目覚めるパンドーラ10

「お土産良し、パスポート良し、スマホ良し……うん、荷物は全部揃ってるね」

 キャリーバッグの中にある荷物を一通り確認すると、星縄は満足げに大きく頷いた。蓋を閉めてからしっかりと鍵を掛け、キャリーバッグの取っ手を握り締める。うっかり置いていかないよう、念入りに手から伝わる感触を確かめていた。

 着ている服が明るい柄の私服というのもあり、一見して旅行に行くかのように見える星縄であるが、それは誤りだ。星縄はこれから電車に乗り、空港まで行ったら今度は飛行機に乗り……とある南アフリカの国に降り立つ予定である。目的は、彼女の仕事である生物学研究のため。

 昨日、『マグナ・フロス』の脅威から解放されたばかりだというのに。

「大変ねぇ。今日の夜飛行機に乗って、お目当ての国には日本時刻で真夜中頃到着するんでしょ?」

「仕事って面倒臭いんだなぁ」

「何故そうまでして毎日お金を稼ぎたいのか私にはさっぱり分かりません」

 そんな星縄を駅まで見送りに来た、ミリオン、ミィ、フィアの三匹は、各々好き勝手な事を言い放つ。ミリオン以外は実に動物的な感想で、星縄は困ったような、同意したような、複雑な表情を浮かべた。

 そして花中だけが、寂しげに星縄を見つめる。

「もう、戻ってしまうのですか? 植物園での事も、ありましたし……」

「トラブルがあったから一日休みを伸ばします、とは言えないよ。休んでいる間、仕事仲間に苦労もさせてるからね」

「そう、ですか……」

 休みを伸ばすよう提案してみるが、星縄は大人らしい事情を語り、花中はそれ以上言えなくなる。

 仕事というのは大きな責任が付き纏うもの。星縄はその責任としっかり向き合おうとしているのだ。なら、子供である自分がとやかく言う事ではないだろう。

「うん、気遣ってくれてありがとう。お陰で明日からの仕事もバリバリこなせそうだよ」

 その上、落ち込む自分に優しい言葉まで掛けてくれる。

 大人らしい星縄への憧れが一層強くなるのを、花中は胸の奥でじんわりと感じた。

「さてと、あまり長居をすると飛行機に乗り遅れそうだ。そろそろ行くとするよ」

「あ、は、はいっ。えと、また何時でも、来てください。歓迎します」

「ありがとう。それじゃあ、またね」

 星縄は手を振りながら、キャリーバッグを引いて駅の奥へと歩き出す。花中は何時までもその背中に向けて手を振り続け、星縄の姿が見えなくなってから、ゆっくりと振っていた手を下ろした。

 そのまましばし、花中は立ち尽くす。

「帰りましたね」

「うん」

「我々もそろそろ帰りますか?」

「うん」

「……花中さんちょっと上の空でしょ」

「うん……………あれ?」

 フィアからの呼び掛けに雑な返事をし、ここでようやく花中は自分が呆けていた事に気付いた。不機嫌そうに頬を膨らませたフィアが、ずいっと顔を近付けてくる。見慣れた美少女の顔ながら、花中は一瞬ドキリと心臓が跳ねたのを感じた。

「先程から何を考え込んでいるのですか? 星縄さんの事ですか?」

「え? あ、えと、ちょっと、違う……かな……」

「? ちょっと違うとはなんですか?」

「えと、ほ、星縄さんに、相談というか、訊きたい事があって……」

「相談? 私には出来ない事なのですか?」

「あら、訊きたい事があるならさっさと訊いておけば良かったじゃない」

「そんなバタバタとしたお別れじゃなかったと思うんだけど?」

 フィアの質問に花中は答えたものの、フィアのみならず周りで耳を傾けていたミリオンやミィまで疑問を覚える。彼女達の覚えた疑問は至極尤もなもので、言えば訊かれるのは花中にも分かっていた。

 結論を言えば、この『相談』はフィア達にしても構わない。

 それでも星縄に相談したかったのは、彼女は何も知らない筈だと思ったから。否定しようが肯定しようが、全てが憶測であり絶対ではない。曖昧な答えは例えその場での停滞を引き起こすにしても、一時の安寧はもたらしてくれる。

 だけどフィア達に言ったなら、本当の事が分かってしまうかも知れない。

 そしてその本当の事が『最悪』だったなら……

「花中さん?」

 考え込んでしまった花中に、フィアが顔を覗き込みながら再び尋ねてくる。

 花中は短くない時間口を閉ざしていたが、やがてゆっくりと、唇を震わせながら開く。気を弛めれば閉じてしまいそうなその口で、花中は己が抱いた疑念を伝えた。

 ――――『マグナ・フロス』と、その天敵であるイモムシは凶悪な生態を有していた。

 古代種全てがこの二種のような、出鱈目な生態を有していた訳ではないだろう。しかしこれらの種のライバルとなるような、競争相手となりうる種はいたかも知れない。それがどんな方向性の進化か遂げたかなど予想も付かないが、現代兵器が通用しない、恐ろしい力である可能性も否定出来ない。もしも今後、なんらかの古生物が復活出来る状態だったとしても、触れるべきではないだろう。

 古代の生態系は、人類には厳し過ぎる。

 では、未来はどうだ? ……未来についても、全く安心出来ない。ミュータントという存在がいるのだから。

 確かに彼女達は、人間の脳波によって力を得ている。だから人間の存在は不可欠で、人間を滅ぼす訳にはいかない……なんてのは幻想だ。少なくとも一種、ヘビのミュータントであるアナシスは、自前の伝達脳波で力を獲得していた。タヌキ達のように、いくらかスペックを落とす事で自前の脳波で能力を持てるようになった種も存在する。

 ミュータント達が今後どのような進化を遂げるかは分からない。しかし彼女達には、例え人間がいなかったとしても人智を超えた力を行使出来る前例がある。今後ミュータントがそのような進化を遂げないと考えるのは、ただの願望だ。いや、何時か必ずそうした進化を遂げるという『確信』がある。それに大抵は人間が必要不可欠である現状でも、ラフレシアの幼女のように人間を奴隷のように扱うための方法をものだっているのだ。

 ミュータントの力の前に、人間の文明はあまりに無力。一体で社会を崩壊させかねない怪物が、繁殖するようになったら……

 未来の生態系も、人間には厳し過ぎる。

 考えてみれば当たり前の事だ。人類は今の環境に適応し、その環境で形成された生態系に順応してきたのである。そこから外れた生態系が人類にとって優しい訳がない、いや、人類が適応している筈がないと言うべきか。人類が生きられるのは、今の生態系だけなのだ。『今』だけなのだ。

 だけど。

 だけどもしも、『今』の地球に人類と関わっていない生態系があったなら? その生態系は人間にとって優しいのか? いいや、考え方が逆転しているのではないか。その生態系が人間にとって厳しいのではなく、人間が、人間にとって厳しくない環境に広がっただけなのではないか。

 思えば植物園に居たラフレシアの少女は、『次』を臭わせていた。次の心当たりがあるように感じられたが、しかし『マグナ・フロス』はあの時滅びた。新たに発掘された、復活しそうな古代生物のニュースなんかもない。

 だとしたら彼女は、現代に生きる恐ろしい何かを知っているのではないか……

 そんな考えを抱いてから、ずっと、不安で堪らない。

「か、考え過ぎ、だよね……そんな、事、ある訳ない、よね……」

 おどおどしながら、花中はフィア達の顔を窺い見る。

 きっとこれは、ただの考え過ぎなのだ。

 今までフィア達が特別なのだと考え、人智を超える生物など早々いる訳がないと思い込んでいた。その思い込みが『マグナ・フロス』というによって砕かれ、反動で悪い方へ悪い方へと発想が飛躍しているだけに違いない。

 そう思えば思うほど、自分が現実逃避をしているだけのような気がして、花中は身体の震えが止まらなくなる。頭から血の気が引いていくのが分かり、自分の中で勝手に沸き立つ不安が止められない。

 フィアが優しく抱き締めてくれなかったら、きっと、何時までも震え続けていただろう。

「あ、フィアちゃん……」

「大丈夫ですよ花中さん」

 戸惑いを覚える花中に、フィアは力強い言葉を掛けてくれる。たった一言であったが、それだけで花中の胸の内にある不安は吹き飛んでしまった。

 もごもごと顔を動かしミリオン達の方を見てみれば、彼女達も朗らかな笑みを浮かべている。きっと自分の妄想が馬鹿馬鹿しくて思わず笑っているのだ。花中の頬は自然と弛み、ふにゃりと笑みを浮かべた。

「少なくともこの近くに棲み着いている奴等はどれも私の敵ではありませんから心配ご無用ですよ」

 そしてフィアの頼もしい一言で花中は一層の安堵を覚えた。

 尤も、ほんの刹那の時間だけであるが。

 ぞわぞわとした悪寒が身体を駆け巡る。考えたくない『意味』が頭の中を猛然と走り抜け、嘲笑うように理性を突き回していく。

 無意識に逃げようとしてフィアから視線を逸らしても、現実は花中の心を追い詰める。

 ミリオンとミィは、じっと遠くを見ていた。フィアの言葉を訂正する事もなく、ずっと彼方に目を向け続ける。まるで、その先にあるものを見るよう、花中を促しているかのように。

 見るべきではない。見たら

 本能はハッキリと警告を発していた。しかし花中の理性は、その視線の向いている先を無視出来ない。強張るような硬さを覚える眼球を、ゆっくりと、ミリオン達が向いている方へと動かす。

 見えたのは住宅地。

 その住宅地の向こう側にあるのは、泥落山。

 登るのが危険かつ有益な資源がないため、開発はおろか登山客すら殆どいない『秘境の地』。

 そこに何が暮らしているか、一体誰が知っているのか。

「別に知ったところで何も変わらないんですし気にしなくて良いんじゃないですかねー」

 フィアの能天気な言葉が、花中の不安を一層掻き立てるのだった……






















 日本の空の玄関口、成田空港。

 世界の様々な国へと飛び立つ飛行機が集まるこの場所には、今日も大勢の人々が行き交っていた。既に八ヶ月も前の出来事である異星生命体と巨大生物の争いの余波は今尚 ― むしろ当時よりも悪化した ― 世界的な政情不安を招いているが、海外に旅立つ日本人は数知れない。安全な国で暮らしているためその辺りの危機感が薄いのか、はたまた会社から行けと命じられれば逆らえない勤勉さ故なのか。

 なんにせよご苦労な事だと、空港に入ったばかりの星縄は思った。

 空の玄関口の玄関から入り、星縄は真っ直ぐ受付を目指す。行く先は南アフリカ某国。仕事である『希少生物』の研究を行うべく、自らの意思で飛行機へと乗るために。

 混み合った受付前に並ぶ事三十分。今ではすっかり慣れた手続きをさっくりとこなし、出発までの時間に余裕がある事を確かめると、星縄は受付前にある休憩用の長椅子に腰を下ろす。ホッと一息吐いて、さて暇でも潰そうかとキャリーバッグの中から一冊の本を取り出そうとした。

 丁度そんな時に、懐に入れていたスマホがぶるりと震える。

 マナーモードにしていたスマホに、着信があったらしい。本を読もうとした時だけに少なからず煩わしさを覚えながらスマホを取り出す星縄だったが、画面に表示された名前を見ると大きく目を見開く。先程までの嫌悪は何処へやら、喜々として電話に出た。

「玲奈さん!? 久しぶりです!」

 そして大きな声で、電話の向こうに居る相手に呼び掛けた。

 スマホの画面に映し出された名前は大桐玲奈。星縄からすれば恩師に当たる、花中の母であった。

【やっほー、飛鳥ちゃん。暇だから電話掛けちゃった。今は何してる感じかなー?】

「相変わらず希少生物を追って、森や砂漠を歩き回る毎日です。まぁ、今は日本に帰ってきていて、これから仕事に戻るところですけどね」

【あら、そーなの? 良いわねぇ、私もそろそろ家に帰ろうかしらー】

 電話から聞こえてくる、快活で、ハキハキしていて、まるで花中と似ていない声に星縄は笑みを浮かべる。心から楽しそうな笑い声が口から漏れた。

「あ、そうそう。ついでなんでお家に寄らせていただきました。花中ちゃん、随分明るい子になってましたよ」

【あ、やっぱり? こっちに送られてくる手紙も、なんかもう毎日が楽しくて仕方ないーって気持ちが溢れてるのよね。最近出来た友達のお陰かしら。その友達には会えた? どんな子だった?】

「そんなに気になるなら一度帰れば良いんですよ。もう二年も花中ちゃんほっといてるようですけど?」

【うぐ……い、今、仕事の進捗的にそれは無理……】

 しょんぼりと項垂れる姿が目に浮かぶぐらい、意気消沈した玲奈の声。星縄はくすくすと、笑い声を漏らす。

 すると今度はぷすっと、頬を膨らませるような声が電話から聞こえた。

【ちょっと、今笑ったでしょ!?】

「いえいえまさか。同情しただけです」

【ふん、そう言うならこっちだって考えがあるんだから】

「考え?」

 はて、何を言われるのだろうか。星縄は電話の向こうから告げられるであろう、何かしら『ショッキング』な発言に、緩やかに覚悟をしておいた。

 していたのに。

【あなた、私達に隠れて何かしてない?】

 玲奈のこの一言に、星縄は声を詰まらせた。

 しばしの沈黙を挟んでから、星縄はゆっくりと、平静を取り繕った口調で答える。

「……曖昧過ぎて反応に困るのですけど」

【うちのメンバーが調べてくれたわ。あなた、ちょくちょく日本に帰ってるみたいじゃない】

「最近仕事で行き来する事が多くて。用が済んだらすぐにトンボ返りです」

【みたいね】

「……………いや、もうちょっと追求しましょうよ。そこまでいったなら」

【うーん、言ってはみたけどネタ切れなのよねぇ。ま、どうせそんな事だとは思ったけど】

「じゃあなんで問い詰めたりなんかしたんですか」

【だから今暇なんだもん。研究対象が三日前から寝てて、ぼけーっと観察するぐらいしかやる事なし。起きるまで待機ちゅー】

 あっけらかんとした玲奈の答えに、星縄はがっくりと項垂れた。要するに、おちょくられただけらしい。

「次はもう少し明確な証拠を持ってくる事をお勧めします。何もありませんけど」

【うん、そうするわね……ん? 何――――対象が動き出した!? 分かったすぐ行くわ! あ、飛鳥ちゃんまた今度ね!】

 慌ただしく言い残すや、ぶつり、と電話が切れる。

 あまりにも身勝手、というより自由気儘な玲奈に、星縄は大きなため息を吐いた。

 されどその顔にあるのは嫌悪ではなく、微かな笑み。

「……さて、あの人は何処まで見透かした上で電話してきたのやら。少しは慎重になった方が良いのかな」

 やがてぽつりと独りごち、すぐに力強く立ち上がった。

 もう、顔に笑みは残っていない。

 あるのは鬼気迫る、大人の顔立ち。

「生憎、止めるという選択肢はない。人という種を守るためには、現状これに賭けるしかないのだから」

 空港内に、飛行機の搭乗が始まった旨を伝える放送が入る。星縄は迷いない足取りで、搭乗ゲート目指して歩み出した。

が人類を、滅びから救うんだ」

 ハッキリとした決意の言葉を、独りごちながら――――

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