幕間六ノ七

 緑色に耀く夜空の下に、彼女は居た。

 忌まわしい感覚に襲われ、住処の島から這い出して海を泳ぐ事十数分……世界で最も巨大な海域で、彼女は『それ』を発見した。

 『それ』は彼女に向けて何かを語ったが、彼女は耳も貸さなかった。彼女は『それ』が自身の体調不良の原因であると本能的に察しており、交渉する気など端からなかったからだ。

 自分の気分を害するのなら排除する――――理性の欠片もない、本能そのものの思考に従った彼女は、机の上のゴミを床に払い落とすように『それ』に対して自らの尾を振るった。

 付け加えると、その一撃を振るった時の彼女の精神は本気とは程遠かった。当然だ。机のゴミを払い落とすのに、逐一激昂などしていられない。目の前の存在が地球生命を根絶やしにしようとしている事も、全ての生命の『母』である事も彼女は知らない。おまけに今の彼女は体調も優れない有り様である。

 だから、気の抜けた一撃にしかならなかった。

 その一撃で全てが決した。地球生命を根絶やしにしようとし、それを可能とする力を持った存在は彼女の尾を喰らった瞬間、全身が発光し――――文字通り跡形も残さず、消滅したのだから。

 不快さの一つを呆気なく潰し、しかしそれでも倦怠感が拭えなかった彼女は気配を探った。すると遥か彼方……地平線の先より、先の『それ』と同じ不快さを放つモノの存在を感じた。

 遠い。全速力で泳げば一時間も経たずに行けるだろうが、このような相手に全力を出すなど面倒以外の何物でもない。故に彼女はこの場を動かず、欠伸をするように自らの口を大きく開けた。

 刹那、その口から一閃の光が放たれる。

 放たれた光は流星よりも速く、そして力強く地平線を跳び越え、彼方で紅蓮色の輝きを霧散させた。直後に大地が揺れ、海面を巨大な津波が走る。やがて空から緑色の輝きは失せ、月と星だけが照らす自然の夜空が戻ってきた。

 かくして世界を救った一員となった彼女は、しかし満足感など欠片も抱いていなかった。抱ける筈もなかった。軽くお見舞いした攻撃で跡形もなく消えてしまう存在など、敵とは言えない。敵でないものを蹴散らすなど、ただの作業でしかない。身体から不快さは抜けても、彼女の心に爽快感は訪れなかった。

 されど、最早この退屈にも慣れた。彼女は趣味である惰眠を貪りこの鬱屈とした気持ちに終止符を打とうと、住み処を目指して泳ぎ始めようとした。

 そんな時だった。

 ふと、彼女は空を見上げる。

 ――――見られている。

 巨体を誇る彼女を見るモノなど、この海にはいくらでも居るだろう。だが、空の彼方からそのような気配がするのは何故か。どうして、『そいつ』は自分を眺めているのか。

 そいつは、自分の退屈を紛らわしてくれるのか。

 空から感じる、圧倒的なプレッシャー。これほどの力の差は、自分がまだ小さく、自分以外の全てが敵だったあの時以来か。あれから長い月日を経て、最早世界に自分の敵はいないと思っていたが……どうやら杞憂だったらしい。

 まだまだこの世には、自分では敵わない存在が居る。

 恐るべき事実に、彼女の身体は脈動する。久しく使っていなかった『能力』を用い、争いの準備を始める。忘れてしまっていた恐怖を思い出し、沸騰するほどの屈辱が全身を熱くし、弾け飛びそうなほどの興奮が胸の底から噴き出してくる。

 ついには混濁した激情を抑えきれず、彼女は叫んだ。本来その身に存在しない声帯を作り上げ、慣れないながらも渾身の力を込めて。

 その瞬間、星が震える。

 海の流れが変わり、大気が爆発した。プレートが弾けて巨大地震が起こり、マントルが沸騰して火山から噴き出す。世界がもう止めてくれと悲鳴を上げるが、彼女の口から放たれた咆哮は星を何周も駆け巡り、何もかもを無慈悲に引っ掻き回していく。

 彼女は知らない。自分が一つの星を軽々と破壊し尽くすほどの、圧倒的な力を持ってしまった事実を。

 彼女は気付かない。『神』の域に達した自分と対等に戦えるのもまた、『神』であると。

 そして神々の争いに耐えられるほど、この世界ほしが頑丈でない事を。






















 第七章 神話決戦






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