大桐玲奈の襲来9

「こ、の――――!」

 フィアの本体が出てきたのを目の当たりにし、栄は猛然と駆け出した。

 フィアの能力は圧倒的だった。それこそ栄を簡単に蹴散らすほどに。しかし自らがフナであると名乗り、そのフナが姿を現した。つまり今は本体が剥き出しという事である。打倒する最大のチャンス。仮にあの本体のようなものが本物でないとしても、攻撃をしなければ倒せるものも倒せない……ならばこの機会を逃す手はない。

 故に栄は、全速力でフィアに突撃した。

 走る栄の身体の前方部分に、白い靄のようなものが現れる。その名はソニックブーム。物体が音速を超えた時に生じる、空気の塊だ。栄の肉体は、音速以上の走行を可能とするまで強化されたのである。音を超える速さとなれば、たかが数メートルの距離を詰めるのに一秒も掛からない。

 瞬きする暇も与えず肉薄した栄は、外気に晒されているフィア本体目掛け拳を振り上げた

 瞬間、フィアの本体が

 異様な光景により栄は理解した。この頭もまた偽物であり、本体などではないと。されどこれは予測していた展開の一つ。真偽に拘わらず打撃は与えるつもりなのだから、これ自体は行動を変える理由にならない。

 問題は、変形した魚の頭が大口を開いて栄の手に噛み付いた事。

 栄の手を噛んだフィアの頭は勢い良く振られ、栄の身体をぶん投げる! たった一振りで得られた加速は――――栄の最高速度すらも凌駕していた。

「ぐぬぁあうぅううっ!?」

 コントロールの利かない速度で飛ばされ、栄はその身を幾度となく公園内の樹木に叩き付ける。今の栄の質量と速度からすれば、樹木の強度など紙切れのようなもの。次々と粉砕し、けれども殆ど減速出来ず……ついには公園の外まで投げ出された。

 コンクリート製の道路に身を打ち付け、跳ねた勢いでガードレールを粉砕し、路駐していた自動車に当たってようやく栄の身体は止まる。飛ばされた距離はざっと五十メートル。ただの人間なら今頃肉塊になっていただろう。英雄的力を得た今の栄ですら、蓄積したダメージは小さくない。

 このまま戦い続けても勝ち目はない。フィアと自分の間にある力量差を察した栄は、強く唇を噛み締めた。

 ――――対するフィアも、栄から数十メートル離れた位置で顔を顰める。

「んー……ついつい強く投げ過ぎましたか。見えなくなっちゃいましたね」

 思いっきりぶん投げた事で、栄を見失ってしまったがために。

 実のところフィアは栄の動きをろくに把握していない。何しろ辺りが暗い所為で、栄の姿が殆ど見えていないのだ。人間より遙かに優れた反応速度を持つフィアであるが、見えないものを避けるのは ― 頭上からやってくればなんの問題もないのだが ― 流石に難しい。

 そのため接近したものを自動的に排除するよう、水で出来た『身体』に仕込みをしていたのだが……ちょっとばかし加減を間違えたらしい。あまり遠くに投げ飛ばしたら、逃げられてしまう可能性もあるのに。

 逃げられてもフィア自身は困らないが、栄を捕まえるか殺すかしてほしいと花中に頼まれているのでそうもいかない。どっちかじゃないと、きっと花中は笑ってくれないだろう。仕方ないと思いながら、フィアは投げ飛ばした栄により出来た『破壊の跡』を歩く。暗くて周囲は全く見えていないが、なんとなく地形の雰囲気は感じられたので歩くのに支障はない。どんどん先へと突き進む。

 やがて公園の外側まで行けば、街灯が照らす道路まで出た。フィアはくんくんと鼻を鳴らし、きょろきょろと辺りを見回して栄の行方をのんびりと追う。

 ……人間からすれば、フィアの動きはあまりに暢気なものである。

 この公園の周りは、高層ビル等が建ち並ぶ近代的な都市なのだから。時間帯も深夜と呼ぶほど遅くなっていない。都市にはまだまだたくさんの人間が居て、危険を知らずに歩き回っている。

 そして栄は人間を襲う。

「きゃああああああああっ!?」

 何処かから聞こえてきた女性の悲鳴が、何が起きているのかを物語った。

「んぁ? ……そーいえばアイツ人間を襲うんでしたっけ?」

 今更のように栄の『危険性』を思い出し、思い出してからもペースを崩さず、フィアは悲鳴が聞こえた方へと歩き出す。

 交差点の角を右へと曲がったフィアが見たのは、人間にとっての地獄絵図だった。

 道路に散らばる無数の衣服。

 壁面が砕かれたビルの数々。

 ドアを破壊された自動車達。

 そして――――三人ほどの人間と、伸ばした腕や舌が癒着している『怪物』。

「ひいっ!? た、助」

 舌先と癒着している中年男性は、満足な断末魔すら上げる事が出来ずに栄の中へと取り込まれる。

「ぎぃやぁっ!? あが、ががが」

 肩と癒着している青年は悲鳴と呻きを漏らし、暴れる暇もなく栄の手から吸い込まれる。

「いやぁああごおおおおおぉぉ……」

 右手と癒着しているうら若い乙女は可愛らしい顔を一瞬で干からびたものにして、肩から吸われて栄と一つになる。

 瞬きする間に次々と命が散っていく。踏み潰されるアリの行列のように、人命が軽々と消えていった。そしてその三人が消えてしまうと、もう、この辺りに人の姿は一つとして見られない。

 フィアに投げ飛ばされた栄は、フィアが追い着くまでの間、都市の人間達を襲っていたのだ。栄の身体と癒着してしまった人間達はあっという間に吸い込まれ、服だけを残してこの世から消え去る。辺りに散らばっている大量の衣服は、既に栄が後の残りカスだとフィアも理解した。

 されど、栄の真意にまでは考えが及ばない。

「私を無視して食事とは良い度胸ですねぇ。あれだけ痛め付けたのにまだ私を嘗めてるのですか?」

 『ただの食事』だと思ったフィアは、不愉快さと呆れを隠さず栄に呼び掛ける。

 すると栄はくるりとフィアの方へと振り返り、薄気味悪く笑った。

 刹那、メキメキと栄の身体から激しい音が鳴り響く。僅かながら身体が膨張し、背中から突起のようなものが生え、皮膚の表面に分厚い血管が走る。

 肉体改良だ。新たに大量の人間を吸収した事で増大したエネルギーを、より効率的に使うための変異。膨張した身体はいよいよ元の体躯では増大した力を抱えきれなかったが故の変化であり、背中に生えた突起は止め処なく溢れるパワーを制御するためのもの。増大した血管は肉体が要求するエネルギーを迅速に循環させるため。

 栄の肉体は更なる強化を遂げたのだ。

「おや? なんか見た目が変わりましたね」

「……ふ、ふははははっ! ただ変わっただけじゃありませんよぉ」

 姿形が変われば、他者に無関心なフィアでも気付く。尋ねると栄は高笑いをし、大きく身を仰け反らせて自信を露わにした

 次の瞬間、栄はフィアの背後に立っていた。

「……ん?」

 フィアが栄の姿を見失った、その時既に栄は動き出していた。振り上げた腕は音速を超え、下ろす時には更に加速する。

 栄の腕はフィアの頭の真横に直撃。発生した打撃の威力は凄まじく、衝撃波が周囲に広がった。コンクリートの舗装が捲れ上がるように剥がれ、周りに建つビルは窓ガラスが吹き飛ぶ。

 人間であれば近くに立つだけで全身が砕け散るような一撃。ついにはフィアも

 しかし未だその『身体』は健在。

 それどころか栄の攻撃を受けたフィアの『身体』は、さながら絡繰り人形が如く起動した。加えられた衝撃により水分子が僅かに移動。隣接する分子を動かし、動かされた分子はその隣の分子を突き飛ばす……連鎖する分子運動はフィアの意思を介さず、何もかもが自動的に動く。

 これがフィアの自動攻撃の原理。そしてこの行動は受け止めたエネルギーによって動かされるため、敵の攻撃が強ければ強いほど速度を増す。

 故に栄の一撃から発動した此度の反撃は、公園内とは比較にならないほどの超高速。ぐるりと百八十度首を回すや、フィアはフィア自身が意識せぬまま栄に噛み付こうとした。

 が、空振り。

 栄がフィアが反撃に転じるよりも早く、その場から離れたからだ。元より栄の動きなどろくに見えていない以上、フィアには逃げた栄を追うなんて真似は出来ない。

 ましてや栄が浮かべた勝ち誇った笑みなど、捉える事すら出来ていなかった。

「遅い、遅い遅い遅いっ!」

 栄は楽しげな声を上げながら、更に動きの速さを増していく。

 栄は、この道で大勢の人間を取り込んだ。

 その数、三百七十六人。人でごった返す歩道に運良くぶち当たった結果、真っ直ぐ突き進むだけで幾らでも人間を襲えた。今までに吸収した百十九人と併せて、四百九十五人もの人間が栄の身を形作る。

 たった五十人ちょっとしか取り込んでいない段階でも、怪物由来のテクノロジーすら凌駕してみせたのだ。五百人近く集まった栄の肉体は、既に怪物の域をも超えようとしていた。

 超音速で駆け回りながら、栄はフィアへの攻撃を加える。手刀の一撃はその気になればビルさえも両断するだろう。キックは大地を割る事さえ容易い。一撃一撃が人類文明をぶち壊す破壊力を秘め、余波だけで都市を破壊していく。

 栄の動きが見えないフィアは、一方的に嬲られ続けた。

「あはははははっ! そろそろ観念してはどうですか!」

「……………」

「耐えるので精いっぱいですかぁ? それならそろそろ楽にしてあげましょう!」

 煽り言葉になんの反応も示さないフィアに、いよいよ栄は止めを宣言。

 目にも留まらぬ速さでフィアの側面へと回った栄は、これまでよりもたっぷりと ― しかし実時間にして瞬き一回分もないような刹那に ― 力を溜め、腕を高々と上げた。振り下ろされる一撃の威力がどれほどのものか栄本人にすら分からない。だが、エネルギー量だけで言えば都市一つ壊滅させるに足るものだった。

 栄はそれほどの力を、なんの躊躇なくフィアの頭部へと振り下ろす。本体が『身体』の何処に潜んでいようと関係ない。縦に真っ二つにすれば同じだと、垂直に手刀を振り下ろした。

 ――――もしも、栄が多少なりと冷静だったなら。

 或いは気付けたかも知れない。フィアの身体は、殴られた際首こそ傾げたが……足についてはどれだけ攻撃を受けても、一歩動くどころか、よろめきすらしていない事に。表情はつまらなそうなもので、苦悶の感情などこれっぽっちも覚えていないと。

 しかし今の栄は、己の得た力にどっぷりと溺れていた。湧き上がる力により己の勝利を確信していた。

 だから。

 栄の事を見向きもしていないフィアの拳が、真っ直ぐ自分目掛けて飛んでくるとは思いもしなかった。

「は?」

 栄は呆けたように、ぽつりと声を漏らす。漏らすぐらいの猶予はあった――――あったのはそれだけだ。

 フィアの拳は、栄の手刀を遙かに上回る神速で振るわれたのだから。

「ぁばぎぃあがっ!?」

 避けるという意思すら持つ前に、フィアの拳は栄の顔面に叩き込まれる!

 超音速で動くためのエネルギーを循環させている肉体が、たった一発のパンチすら受け止めきれない。硬質化した顔面の表皮がガラスのようにひび割れ、砕け散る。併せて多量の血が噴き出し、それでも衰えない衝撃により栄の身体は空を飛んだ。

 地面に落ちた栄は舗装された道路を削り飛ばしながら転がり、行く手にあったビルの一棟と激突する。ビルからすれば小さな塊である栄であるが、打ち付けられたスピードは高速。ビルには大穴が空き、大量の粉塵を撒き散らす。もう少し穴が大きければ壁の崩落が連鎖し、倒壊も引き起こしたかも知れない。

「……んー……もうちょっと角度を正確にしたいですね。なら……」

 尤も、フィアは自らが作り出した惨状にさして興味を持たず、栄を殴り付けた自分の手を見るばかり。

 それは栄が突っ込んだビルの中から、爆発音と悲鳴が聞こえるようになっても変わらなかった。

「きゃああああああっ!?」

「うわ、わ、わあぁあっ!?」

「ひいぃぃぃいいっ!?」

 声だけで伝わってくる、阿鼻叫喚の絵面。ビルの一部が吹き飛び、瓦礫やガラスが飛び散る。五階以上の高さから意を決して跳び降りる人間もいたが……伸びてきた青白い手に捕まり、一人残らず引きずり込まれた。

 時間にしてほんの数分。フィアにより空けられたビルの大穴が、爆発するように砕け散った。再び舞い上がる粉塵と爆音。

 その中からゆっくりと、栄が歩きながら出てくる。

 栄はおどろおどろしい表情を浮かべながら、フィアを睨み付けた。

「ふぅー……! ふぅぅぅー……!」

 唸るような吐息。血走る瞳。ひびの入った顔面の皮膚は呼吸の度にギチギチと音を立て、痛々しく蠢く。剥き出しにした犬歯が徐々に伸び、埃塗れの身体が激しく躍動している。

 そしてだらりと下げた両腕には、癒着した若い男女の姿があった。

 ビルの中に逃げ込み、隠れていたカップルだろうか。男の方は既に顔が半分以上吸い取られており、ぴくりとも動かない。女の方は首の部分と栄の手が癒着しており、致命傷こそ避けていたがただそれだけ。逃げる事など叶わない。

 栄は一際大きく息を吐くと、二人をちゅるんと吸い尽くした。新たなエネルギーを得たからか顔の傷が瞬時に塞がり、むしろ殴られる前よりも艶を増す。呼吸も落ち着きを取り戻し、肉体はより大きなエネルギーを有するようになっていた。

 されど栄は笑わない。

 昂ぶらせた激情に突き動かされ、栄はフィアの背後へと回り込む。フィアは栄がほんの数十分の一秒前に居た場所を見つめたまま。栄の動きにはピクリとも反応していない。

 栄は渾身の力を込め、ビルをも切り裂く手刀を放った

 瞬間、フィアはやはり栄を見ずに、拳を背後に向けて放ってきた! 栄にとっては予想していた通りの攻撃……しかし予想以上に速く、そして先程よりも狙いが正確。

 フィアの拳は、栄の胸部を殴り付ける! 最早戦車砲だろうと弾く筈の胸骨が、バキバキと不穏な音を立てた!

 走る激痛に顔を顰めるも、栄は攻撃の手を緩めない。

「お、のぉれえええええええっ!」

 咆哮と共に、栄は即座に次の攻撃を仕掛ける!

 超音速の手刀。

 目視不可能な蹴り。

 軟体化を活用した予測不能の軌道。

 あらゆる手を尽くし、栄は全力でフィアを屠ろうとする。ビルの中で新たに大量の……六十一人もの人間を取り込んだ。五百を超える人数が一体化し、強大な力を手に入れた。どんな敵だろうが、どんな怪物だろうが、今の自分なら倒せる。栄はそう確信していた。

 していたのに。

「ごぶっ!?」

 手刀が届く前に、自分よりも速い拳が打ち込まれる。

「ぶげっ!?」

 蹴りはフィアの身体から生えてきた触手に巻き取られ、あっさりと体勢を崩された。

「ぎゃばっ!?」

 軟体化して作り出した複雑な攻撃の軌道を、予測していたかのように潜り抜けた一本の触手が顔面を殴り付けてくる。

 フィアには、攻撃が一切届いていない。だけど栄は情けないほど反撃を受けている。

 更に進化した筈の栄は、先程以上の惨めな醜態を晒す事となった。尤も、やられている側である栄に、惨めさを感じるだけの余裕などないが。

「(なん、ですかこれは……!? まるで、攻撃が読まれている! しかも、どんどん正確になってるなんて……!)」

 自分の繰り出した攻撃に一方的な反撃を返され、栄の頭の中は混乱で満たされていた。どうしてこんな事になっているのか理解しようとするが、さっぱり分からない。

 本当は見えていると考えるにはあまりにフィアは無反応。死角への移動も、真っ正面からの攻撃も、何一つリアクションを取らない。いや、それとも反応しているのか? フィアの本体はフナ。この『身体』は入れ物に過ぎない。無反応に見えているのは表面上だけで、本当は的確にこちらの動きを追っている……?

 本体が見えない故に、フィアの本心がまるで読めない。それが栄の混乱を一層後押ししていた。

 さて、フィアの方だが――――とても正直な彼女は、最初から隠し事などしていない。フィアはどんな些細な反応もしっかり『身体』に出てくるタイプであり、即ち無反応というのは本当に栄の動きが何も見えていない事を意味する。

 見えていなくても、反撃するだけなら簡単だ。

 フィアは自分の周囲に、不可視の『糸』を張り巡らせていた。しかしそれは、普段好んで使う切断攻撃用のものとは性質が異なる。その『糸』は極めて細く、単細胞生物の膜すら破れないほど無害だった。当然栄の強烈な攻撃に耐えられる代物ではなく、栄が何かを繰り出せば簡単に切れてしまう。

 フィアはこの『糸』の切れ方から、栄の攻撃を予知していたのだ。無論自分の頭では判断せず、『身体』に組み込んだ自動反撃の仕組みを利用してではあるが。フィアがしているのは、攻撃時の感触から少しずつ『身体』の反応の仕方を変える事ぐらいである。

 強いて難点を挙げるなら、敵の攻撃が当たる前に放つ都合、反撃時に使用するエネルギーは完全な自前となった事か。とはいえその気になれば数億トンの水をも動かせるフィアにとって、栄をぶん殴るためのエネルギーなど些末なものに過ぎない。

 そうとは知らずに栄は攻撃を続け、攻撃をまともに当てる事も出来ず、カウンターを喰らい続ける。血反吐を吐き、顔面が砕かれ、骨が折れようとも、彼女は止まらない。

「あのーいい加減諦めませんか? 私としてもそろそろ飽きてきて」

「五月蝿いッ!」

 あまりの執念にフィアが飽き飽きしてきたが、栄は怒りを纏った言葉で黙らせる。

「あなたには分からない! 私の身には、私の中には今、五百五十六人もの命がある!」

「んー? それはあなたが食べた人間の数ですか? 随分とたくさん食べましたねー」

「そうよ! たくさん! たくさんの人間を取り込んだ! 彼等は私に『協力』してくれている! 私の力となってくれている!」

「……はい?」

「私には彼等の想いがある! 私は、私は、私は……!」

 涙ぐみながら、栄は拳を降り続ける。

 もう、今の栄は『夢路栄』ではない。

 五百五十六もの人間を取り込み、一体化した。混ざり合ったのは体細胞だけではない。脳の神経細胞だって結合が弛み、ごちゃ混ぜになっている。脳の神経が人格を形成するとして、その神経が他人のものとぐちゃぐちゃに混ざればどうなるか? ……栄の元の人格など、殆ど残っていなかった。

 それでも彼女には、人間を守りたいという意思がある。

 取り込んだ五百五十六人は自分の『協力者』であり、自分が守らねばならない人々だ……少なくとも栄は、本気でそう信じていた。細胞レベルで一体化しても、この身には大勢の心が宿っていると妄信した。ならばその想いを無下にするなど、どうして出来るのか。

 恐ろしい怪物を倒さねばならない。

 人類を脅かす脅威に勝たねばならない。

 それが自分の力となってくれた『協力者』への誠意である――――常人には理解出来ない思考ではあったが、栄はそんな信念を抱いていた。

 だが、

「五月蝿いですねぇ」

 フィア化け物にその想いは届かない。

 正面に立った栄の攻撃を察知し、水触手達が栄に襲い掛かる。ただし打撃は与えず、手足に巻き付いた。身動きを封じられた栄はハッとしたように目を見開くが、もう遅い。

 栄を捕まえた水触手は大きくうねり、栄を道路に叩き付けた!

 無論折角捕まえて一回で終わるなどあり得ない。何度も何度も、執拗に叩き付ける。衝撃により道路の舗装は吹き飛び、中の土も抉れ、クレーターのような跡地が出来上がった。

 最後に悠々と栄を持ち上げ、フィアはじろじろと観察。栄はピクピクと痙攣するばかり。瀕死である事を確かめると、ゴミのように彼女を投げ捨てた。街路樹の一本が投げられた栄を受け止め、栄の身体は力なく地面に転がる。

「さぁーてそろそろ死にましたかね? 死んでなかったら花中さんのお母さんに引き渡すとしましょうか。どっちにしろ褒めてもらえるのなら気が楽ってもんですねー」

 スキップ混じりの足取りで、フィアは栄の下に歩み寄る。街路樹に寄り掛かったまま動かない栄の顔を、ひょいっと覗き込んだ。

 そこでフィアは、少しだけ眉を顰める。

 栄の顔に浮かんでいたのが、笑みだと分かったがために。

「……ああ、そうですか。この程度では、足りませんか」

「んぁー? まだ足掻くつもりなのですか? そーいう事なら私としてもそろそろ面倒なので細切れにして殺しちゃいますけど」

「ええ、そうです。もっと、もっと協力しませんと……」

 フィアのやる気のない威圧を無視するように、栄はぶつぶつと独り言を呟くばかり。どうやら諦めるつもりはないらしいと判断したフィアは、宣言通り細切れにして殺してやろうと思い攻撃用の『糸』を作り上げる。

 フィアは栄の言葉など端から関心がない。彼女が何を呟こうが、何を言い残そうが、どんな信念を持っていようが、そんなものは自分とは関係ないからだ。

「やれやれ。数が多いので、調整に時間が掛かってしまいましたよ」

 故に栄がこの言葉を言い放っても、フィアは攻撃の手を止める事も、早める事もしない。

 だからこそ栄は、無防備なフィアの手を掴む事が出来た。

「む?」

 手を掴まれ、フィアは首を傾げる。そのフィアの前でゆっくりと栄は立ち上がった。

 大地をしっかり踏み締める姿に、もう弱々しさはない。握り締める拳に、貧弱さなどない。

 今、フィアの前に立つのは一人の『巨人』だった。

「やぁっと力が身体に馴染んできました。あれですね、数が多いと制御も難しいです」

「そうですか。なんだか先程よりも調子が良さそうですね」

「ええ、とても。全身に力が漲っています。今までの自分が、子供だったような気分です」

「ふーん。随分と強気なようで」

「いえいえ、そんな……」

 フィアの見くびった物言いに、栄は手を横に振りながら答える。

 ただしその答えは、謙遜などではない。

「強気だなんてとんでもない。事実を語っただけです」

 むしろその言葉は自信に溢れていて、

 次の瞬間、フィアの『身体』に強烈な打撃が加わった!

「……むっ」

 フィアの身体が僅かながらよろめく。これまでどんな攻撃を受けても揺らがなかった体躯が、確かに仰け反った。

 フィアを仰け反らせたのは、真っ直ぐ伸びた栄の拳。

 その一撃は、これまでのものとは比較にならない威力を宿している――――フィアがそれを理解した時、栄は既に動き出していた。

「しゃあッ!」

 掛け声と共に、栄はフィアに体当たりを喰らわせる! 拳以上のエネルギーに、ついにフィアは数歩後退りする事を強いられた。

 されど栄の攻撃は終わらない。後退りしたフィアの胸部に、筋肉が脈打っている脚部による一撃を与えた

 瞬間、強力なインパクトが発生する。

 生み出された衝撃の殆どはフィアの身体が受け止めた。周りに散ったのは、全体の数パーセント程度のエネルギー量でしかない。だが、その数パーセントのエネルギーはアスファルトの道路を捲れ上げていく。

 フィアが大きく仰け反るのと共に瓦礫と粉塵が舞い上がり、霧のように辺りを覆おうとした。

 その汚らわしい霧は、キックに続けて栄がフィアへと打ち込んだ拳によって一瞬で吹き飛ばされる。台風以上の大暴風が、ただの拳の余波によって生まれたのだ。

 加えて拳は一発ではない。

 栄が放った拳は、ほんの瞬きほどの時間で十数もの数に達した。フィアは更に仰け反り、後退りしながらバランスを取ろうとする。

「ふっ!」

 その隙を栄は見逃さなかった。

 栄はフィアへと跳び掛かり、全体重をフィアへと乗せる。五百人以上の質量が加わり、フィアの不安定な姿勢が更に傾く。

 止めとばかりに栄は背中から伸ばした肉塊を道路へと打ち付け、その肉塊を収縮――――引っ張るようにして地面に向けて力を込める!

 ついにフィアは、栄の力によって押し倒された。

「ふっはははははっ! はははははっ!」

 笑いながら、栄はフィアを殴り続けた。一発でビルすら砕くパワー。それが容赦なく、立て続けにお見舞いされる。

 カウンターは来ない。来たところで構わない。栄は自分の身体の中にある力が、まだまだこんなものでは済まないと理解していたから。今更カウンターが来たところで何も怖くない。

 途方もない力に愉悦を覚え、爛々とフィアを殴り続ける。フィアはされるがまま。何十発、何百発……打ち込まれる度に周囲の大地が衝撃で舞い上がり、波打つ。地震と呼ぶにはあまりに不自然な揺れは周りのビルを振るわせ、倒れさせた。中にはフィアと栄目掛けて倒れ込むものもある。尤も、そのビル達は栄が放つ拳の余波に押し退けられ、逸れるように軌道を変えさせられたが。

 最早天災が如く破局。それを繰り出しているのは、交互に繰り出されるたった二つの拳だ。

 そんな右手と左手を、栄は頭上でがっちりと組んだ。小さな手が、大きな握り拳となり――――

「これで……止め!」

 喜々とした掛け声と共に、振り下ろされた。

 フィアの胸部に拳が打ち付けられた瞬間、ふわりと白い膜が周囲に広がった――――刹那、爆風が都市に吹き荒れる! あらゆる建物が薙ぎ倒され、舗装された道路は落ち葉のように舞い……半径数十メートルもの巨大なクレーターを作り上げた。

 さながらそれは、巨大隕石の衝突。

 周辺地域の環境を激変させ、絶滅をも起こしかねない破壊だった。一個の生命体が受けるにはあまりに巨大である。

 こんなものを受けて生きている生物などいるものか。仮に生きていてもどうという事はない。まだまだ自分の力の底は見えていない。もっともっともっと、更なる力を発揮するまでの事……栄は勝利を確信し、獰猛な笑みを浮かべた。

 そしてフィアは、

「……良い一撃ですねぇ」

 朗らかで優しい笑みを浮かべていた。

 一瞬、栄は口許を引き攣らせる。しかしすぐに元の、勝ち気な笑みへと戻した。

「へぇ、まだ生きていますか。どれ、だったらもっと強い力を」

「やっぱり多少は手応えがないと面白くないですからねぇ。ちょっとだけやる気が出てきましたよ」

「……は?」

 自分の言葉を無視してぼやくフィアに、苛立ちを覚えた栄は顔を顰める。

 顰めて、顰めて、それはやがて苦悶の表情に変わった。

 フィアがぎゅっと掴んでいる右腕から、痛みが走っているのだから。

「ぅ、ぐ……ぐ、ぐううぅぅぅ……!?」

 栄はフィアの手を振り解こうと身を捩る。が、フィアの腕は微動だにしない。空いている左手で引っ掻いても、だ。

 五百人以上もの『協力者』が一致団結しても、未だフィアの力の方がずっと強いのか?

 突き付けられた現実を忌々しげに睨む栄だったが、しかし段々とその顔に、今度は困惑が浮かび始めた。

 いくら力を高めても、フィアの腕はピクリとも動かない。

 全く、これっぽっちも。栄は内側で渦巻くエネルギーを解放してどんどん力を高めているのに、フィアの手は何もされていないかのように不動を貫く。普通、掴んでいるものの力が高まれば、そのほんの僅かな瞬間ぐらいは揺らぐ筈なのに。

 何かがおかしい。

 嫌な予感を察知し、栄は身体を軟体化させようとした。どんな力で掴もうが、柔らかくなれば隙間から抜け出せる。仮に千切られても腕の一本二本再生するぐらい造作もない。欠けた分は新たな『協力者』を得れば済む。

 なのに、栄は逃げ出せない。

 軟体化させた筈の腕が、柔らかくならなかったのだから。

「……!? な、なんで……!? ぐっ! この、このっ!」

「まぁまぁそんな必死に逃げなくても良いじゃないですか」

 半狂乱で暴れる栄にフィアは優しく声を掛けながら、ゆっくりと、しなやかに身を起こす。未だ栄の伸ばした肉塊は大地を貫き、圧を掛けているにも拘わらず。栄は押し返され、フィアの上から退かされてしまう。それでも腕の自由は戻らず、栄は困惑するばかり。

「今から本気で遊んであげるんですから」

 そんな栄に向けていた朗らかな笑みを、フィアは一瞬で狂気に染め上げた。

 栄の全身に冷たいものが走る。理性とは異なる、野生の本能が全身に警鐘を鳴らしていく。逃げられないと分かった筈なのに、全身の細胞が一斉にフィアから離れようとして仰け反った。

 されどフィアに掴まれている腕だけはどうにもならなくて。

 フィアがその腕を軽々とへし折った時、栄は激痛を覚えた。

「ふ、ぐぎあああああああっ!? あが、あ、あああああああっ!?」

 悲鳴を上げ、栄は目を白黒させる。

 おかしい。何故痛みを感じる?

 軟体化によって、神経細胞も自在に組み替えられる。即ち軟体化すれば神経細胞のつながりも解かれ、脳に『痛み』が到達する事はあり得ない筈なのだ。

 起こり得ない事態に戸惑う栄だったが、戸惑いの感情はすぐに消える。ついに立ち上がったフィアが自分を見下ろしてきたが故に。

 そして、栄は知る。

「力の加減はしてあげますから三分は持ってくださいね? 折角やる気が出たのにすぐ終わったらすごーく残念な気持ちになっちゃいますから」

 本当の『怪物』が、どんな存在であるかを――――

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