、ぐっ!?」

 『半透明な触手』の正体に気付いた、直後キャスパリーグの身体に一層強い圧力が掛かる。ミィもまた締め付けられる力が強くなったのか、苦悶の表情を浮かべた。

「ちょ、ちょっと!? 何してんのよアンタ!? パパ達に酷い事はしないって話だったじゃない!」

 苦しむ親の姿を見て、クリュが声を荒らげた。まるでこの事象に心当たりがあるかのように。ポルも顔を青くしながら、辺りを見回して『元凶』を探している。

「ああ、それ嘘ですよ」

 その『元凶』はクリュが問い詰めてきた内容に、いけしゃあしゃあと答えた。

 刹那、商店街の道路の真ん中にあったマンホールの蓋が吹き飛んだ。それもただ外れたのではなく、粉々に吹き飛ぶという形で。頑強な金属の塊を粉砕するほどのパワーが、蓋に与えられたという証だった。

 次いで蓋が消えたマンホールより、『少女』が姿を現す。

 少女はまるで浮遊するかのように立った姿勢のまま、マンホールから現れる。熟れた稲穂のように美しい金色の髪を持ち、碧い瞳は宝石のよう。顔立ちは小学生低学年程度の非常にあどけないものであるが、美術品を思わせる整ったものであり、浮かべる妖艶な笑みは数多の男性を魅了するであろう。身に纏うのは足首が隠れるほど丈の長いエプロンドレスであるが、その服に下水に潜んでいた事を物語るような汚れは染み付いていない。

 そしてマンホールより踏み出した下半身、エプロンドレスのスカート部分により隠されたところから、無数の半透明な触手が伸びている。うねうねと蠢く触手はその動きによりアスファルトを粉砕し、自らの存在を顕示しているよう。

 自分と妹を拘束している触手の操り手は間違いなくコイツだ――――キャスパリーグが一目でそう判断するぐらい、現れた少女は自らの力を隠そうともしていなかった。

 そしてガタガタと震える子供達の姿を見れば、コイツこそが子供達の言っていた『アイツ』なのだと理解出来る。

「う、嘘って……どういう、意味よ!?」

「言葉通りですよ。あなた方のお父様を傷付ける事はないと言いましたが、アレは嘘です。私の目的は、当初からこの二匹の抹殺ですので」

「うぐぁっ!?」

「ぐぅっ!?」

「パパ!? おばちゃん!?」

 少女は今話している内容こそが事実だと証明するかのように、キャスパリーグの身体を締め付けている触手の圧力を強めてきた。ミィも悲鳴を上げた事から、同じく締め付けが強まったと思われる。

 全身に力を入れて踏ん張っているが、触手の締め付けは凄まじい。気を抜けば一瞬で潰される……そう思えるほどの圧だ。もしも力を込めるのが一瞬遅ければ、内臓も骨もぐちゃぐちゃに潰されただろう。

 一歩間違えば死んでいた。その意味ではこの少女が、こちらに対し冗談抜きの殺意があるのは疑いようがない。

 そんな恐ろしい化け物が、自分の子供達と対峙している。

 キャスパリーグには自分の置かれている状況よりも、そちらの方が遥かに恐ろしかった。

「クリュ! ポル! 早く逃げ、ぐがっ!?」

「うーんどうしましょうかねぇ。私の計画に乗ってくれた事には感謝していますが、あなた方を排除した後はこの子猫達には利用価値がない、というより不安要素になってしまいますからね……ここで片付けておく方が合理的という奴ですよねぇ」

 キャスパリーグの口許を半透明な触手で覆って黙らせた後、少女はまるで今夜の夕飯は何にするか決めるかのような、あまりにも軽い口振りでそう語る。

 全く緊張感も威圧感もない言葉に、クリュとポルは最初困惑した様子を見せるだけ。しかし時が経つほど、少女の語る話の意味を理解したのだろう。その顔が一気に青ざめ、身体が凍えるように震え始める。

「ひっ!? え、や……!?」

「う、あぅ……!」

 自分達も殺そうとしている――――少女の言いたい事を理解した二匹は、腰が抜けたように尻餅を撞いてしまった。

 キャスパリーグは焦りを覚える。脅すだけで実際には手を出さない辺り、恐らく少女にとって最優先の排除対象は自分達『大人の猫』なのだろう。二体同時に相手をするとなると他に力は割きたくないのか、クリュ達を拘束しようとすらしない。

 だから今すぐ逃げれば子供達は助かるかも知れないのに、脅された恐怖によりクリュもポルも身動きが取れなくなった。或いはそれを狙った上での脅迫か。

 強いだけではない。自分の力量を把握し、優先順位を付けつつ、念のための布石を打っておく……頭も良いのだ。

 まさかコイツは――――

「ぐ、がっ……!?」

 答えに辿り着こうとした、その直前にキャスパリーグの身体に掛かる圧が強まった。咄嗟に筋肉を膨張させ対抗しようとするが、今度の力はこれまでの比ではない。耐えきれずに筋肉の繊維が潰され、何本かの骨が折られてしまう。

 筋肉や骨にダメージが入れば、力が上手く出せなくなる。力が出なければますます圧に耐えられなくなり、一層深い傷を負う事になって……つまり最悪の悪循環に入ってしまった。油断した結果ならばまだしも、多少なりと本気を出した上で追い詰められたのでは、形勢をひっくり返すほどの力は出せない。

 万事休すか。ここから出来る事など、精々可能な限り足掻き、子供達が我に返るまでの時間稼ぎぐらいだ。

 骨が折れ、内臓が傷付いている身体に力を込めるのは、ただ締め付けられるよりも遥かに辛い。しかしそれでもキャスパリーグは我が子を守るため、全身全霊の力を己が身に加え続け――――

 やがて努力は報われる事となる。

 ただし我が子達が逃げ出すという形ではなく、少女が自分達に巻き付けていた触手を放すという行動を取ったがために。

 触手の拘束から解放されたキャスパリーグ、それとミィは、この隙を突くべく動き出そうとした。しかし負った傷が深く、また少女は猛然とした勢いで後退していたがために、優れた身体能力を持つキャスパリーグ達でも追いきれない……というのが追撃を取り止めた理由の一つ。

 もう一つの理由は、空から途方もないプレッシャーを感じたから。

 予感は正しかった。少女が素早く跳び退いた、その直前まで居た場所目掛け、空から何かが落ちてきたのだ。落下してきた『物体』はキャスパリーグの動体視力でも捉えるのがやっとな、超高速でアスファルトに激突。暴風と爆音を轟かせ、大地に巨大なクレーターを刻み込む。衝撃波により商店街の店が幾つか破損し、半壊したものも少なくない。

 途方もない破壊力を秘めた一撃だが、キャスパリーグの本能は察知していた。この破壊を振りまいた衝撃波は、全体のエネルギーから見ればほんの僅かな余波でしかないと。直撃を受ければ、怪我を負っていない時の自分でも受け止めるのがやっとであるとキャスパリーグは直感した。

 そしてこんな馬鹿げた、それでいて傍迷惑な攻撃を平然とする輩など、キャスパリーグには『一匹』しか心当たりがない。

【フシュウゥゥゥゥゥゥ……避けられてしまいましたか。面倒ですねぇ全く】

 未だ朦々と舞い上がる粉塵の中から、ぬらぬらとした銀色の輝きを放つ巨頭が現れる。

 出てきた頭はナマズのような形をしており、這いずるように粉塵から出てきた。頭に続き出てきた胴体はヘビのように細長く、手足もヒレもない。長さはざっと五メートルほどで、この騒ぎを目撃した人間達は悲鳴を上げて逃げ出した。「怪物だ!」と叫んでいたので、昨今人間達を騒がしている『怪物』の類と思ったのだろう。

 しかしキャスパリーグは知っている。コイツに比べれば、人間を喰う怪物すら百万倍マシな存在であると。

 ヘビかナマズのような姿をした『怪物』はその身をどんどん縮ませていき……やがて一人の美少女を形作る。

 金髪碧眼の容姿に、唯我独尊な笑みを浮かべた真の化け物――――フィアの姿へと。

「うきゅぅ……」

 なお、そんなフィアの脇に抱えられている花中の姿もあった。フィアが怪物姿の時はその『中』に居たようだが、先の落下攻撃によって目を回したのだろうか。

「花中さん到着しましたよー」

「わぶっ!? ぶ、ずべっ!?」

 花中が気絶している事に気付いたフィアは、手から出した水を花中の顔にぶっかけて目覚めさせる。文字通り寝耳に水をぶちかまされ、花中は溺れるように暴れながら意識を取り戻した。

 大切な友達に対してすらこの雑な扱い。もしも先の『攻撃』の直線上に出ていたら、コイツは迷いなくこちらを巻き込んでいただろう……キャスパリーグは頬を引き攣らせつつ、子供達の下まで後退。クリュとポルもキャスパリーグの下へと駆け寄り、抱き付いてくる。ミィもやってきて、キャスパリーグの横に並んで臨戦態勢を取った。フィアも正面を見据え、自分の足で立った花中はフィアに抱き付きながら同じく前を見る。

 ミュータント五匹と人間一人の視線を受ける金髪碧眼の少女は、しかし一歩たりとも後退りする事もなく、余裕のある笑みを浮かべるだけ。エプロンドレスの裾がふわりと舞う様は、まるで少女の優雅で余裕ある内面を示すかのよう。

 その少女が視線を向けるのは、今し方自分を強襲してきたフィア。

 ……そんなフィアを、少女は優雅な笑みを浮かべながら見つめているのだ。当のフィアが殺意に満ちた鋭い眼差しを送っているにも拘わらず。

「思ったよりも早かったですねぇ。お陰でその猫二匹を殺し損なってしまいましたが……まぁ、最低限の目的は達せたので良しとしますか」

「ふん。だったらとっとと逃げ帰りますか? 今なら見逃してあげますが……しかしこの私と戦うつもりなら手加減はしませんよ」

「おやまぁ、怖い怖い。折角会えたのにいきなり殺害宣告なんて、悲しくて涙が出てしまいますねぇ。ほぉーら、どばどばー」

「あ、あの……あなた、一体何者なんですか……どうして、ミィさん達を……」

 まるで水道の蛇口を全開にしたかのようなあり得ない量の ― つまりわざとらしい ― 涙を流す少女に、花中は責めるような口調で問い詰める。

 すると少女はピタリと涙を止め、文字通り耳の近くまで裂けるように口許を歪めて笑った。

 明らかに人間ではない、それどころか『普通の身体』ではない事を示す笑い方。ただ不気味なだけでなく、あたかも「そんな事ぐらい知っているでしょう?」と言いたげで……こちらの心すらも見透かされているような気持ちになる。

 キャスパリーグは思わず息を飲む。彼ですら、少女の笑みに僅かながら『恐怖』に近しい感情を覚えたのだ。力のない人間である花中や、幼いクリュとポルが怯えたように身を仰け反らせるのは仕方ない。

 そうした者達の反応を見て、何を思ったのか。少女は裂けている笑みを徐々に小さくし、普通の微笑みに戻した。次いで自らのスカートの丈を摘まみながら、深々と会釈する。

 しばらくして上げた顔で見るのは、自身と瓜二つの顔をしたフィア。

 ……きっと、誰もが『答え』に辿り着いている。これだけ『あからさま』なのだから、答えに辿り着くのは簡単だろう。しかしそれでも、受け入れ難いものがあるとキャスパリーグは感じた。

 こちらのそんな内心など、恐らく少女は読んでいるのだろう。読んだ上で微笑み、こちらを嘲笑うのだ。

 故に、少女は誇るように語る。

「ご挨拶が遅れてしまいましたね。初めまして、あなたの可愛い娘の一匹ですよ――――お母様」

 フィアを見つめながら、誰もが知っているその自己紹介を。

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