輪廻拒絶4

「……ごめん、大桐さん。もう手遅れっぽい」

【え? それはどういう……】

 加奈子の謝罪に、スマホの向こう側に居る花中からキョトンとした言葉が返ってきた。

 不安になる言葉を告げられ、優しい花中はこちらの安否を心配してくれているだろう。その不安を少しでも和らげるために、出来る事ならきちんと説明しておきたいと加奈子も思っている。

 しかしそんな悠長な時間を、目の前のイノシシは与えてくれなかった。

「フォギオオオオオオオオオオオッ!」

 大口を開け、発せられたのは咆哮。

 車の窓のみならず、車体そのものが揺さぶられるほどの大声量だ。だが加奈子は耳を塞ぐという行動を取れない。あまりの存在感に、恐怖を通り越して尊敬や畏怖の念を無意識に抱いてしまう。

 平次も美香も黙り、隣に座る田沼も呆けたように口を開いていた。人間達の誰もが、眼前に君臨した生命の力強さに打ちのめされる。

 尤も、何時までも呆然としていられた訳ではない。

 イノシシは、加奈子達が乗る車目掛け突進してきたのだから!

「っ!? 全員掴まれ!」

 イノシシの動きに真っ先に反応したのは、田沼であった。張り上げた大声は加奈子達に我を取り戻させる。

 掴まれと命じられ、加奈子は一番手近なもの……着用していたシートベルトを両手で握り締めた。スマホはシートベルトを掴む際手を開いた拍子に落ち、吐瀉物塗れの足下に転がる。全てが咄嗟の行動で、意識なんてなかった。

 しかしその無意識がなかったら、イノシシが激突した衝撃で車外にかも知れない。

 それほどの威力で、イノシシは加奈子達が乗る車に激突したのだ!

「きゃあああっ!?」

「うぐわあぁっ!?」

「ひゃあぁっ!?」

 車内まで伝わる衝撃に、美香や平次も悲鳴を上げる。加奈子も思わず叫んでいた。されど加奈子達に気が休まる暇などない。

「フギオオオッ! ゴオオオオオッ!」

 イノシシは雄叫びを上げながら、執拗に車に体当たりをお見舞いしてくる。どれも凄まじい勢いで、一切手加減していない事が加奈子にも分かった。

 そして車体前方部分が、ぐしゃり、ぐしゃりと潰れていく事も。

 加奈子の顔から一気に血の気が引いていく。イノシシ相手なら、車内に引きこもっていれば安全だと思っていた。襲われたところで精々車体がへこんだり、窓ガラスがひび割れる程度であると安心していた。だが、このイノシシ相手に籠城は愚策だと悟る。

 このままでは車を壊され、引きずり出されてしまうに違いない。

「お、おっちゃん!? ど、どど、どうし……」

「すぐに逃げる! 何かに掴まっていろ!」

 加奈子の戸惑いを大声で押さえ、田沼は車を操作しようとギアとハンドルを掴んだ。

 アクセルを全開にしたのか、車は加奈子達に過酷な慣性を与えながらバック。イノシシの何度目かの突進は空振りし、近くの田んぼに足を踏み入れる。湿った土に足を取られたのか、イノシシは前足を挫くようにして転倒。稲の植わっていない土に頭から突っ込み、乾いた泥と雑草が空を舞う。

 田沼はその隙を見逃さない。素早くハンドルを操作し、車体の向きを転換。細い道だったため車輪が用水路を乗り越え、田んぼへと侵入し踏み荒らしてしまったが、それを咎める気になる者など誰もいない。

 イノシシに背を向ける形になった車は、そのまま猛烈な勢いで前へと加速。バックミラーに映ったイノシシが車の方へと振り向いた時には、加奈子達の車は暴走が如く速さに達していた。

 あっという間にイノシシの姿は遠くなり、暗闇の中に紛れて見えなくなった。

「……はああああああ」

 田沼が、大きなため息を吐く。

 それを合図とするように、加奈子達も息を吐いた。車のスピードも段々と遅くなり、ごく一般的な速さになる。

「た、助かったぁ……」

「な、なんだったんだ、あのイノシシは……」

「分からん。猟師になって何十年と経つが、あそこまで力のある奴など見た事もない。普通の個体でもバンパーぐらいなら壊せるが、車体がバラバラにされると思ったのは初めてだ……」

 田沼と平次達は次々と安堵の言葉と、イノシシへの疑問を言葉にする。

 加奈子だけは、電話をしていた花中の話を思い返す。足下のスマホを拾い、ティッシュで汚れを拭き取ってから画面を確認。落とした拍子にタッチしたと誤認識されたのか、通話が切れてしまっていた。もう一度電話を掛けるべきかも知れないが、正直話すという事すらしたくないほどの疲労感が加奈子にはある。とりあえず「無事だよー」というメッセージだけ送っておく。

 ともあれ、なんとか逃げ延びる事が出来た。イノシシが野放しなのは気になるが、それは猟師や警察がなんとかしてくれる筈である。

 自分達は助かったのだ。

 ……助かった筈である。

 なのに何故だろう。首の後ろ辺りがチリチリとした感覚に見舞われるのは。身体の芯の方が冷たくなっているのは。

 加奈子は、ちらりと後ろを振り返った。美香と目が合い、にこりと微笑んでくる。無事に危機を脱した、その喜びを共有しようとしたのかも知れない。

 しかし加奈子は、笑みを返さない。むしろ露骨に引き攣らせた。

 何分背後の窓に広がる暗闇に――――猛然と動く『何か』を見てしまったのだから。

「お、おっちゃん! 来てる! まだ来てる!?」

「は? いや、今も五十キロで走ってるんだからそんな筈……!?」

 加奈子の訴えに最初怪訝な反応を示す田沼だったが、その顔は間もなく驚愕に染まる。ハンドルを握る力が増し、アクセルを踏んだのか身体が強張った。

 が、車が加速するよりも前に突き上げられるような衝撃が、後方から襲い掛かってきた!

「うわぁっ!? な、なん、なんだぁ!?」

 平次が驚きを露わにしながら背後を振り返る。

 故に彼は目の当たりにした。

 車の背後に密着するほどの至近距離まで、一頭のイノシシが接近している事に!

「きゃあああっ!? 来てる!? イノシシが来てます!?」

「くそっ! 一体なんなんだコイツは!?」

 混乱が広がる車内で、田沼は悪態を吐きながらも的確に車を操作する。車外に広がる田んぼや町並みの動きが加速し、車の速さがどんどん増している事を物語っていた。

 だのに、イノシシの追撃は振り切れない。加奈子が横目で見た限り、今の車は時速八十キロ以上出ている筈なのに。

 何度も何度も、イノシシは車を突き上げてくる。バキンッ! と金属が吹き飛ぶような音が聞こえ、車体が歪んだ影響か後部の窓ガラスの一部にヒビが入った。このままでは後ろの確認が出来なくなるどころか、窓ガラスを破られてしまう……いや、タイヤなどがなんらかの拍子にパンクすれば、逃げる事すら儘ならない。

「こ、んのぉっ!」

 すると田沼は唸るように声を上げながらアクセルを踏んでいた足を浮かせ、あろう事かブレーキを踏み抜く!

 ブレーキが作動し、車体は急激に減速。対するイノシシは車の突然の減速に反応出来ず、むしろ再度突き上げようとして加速していた。車との相対速度の差が大きくなり、エネルギー的にイノシシの顔面は車と時速数十キロで正面衝突したのと同じ打撃を受ける。

「ギブアァッ!?」

 イノシシは呻きを上げ、大きくその身を仰け反らせる。と、その拍子に足をもつれさせたようで、イノシシは横転した。

 時速八十キロの車を追跡するほどの速さを出していたイノシシは、見ている側がショックを受けるほどの激しさで転がる。時折聞こえる痛みに呻くような悲鳴が、後ろを振り向いていた加奈子の胸に突き刺さった。

 しかし田沼は同情を抱いた素振りもなくアクセルを踏み直し、車を再加速。イノシシの姿はすぐにも見えなくなったが、今度の自動車は時速五十キロではなく、八十キロで突っ走る。

 だけどもう、誰も安堵なんて出来なかったが。

「……なん、だよあのイノシシ……イノシシって、あんなに早いのか……!?」

「いや、そんな事はない。確かに人間と比べれば遙かに速いが、だとしても精々時速四十五キロ前後だ。車を使えば普通に逃げきれる速さでしかない」

「ならさっきのはどういう事だよ!? くそっ! なんでこんな目に……!」

「へ、平次、落ち着いて……」

 声を荒らげる平次を美香が宥める。平次は息を荒くしながらも俯き、深呼吸を始めた。

 誰もが困惑していた。常識外れの力を持ったイノシシの存在に。

 その中で加奈子だけが、少しだけ状況を理解する。

 花中が言っていた通りだ。あのイノシシは、通常のイノシシと比べ身体能力が極めて優れているのだろう。そしてその身体能力を維持するために、多量のエネルギー……高栄養価の食糧を求めているのだ。

 こんな事になるのなら、もっと早いうちに花中への電話をしとけば良かったと思う加奈子だったが、しかしそれを今後悔しても後の祭りというものである。晴海なら三分ぐらい、花中なら丸一日はうじうじしているだろうが、前向きというより考えなしな加奈子は十秒で気持ちを切り替えた。凄いものを見られたなー、と思うぐらいである。

 無論、人が死んでいる事を忘れてはいない。それにあれほどの身体能力の持ち主であるイノシシを、猟師や警察が束になって挑んだところで果たして無事に退治出来るのだろうか……

 不安が再び胸に込み上がり、加奈子はなんとなく後ろを振り向く。背後に広がる夜の暗闇は静かなまま。迫り来る者の姿は見えない。

 見続けているとその暗闇から何かが跳び出してくるような気がして、加奈子は逃げるように視線を正面に戻す。加奈子は大きなため息を吐いた

 刹那の出来事だった。

 加奈子の身体が、ふわりと浮かぶような感覚に見舞われたのは。

「……ぬむ?」

 突然の予期せぬ体感に、加奈子の口から出てきたのは間の抜けた声。

 しかし理性は即座に、今覚えている感覚があり得ないものであると理解する。加奈子は車に乗ってから今に至るまで、シートベルトを外していないのだ。身体が浮かび上がる筈がない。事実今も加奈子はシートベルトを着用し、その身体は座席にぴったりくっついている。

 加奈子は反射的に辺りを見回す。隣に座る田沼も呆けた顔をし、後ろに座る平次や美香も唖然としていた。誰もが浮遊感を覚えている様子だ。そして誰一人、何が起きているか分かっていないのだろう。答えは分からず終い。故に加奈子の目は本人の意思と関係なく動き回り、周囲の情報を集めようとする。

 そうした本能の努力は、すぐに報われた。面の車窓から見える、視界一面を覆う地面という情報を知る事で。

 車がひっくり返っているのだ。がために。

 浮遊感の理由は分かった、が、一介の小娘に過ぎない加奈子にこの状況をどうにか出来る筈もなく。

「キャアアアアアアアアアアアアアッ!?」

 加奈子が少女らしい悲鳴を上げたのも束の間、車は地面に叩き付けられた! 窓ガラスが割れ、車体が砕け散るような音が聞こえる。

 本能が危機を察知し、咄嗟に両手で顔を覆わなければ、車内にも飛んできたガラス片などで怪我をしていたかも知れない。頭を激しく揺さぶられ、ぐるぐると回っているような目眩に襲われる。身体を上手く動かせない。

 おまけに車は完全にひっくり返り、上下が逆になっていた。頭に血が昇っていく。段々意識が朦朧としてくる。

「ぶはっ! は、はぁ! はぁっ! 大丈夫か!?」

 その意識を揺さぶり起こしてくれたのは、平次の呼び声。我に返った加奈子は、閉じかけていた瞼を開き、後部座席の方へと振り返る。

 平次は既にシートベルトを自力で外し、ひっくり返って床となった車の天井に足を付けていた。今は美香のシートベルトを外そうとしながらも、加奈子達の方も気にしている。

 何が起きたか分からないうちに動くのは危険ではないか? そんな考えも過ぎったが、しかし横転するほどの大事故。ガソリンなどが漏れていて、爆発する可能性もあるかも知れないと ― 映画やゲームの知識から ― 加奈子は気付く。加奈子の隣に座っていた田沼も、自分のシートベルトを外そうと藻掻いていた。どうやらすぐにでも抜け出した方が良いらしい。

「う、うん。私は大丈夫っ! 自力で、出られる!」

「俺も、もうすぐ抜ける! なんだか分からんが、このまま居座るのは不味い!」

「分かりました! 美香、大丈夫か?」

「う、うん。私は、平気……」

 加奈子と田沼の返事を聞き、平次は美香の救出に注力する。天地が逆転したとはいえ、シートベルトを外すだけだ。美香は無事、車の床に着地した

 瞬間、後部座席から窓ガラスが割れる音と、金属が粉砕される音……そしてボキボキと『何か』がへし折れる音がする。

「……えっ?」

 加奈子は瞬きをして目の前の景色を見直す。しかし何度見ても、どれだけ時間が経とうと目に映る光景に変化がない。

 呆けたように固まる平次――――その平次だけがいる光景が、変わらなかった。

「……美香あああああああっ!? 美香、クソっ! クソがぁッ!」

「ま、待て鈴木君! 一人では、ぐっ……!」

 姿美香の名を叫ぶと、平次は這いずりながら加奈子達を置いて車の外へと出てしまう。田沼が引き留めたが、聞く耳すら持たない。

 田沼はシートベルトを急いで外し、次いで加奈子のシートベルトも外してくれた。加奈子の身体は重力に引かれ、不格好ながら天井に下りる。それから殆ど無意識に、加奈子は横の窓から外を見ようとした。

 すると何かが加奈子の目の前に落ちてきた。加奈子の若くて健康的な瞳は、例え暗闇の中にあろうともその何かの姿を正確に捉える。

 平次だった。ただし頭の一部が大きくへこみ、焦点の合わない目を大きく見開いて……

「ひ――――」

「静かにっ!」

 もしも田沼が口を塞いでくれなかったなら、加奈子は今頃人生の中で最大の悲鳴を上げただろう。口を塞がれた加奈子は強引に身体を引っ張られ、助手席側から運転席近くまで動かされる。

 その移動する最中に、ぐちゃりぶちぶちぐちゃぐちゃと、柔らかいものを咀嚼する音が聞こえてきた。

 食べている。

 加奈子は察した。この車をひっくり返したのは、あのイノシシであると。車をひっくり返したイノシシは、恐らく獲物である美香を引きずり出したのだろう。平次はそれを目の当たりにし、助けに向かったが……時速八十キロで走る車に追い着くほどの馬力で体当たりでもされたのか。イノシシの一撃で葬られた訳だ。

「……どうだ? もう叫ばないか?」

 田沼に小声で訊かれ、加奈子はこくりと一回頷く。田沼は恐る恐る加奈子の口から手を離し、加奈子は静かに息を吐いた。

「鈴木君も佐倉君も、恐らく死んだ。助けられるような武器もない。だから逃げようと思う。文句はないな?」

「……うん。分かった」

「良い子だ……恐らく、今イノシシは佐倉くんを食べている。奴が満足して帰るか、鈴木君に興味が映った段階で逃げるぞ。それまで声は出すな」

 田沼の指示に、加奈子はこくりと頷く。

 意識を外の景色に向ける。くちゃくちゃと肉を咀嚼する音は聞こえてくるが、痛みに呻く声や悲鳴、絶叫は聞こえてこない。

 イノシシが美香を襲った瞬間……見えた訳ではないが、美香の姿が消える直前、生々しい音が聞こえていた。衝撃で骨が折れたのだとすれば、即死している事も考えられる。平次も悲鳴一つ上げていない。多分、きっと、恐らく、二人とも苦しまずに済んだ事が唯一の『良かった』ところか。

 ……時間にして、どれだけ経ったか。五分か、十分か? 横転した拍子に壊れたのか車内のデジタル時計は消えている。スマホを取り出して画面を見る余裕なんてない。加奈子は自分の心臓が、今にも破けそうなぐらい脈打っているのを感じた。喉が震えていて、そのうち自分の意思とは関係なく叫んでしまうのではないかと不安になる。

 早く、早く、早く。自分の気持ちが爆発しないうちに、早く終わって。

 加奈子は祈るように心の中でそう呟き続け――――ついに咀嚼音が途絶えた。

 次いでカツカツと靴の踵で地面を蹴るような足音が、段々と加奈子達の潜む車の方へと近寄ってくる。加奈子の心臓の音も、大きくなっている気がした。もしかしたら『向こう』にも聞こえているのでは、と思ってしまうほどに。

 もしも田沼が身体を押さえてくれなければ、今すぐにでも扉を開けて逃げ出そうとしただろう。田沼が押さえてくれたから、加奈子はその場に留まり続け……

 ずるりと、外に転がっていた平次の亡骸が引きずられた。

「っ!」

 その瞬間、田沼が動き出す!

 田沼は車のドアノブには目もくれず、ひび割れた窓ガラスに渾身の蹴りをお見舞いする。車体の歪みによって脆くなっていたであろうドアガラスは、老体である田沼の蹴りでも簡単に ― 水没などで車内から脱出するためドアガラスは割れやすく出来ているらしい、という知識を加奈子は思い出す ― 粉砕された。人一人通れる隙間が出来、田沼が先に抜け出る。

 田沼は加奈子の手を掴み、力強く引っ張る。割れた窓ガラスは細かな粒となっていて、加奈子の身体を傷付けはしない。するりと抜け出し、加奈子の身体は再び地面を踏み締めた。

 無論、二本の足で立てた喜びに浸る余裕なんて今はない。

「ブギィィイイ……!」

 ぐちゃぐちゃと肉を食べる音と、獣の呻き声がすぐ傍から聞こえてくるのだから。

「……ゆっくり、刺激しないように離れるぞ。出来るだけ音を立てるな」

「う、うん」

 田沼の指示に従い、加奈子は先行する田沼の後をゆっくりと追う。

 後は此処から遠くに離れるだけ……離れるだけなのだが、しかし辺りの景色が目に入ると、一気に不安と絶望が心を満たす。

 何しろ周りは田んぼが一面に満ちた、開けた場所なのだから。稲穂が生い茂っていればまだ身の隠しようもあったが、刈り取られて地面が剥き出しとなっている今ではやりたくても出来ない事。そもそもイノシシといえば嗅覚に優れた動物だ。ネットだかテレビだかで、イノシシの嗅覚は犬にも匹敵すると加奈子は聞いた覚えがある。ちょっと離れた場所に隠れた程度では、きっと簡単に見付けられてしまうに違いない。

 助かる術はただ一つ。あのイノシシが追うのを諦めるぐらい、遠くに逃げる事のみ。

 加奈子と田沼は静かに、けれども駆け足でイノシシから離れる。短時間とはいえ車でかっ飛ばしていたお陰で、住宅地はかなり近い。何処かの家に逃げ込ませてもらえればなんとかなる……加奈子はそんな希望を抱いた。

「ビギオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッ!」

 その希望を打ち砕くように、おぞましい雄叫びが世界に響き渡る。

 食い終えたのだ。それでいて大柄な若い男性の脂肪も皮も内臓も、このイノシシの空腹を満たすには足りなかったに違いない。

 でなければ、加奈子は背中にギラギラとした視線を感じる筈がないのだから。

「っ! 走れ!」

 田沼が叫ぶ、が、加奈子の身体は命じられるよりも前に走り出していた。全身から一瞬で汗が噴き出すほどの、全身全霊のダッシュ。今ならきっと、運動部に所属しているクラスメイトの誰よりも速いに違いない。

 されどイノシシの足音は、ほんの数秒で一気に迫ってくる。

「危ないっ!」

 田沼は殴るように腕を伸ばし、加奈子を突き飛ばす。田沼自身もその反動を利用して、反対側へと飛んだ。

 二人して道を譲るように跳び、イノシシは加奈子達の間を飛ぶような速さで駆け抜ける。正しく暴走車が如くスピード。背中からもろに追突されたなら、背骨など一撃で粉砕され、内臓は余さず破裂するだろう。つまりは即死だ。ど派手な爆発の中で華々しく散るような、エンターテインメントっぽくて苦しくない死に方が希望である加奈子としては、半分ぐらいはお望みの死に方である。

 だが、それは老いてからの話だ。

「し、死んで堪るかぁっ!」

 今はまだ死にたくない――――生きたいという意思は、加奈子の身体を素早く立て直させる。

 イノシシの方も既に方向転換を終え、加奈子の方に狙いを定めていた。乾いた老体である田沼より、現役女子高生である自分の方が柔らかくて美味しそうとでも思われたのだろうか。全く嬉しくない名誉に、加奈子は苦笑いを浮かべる。

 イノシシは加奈子と目が合うや、猛然と駆け出した! 弾丸のような速さに加え、ぶわりと毛を逆立てた姿や充血した赤い目付きに、一瞬加奈子の身体は強張りそうになる。だが気合いでその硬直を打ち払い、さながら横綱が迫り来る相手を受け止めるような仁王立ちでイノシシを迎え撃つ。

 無論イノシシと真っ正面からぶつかり合えば即死である。しかし慌てて逃げたところで、車に追い着くほどの速さで走る相手から逃げきるのは不可能だ。

 ならば、ギリギリのところで躱すしかない。

「……ぃまだぁっ!」

 タイミングを見計らい、加奈子は思いきって跳躍! 暴走するイノシシは方向を変えきれず、加奈子が居た場所を通り過ぎる

「プギアッ!」

 間際、素早くその頭を振り上げた!

 これには加奈子の方が反応が間に合わない。振り上げられた頭、その口許にある大きな牙が刀のように振られ、加奈子の足を斬り付ける!

「あぐっ!? う、く……!」

 足に走る鋭い痛みに気を取られ、加奈子は着地に失敗。転がるようにして衝撃を受け流しどうにか怪我は避ける……が、体勢を立て直そうとした時、足に力が入らない事に気付く。

 あまり深いものではないが、太ももに長さ十センチぐらいの範囲で痛みがじわじわと走る。感じた事のない痛みの種類に堪え方が分からず、加奈子の目には涙が浮かんできて、堪えるために唇を噛み締めるばかりになってしまう。立ち上がる事に力を使えない。

「ピギィ……ギイィィ……」

「こっちだ! こっちを見ろ!」

 イノシシは動けなくなった加奈子をじっと見つめる。田沼が大声を張り上げたが、イノシシは見向きもしない。

 このままでは……加奈子の脳裏に最悪の未来が過ぎる。生存本能がようやく痛覚を凌駕し身体が動き始めるものの、体勢を立て直すにはもう遅い。

 イノシシの全身に力が滾るのと同時に、加奈子は血の気が引いていき――――

「伏せろっ!」

 その声が聞こえた時、反射的に身を強張らせてしまった。

 しかし声に続いて起きたのは、加奈子の身が突き飛ばされる事ではない。

 イノシシの咆哮に代わり鳴り響く、甲高い破裂音だ。彼方まで届いたのか反響して聞こえる大きな音だったが、加奈子の身には何も起きていない。

 影響があったのはイノシシの方。

 イノシシの身体から、黒ずんだ体液が噴き出したのだ。

「ブギッ!? ギイイアアアアッ!」

 イノシシは呻きを上げ、即座に猛り狂った叫びを上げながら加奈子が居るのとは別方向へと向きを変えた。加奈子もつられるように同じ方角を見る。

 視線の先、凡そ五十メートルほど離れた位置に居たのは、四つの人影。

 二つは制服を着た中年の警察官、残り二つは赤いジャケットを羽織った老猟師だった。四人ともそれぞれの銃のようなものを構えている。無論その銃口が向く先は、彼等に狙いを定めたイノシシだ。どんな銃を構えているのかは、暗い上に遠いためよく分からないが……動いている事から、弾を込めているのかも知れない。

 その間にイノシシも全身の筋肉を張り詰めさせ、臨戦態勢を整えていた。

「気を付けろ! そのイノシシ、物凄い速さで突進してくる! 普通じゃない! 加奈子は射線から離れろ!」

 田沼は大声でイノシシの情報を猟師達に飛ばし、加奈子に逃げるよう促す。警察官達は棒立ちしていたが、猟師二人の動きが変わる。より手早く、迅速になっていた。加奈子も痛む足を引きずりながら、少しでも四人の正面から離れようとする。

 人間には一目で分かる行動の変化も、ケダモノにはその意味すら理解出来ないのだろう。イノシシは爆発でも起こしたかのような、猛烈な加速で猟師達目掛けて飛び出す!

 恐るべき速さだった。五十メートルもの距離を僅か数秒で駆け抜けてしまうだろう。警察官は驚いたのか小さく跳ね、その身を強張らせる。

 されど猟師達は既に準備を終えていた。

 パアンッ! と耳をつんざくような破裂音と共に、猟師達の構える銃器から光が放たれる。するとイノシシは身体を仰け反らせ、呻きのような悲鳴、そして頭から血を撒き散らす。警察官二人の構えた銃もようやく破裂音と光を発し、ついにイノシシはその場に立ち止まった。

 しかしまだ倒れていない。何度も何度も、警察官と猟師はイノシシに鉛弾を喰らわせる。まるで映画に出てくるモンスターが如く、イノシシはこの猛攻に耐え続けたが……四回目の猟師達の攻撃を受けると全身を震わせ、ずしんと横に倒れた。

 しばしの間、誰も動かずにイノシシを注視する。

 そうして六人で見ている間、イノシシがぴくりとも動かないのを確認し、ようやく猟師と警官達は二手に分かれて加奈子と田沼の下へとやってきた。警官は持っていた銃を腰のホルスターにしまい、猟師も手に持った猟銃の銃口を地面に向けている。警戒態勢を解いていた。

「大丈夫ですか!?」

「怪我はないか!?」

「あ、は、はひ。あ、いや、足をちょっと……」

 そして警官と猟師に声を掛けられ、加奈子は困惑しながら返事をした。反射的に正直に答えると、二人は競うように加奈子の足に顔を近付ける。やましい考えがないのは真剣な表情からも分かるのだが、男性二人におみ足を見られ、一瞬加奈子の心臓がドキリと跳ねた。

「む、これは酷い。イノシシの牙で切り付けられたか」

「いや、でも太い血管は傷付いていないですね。皮膚の浅いところが裂けているだけ……勿論すぐに病院へ連れて行くべきですが。応援と救急車を呼びます」

「ああ、お願いするよ」

 猟師 ― 白髪のおじいさんだ ― に見送られ、三十代ぐらいの警察官は腰に着けていた無線機を手に取り離れていく。言葉通り、警察の応援と救急車を呼んでくれるのだろう。

「お嬢ちゃん、よく頑張ったな。もう安心だ。怖かったろう?」

 猟師のおじいさんに、加奈子は頭を撫でられる。

 最初は、いまいちピンと来なかった。

 けれども遠くに倒れ伏すイノシシの亡骸と、頭から伝わる感触、そして遠くから走ってくる田沼達の姿を見ているうちに……段々と、胸の中から感情が噴き出す。目頭が熱くなり、喉がなんだかよく分からない滅茶苦茶な感覚に見舞われる。

「……こ、ごわがったああああああ……うあああああああっ!」

 気付けば加奈子は、大声で泣き出してしまった。

「おう、そうだろうそうだろう。たんと泣いて、スッキリすると良い」

「ぐす、ひぐっ。う、うううう、うぐ……ずび……ひぅう……」

「加奈子! 大丈夫か!」

「おっちゃん……怖かったぁ……怖かったよぉ……!」

 近付き、声を掛けてきた田沼に、加奈子は跳び付いて泣き喚く。ついでに鼻水も押し付けた。田沼は一瞬顔を顰めたが、突き放したりはせず、頭を撫で、背中を摩ってくれる。

「すまなかったな。おっちゃんが頼りないばかりに」

「だよりなぐ、ないぃぃ……ありがどうぅぅぅぅ……」

「そう言ってくれるとこっちとしても気が楽になるな」

 田沼はしばし、加奈子をあやす事に注力してくれた。お陰で加奈子の気持ちは段々と鎮まってきたが、しかし離れたくない気持ちも強くなって、むしろ一層強く抱き付いてしまう。そんな自分が子供っぽくて、ちょっと恥ずかしい。

「しっかし、町中で撃っちまったなぁ。やっぱり免許剥奪化ね?」

「ま、そろそろ腰がキツくて、引退しようとは思っていたがね。こんな切っ掛けでもないと、人手不足の所為で引退すらさせてくれないからなぁ」

「……いえ、緊急時でしたからね。不起訴となるよう手配しましょう。必ずそうなるとは断言出来ませんが」

「勿論、辞めたいならその通りに処理させていただきますよ」

「ははっ! 話の分かる刑事さんだ」

「いえ、自分達は巡査長でして……」

 ちょっと意識を外に向けてみると、猟師達と警察官達の会話が聞こえてくる。

 どうやら町中で銃を撃った事へのお咎めも、特にはなさそうだ。自分を助けるために彼等が持つ猟師の資格がなくなるとなれば、申し訳ないなんて言葉ではとても足りない。安堵の気持ちと息に、不安な気持ちを外へと吐き出す。

 勿論、悲しみはすぐには消えない。

 平次と美香……二人の人間が、死んでしまった。自分が助かったのはイノシシが先に襲ったのが彼等だったからで、言い換えれば二人は自分達の代わりに犠牲になったようなものだ。如何に前向きで能天気な加奈子でも、彼等の死を忘れる事は出来ない。

 それでも自分達は生きている。生きて、元の生活に戻れる。

 悲しんだり、後悔したりは後だ。今はこの喜びに浸るとしよう……そう考えながら加奈子は田沼の身体に抱き付き、

「ブギイイイイイイイイッ!」

 不意に聞こえた咆哮で、一瞬にして身体の中の温もりが抜け落ちた。

 ――――あり得ない。

 幾らなんでもあり得ない。何故ならアイツは何発もの銃弾を喰らい、倒れたのだ。頭から血を噴いていたし、喰らった距離だって近い。生きている筈がない。

 しかしそう思う一方、加奈子は知っている。この世には人間の常識なんて一切通用しない、嘲笑い、蹂躙し、踏み潰してくる化け物がいる事を。一匹の魚が、地球という星すら狭苦しくなるほどの力を持ってしまう事があるという事実を。

 ならば『アイツ』が人間の常識を、どうして踏み潰さないと言える?

 加奈子は振り向いた。錆び付いた機械のような、そんなちんたらした動きではない。ネズミが猫の足音に気付くような、素早く鋭敏な反応。

 故に加奈子は、この場に居る誰よりも先にそれを目の当たりにした。

 銃弾を受け倒れ伏していたイノシシが、自分の足で立ち上がり、こちらを振り向こうとしている姿を……

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