亡き乙女に音色は届かない4

「あぃーだだだだあだだだだっ!?」

「さっきから五月蝿いわねぇ。このぐらい痛み、我慢しなさいよ。私なんて身体を磨り潰されても声一つ出さなかったのに」

「そりゃあなたには痛覚なんて高等なものがないだけでいったぁっ!?」

「あーもー、言わんこっちゃない。そんな大声出したら折れた骨に響くでしょ。全く、脊椎動物は精密過ぎて脆いんだから」

 フィアとミリオンが、家のリビングで愉快な掛け合いをしている。フィアはリビング中央に置かれた水槽の水の中で本来のものである魚の姿を晒し、ミリオンはそれをじっと眺めている格好。ボケとツッコミのような小気味良い会話のテンポは、回りを引き込む賑やかさがある。

 普段ならその賑やかさにつられポッと花咲くように笑みの一つでも浮かべただろうが――――今の花中は暗く、俯くだけ。

 一番の友達が小さな水槽の中で弱々しく横になっているのを見て笑えるほど、花中の性根はひん曲がっていないのだから。

「ほら、はなちゃんも何さっきから俯いてんのよ。お葬式じゃあるまいに」

「それは、そう、ですけど……」

 答えが尻窄みになりながらも、花中は表情を変えられない。フィアが横たわる水槽の前で跪き、顔をフィアから背けるように俯かせる。

 蛍川で負傷したフィアは、ミリオンのお陰で一命を取り留めた。

 その事は素直に嬉しい。小躍りしたくなるぐらいだ。だけど、あの時ミリオンが来てくれなければどうなっていたのだろうか。ミリオンに言われなくてもフィアがエラ呼吸だと思い出せたか。窒息する前に安全な場所まで運べたか。怪我の治療が出来たか。

 どれか一つでも上手く出来なかったら、フィアはどうなっていたか。

 ……想像はしたくない。だが認めなければならない。そして自分が如何に無力であるか、その事実を受け入れなければならなかった。

「ええい忌々しい……何処のどいつの仕業かは分かりませんが今度会ったらグチャグチャになるまで磨り潰してやらねば……!」

「正体も能力も分からないくせに、よくもまぁそこまで強気になれるわねぇ。応急手当はしたけどそれだけなんだから、無理して死んでも私は知らないからね」

「うぐぎぎぎ……!」

 花中と違いフィアは闘魂燃え盛っているようだが、ミリオンに窘められて悔しそうに唸る。やる気はあっても身体が耐えられない事は、フィア自身が一番分かっているのだ。

 フィアにとっては歯痒い状況だろうが、花中にとっては『好都合』と言えた。

「はなちゃん?」

 立ち上がり、リビングから出ようとする花中にミリオンが気付く。しかし花中は無視するようにリビングの外へ。

 リビングの外、廊下に出た花中は自室のある二階へと続く階段……ではなく、玄関の方へと向かう。そこには帰ってきた時靴箱の側に投げ捨てていたポーチがあり、拾い上げるや花中は躊躇いなくポーチの紐を首から掛ける。

 そしてそのまま玄関に一歩踏み出し、

「流石に、此処から先については見過ごせないわねぇ」

 靴を履こうとしたところ、玄関扉の前を塞ぐようにミリオンが

 唐突な、しかし慣れてしまえば何時もの現れ方。花中は靴を履いてから、答える。

「……少し、出歩くだけです。フィアちゃんに、栄養のある虫を、食べさせたい、ので」

「だからあの雑木林に立ち寄るって? もう少しマシな言い訳は出来ないのかしら」

「……わたしの、せいですから」

「ん?」

「フィアちゃんが怪我を、したのは、わたしのせい、ですから」

 真っ直ぐに、ミリオンを見据えて花中はハッキリと告げる。

 あの炎を前にして、フィアが言うようにすぐ逃げていれば。

 そうすれば、少なくともフィアがこんな大怪我をする事はなかった。自分があの時意固地になっていなければ、無責任な正義感を覚えなければ、今頃フィアは自らが捕らえたイモムシに舌鼓を打っていた筈だ。平穏な日常を享受していたに違いない。

 頼り過ぎていた。まるでフィアの力が自分のものであるかのように振る舞っていた。それが、この結末を招いた。

 なら、その『責任』を取らねばならない。

「……はぁー」

 固めた決心を柱にして向き合っていると、やがてミリオンがため息を吐く。呆れたように頭を掻き、そっぽを向いてから口を開いた。

「どーせ責任取らなきゃとか思ってるんでしょうけど、具体的には何を目標にしてるの?」

「フィアちゃんが、何をされたのか、誰にやられたのか……出来れば、どうしてやられたのか。それを知り、フィアちゃんに伝えたい、です。可能なら、その『ヒト』には、フィアちゃんに、謝って、ほしいです」

「穏便な復讐ねぇ。でも無駄に終わるわよ。私、今回の件は自主的に調べるつもりだから」

 ミリオンが告げた言葉に、花中は強張らせるように身体を僅かに震わせる。

 予想はしていた。ミリオンにとって一番大事なのは愛する人との思い出……その思い出の維持に欠かせない、花中の生存を最優先にしている。もしかしたら花中の身にも危険が及んでいたかも知れない今回の事件は、再発を防ぐためにもミリオンが真相を知りたがるのは当然の事。彼女の力を用いれば ― 先日のキャスパリーグの時のような ― 余程大きな勘違いがない限り、大概の秘密はあっという間に暴けてしまうだろう。そして二度とこんな事が起きないよう、ミリオンは危険を『排除』する。何だろうと燃やし尽くす、無敵の力を振り下ろして。

 果たしてただの人間である花中に、僅かでも事件の真相に迫る時間があるのだろうか。

 ――――そんな事は、とっくに分かっている。

 結局、いくら責任と言ったところで、こんなのは自己満足なのだ。何も出来ない、歯痒い自分を誤魔化すための。

「それでも、です。何もしないでは、いられません、から」

 臆さず告げた花中の答えを聞き、ミリオンは考え込むようにしばし天井を仰ぐ。

 もう靴は履いたが、ミリオンが前に居て進めない花中はじっと待ち……

「……危ないと思ったら、すぐに家に連れ帰るからね」

 そう言うとミリオンは、扉の前から文字通り姿を消した。

「あ、ありがとう、ございますっ」

「はいはい、どういたしまして。さかなちゃんの面倒も見とくから、好きにすると良いわ」

 花中が誰も居ない玄関に向けて頭を下げれば、虚空からミリオンの面倒臭そうな声が聞こえた。群体であるミリオンの事。事件の調査、花中の監視、フィアのお世話……全てを同時にこなす事など造作もない。

 懸念はなくなった。フィアが居るであろうリビングの方角に一瞥くれてから、花中はポーチの紐を力強く握り締め、玄関の扉を開けて外へと飛び出した。

 ……さて、何処に向かおうか。

 言うまでもなく、フィアを襲ったモノの正体を掴むための証拠を確実に集められるのは、現場であるあの雑木林周辺だろう。しかしそこはいわば『敵』 ― と事情も知らずに言ってしまうのもどうかと思うが ― の本拠地。考えられる中で最も危険な場所だ。近付こうとしたら、その瞬間ミリオンに家に連れ戻されてしまうだろう。

 よって現地調査は却下。なら、何処に行く? 何処でなら、この異様な事態の調査が出来る?

 情報化社会と呼ばれる昨今、候補はたくさんある。例えばインターネットなら自由に検索が出来、それでいて新鮮な情報を容易に集められる。専門的で詳細な情報を知りたいなら、駅前の大きな本屋で書籍を買い漁るのも悪くない。

 しか無秩序なネット世界で正確かつ詳細な情報を集めるのは骨が折れるし、参考文献がしっかりと書かれ正確性がある程度保証された書籍は値段が張るため数を揃えられない。どちらにも長所と短所はあり、そもそも真実を見付けるためには多様な見方が必要である。どちらか、ではなく、どちらも、でないと駄目だ。

 そんなワガママな要望に応えてくれる場所は、花中がすっと思い付ける中ではただ一つ。

「とりあえず、図書館に、行こうかな」

 大きな声でながら、花中は言葉通りの建物へと向かうのだった。




 大桐家から歩いて五分ほどの場所にある停留所。そこから出ているコミュニティバスに乗って十分ほどの道のりを進み、『図書館前』にて下車すれば――――目の前に、花中の住む町の市立図書館がそびえ立つ事だろう。

 比較的規模の小さな図書館であるが、インターネットが使用可能なパソコン室や新聞コーナーなど、図書館としての機能は十分に備わっている。難点は図書館の要とも言える蔵書数が少なめというところだが、それはあくまで図書館の中ではという話であり、一般人では管理も出来ないほど大量の書籍が置かれている事に変わりはない。普通の調べ物をする分には十分だ。

 そんな図書館に到着してから、インターネットを使い、新聞を読み、本を集める事凡そ二時間。

「だぁーめぇーだぁー……ぜんっぜん、分かんない……」

 積み上げた本と新聞の山に埋もれるように、花中は降参の呻きを上げながら机に突っ伏した。

 こんなはしたなくて衆目を集める行為、普段ならまずやらない。が、今は周りの席に人の姿がないので、少々羽目を外していた。何より、こうでもしないと気持ちの憂さが晴れそうになかったのである。『調査』の進みが芳しくなかったので。

 とはいえ、成果がなかった訳ではない。むしろ成果は上々。その上で芳しくないと思っている。

 今の花中の心境を語るためには、今までどのような調べ物をしたのかを記す必要があるだろう。

 半ば衝動的に家を飛び出した花中であったが、実のところ、フィアを襲ったモノの正体には大まかな検討を見当を付けていた。確かにフィアを襲ったモノについて、花中は何も知らない。しかし大量の水によって構成されたフィアの『身体』を易々と粉砕した事から、『ソイツ』……Aとしよう……の持つ力が強大なのは間違いない。蛍川から吹き出した炎のエネルギー量も相当なものだろう。

 どちらの現象も、人間や自然に真似出来ないとは言わない。が、あまりにもコストが掛かるし、何より不可思議。Aに『人間』や『動物』、『自然現象』を代入するのが正しいとは思えない。

 十中八九、Aはフィアやミリオンと同様、突然変異によって圧倒的な力を手に入れた生物……ミュータントと考えて良いだろう。

 そうなると『何』がフィアを傷付けたのかを知りたい花中の具体的な目標は、ミュータントAの正体を暴く事になる。

 果たして当人に教えてもらう以外の方法で、Aの正体を暴けるのか? 人間が発見した生物だけでも二百万種はいて、しかも未確認生物がミュータント化しない根拠などないのに。暴くにしても現地に行かずに出来る事なのか? 安楽椅子探偵すら、助手を現場に向かわせるのに。

 難しいのは否定出来ないが……花中の頭の中には、それなりの道筋が出来上がっていた。

 微細な分子構造物であるミリオンは熱を自在に操り、俊敏な獣であるミィは圧倒的な身体能力を有し、生粋の水棲動物であるフィアは多量の水を意のままに操る……と、ミュータントの能力は種そのものの特性を強めたような性質が目立つ。それに以前ミリオンが言っていたが、ミュータントの能力はその生物が持っている力を大きく高めたもの、という推測がある。ならば能力が種を象徴するようなものなのは頷ける話。ミィとその兄であるキャスパリーグの能力が同一なのも、その考えに説得力を持たせる。無論あくまで推察であり、絶対とは言い難い。しかし今までの経験から信憑性は高い話だ。つまり能力から、ミュータントの大まかな種を予想出来る可能性は十分にある。

 そしてフィアと花中は、蛍川でいきなり攻撃を受けた。あの巨大な炎がなんらかの警告だった可能性もあるが、突破しようとしたならいざ知らず、立ち往生している相手に攻撃してくるとなれば些かケンカっ早い性格と言わざるを得ない。

 そんな性格の相手が、のこのこと蛍川にやってきた一般人を全て無視するだろうか? 実に考えにくい。花中達以外にもミュータントの『攻撃』を受けた人達が居てもおかしくない。勿論被害者は、よもや「突然変異を起こした生物に攻撃された」とは思わないだろう。なんらかの『事故』として報告されている筈だ。

 蛍川で起きた事故を調べれば、『相手』の能力を知るための手掛かりが得られるのではないか。その能力から正体を探れるのでは……

 そう考えた花中は、蛍川でここ最近起こった事故について調べた。インターネット、古新聞、オカルト本……図書館は情報の宝庫だった。そして目論見通り蛍川で起きた、不可解で、如何にもミュータントの仕業のような事故を多数見付ける事が出来たのである。

 ……そう、多数。

 何故花中が机に突っ伏しているのか? それは調べれば調べるほど、出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ

 あまりにも怪しい事故が多過ぎて、手に負えなくなったからだ。

「うー……なんなのあの川ぁ……」

 ぐでっと顎を机に乗せただらしない姿勢のまま、花中は珍しく悪態を漏らす。

 ほんの二時間で確認出来た事故の件数、なんと六十以上。重複や虚偽らしきものを除いても四十件はある。しかもこの二年間での事故件数であり、更に数年遡って調べれば百件を超えそうな勢いだ。

 内容も幻覚に襲われて錯乱した程度ならまだ大人しい方で、タバコの火が突然弾けて顔に火傷を負ったり、真夏に低体温症で搬送されたと思えば真冬に熱中症で搬送されたり。不意に倒れてきた木の下敷き、家電ゴミの不法投棄をした輩が雑木林の中で一週間も遭難、ピクニックに来ていた家族の自家用車が突如大爆発……呪われているとしか思えない、バラエティに富んだ惨状ばかりだ。

 死者が出たという報告こそ見当たらなかったが、重体で搬送されたと書かれていたものは少なくない。明らかに後遺症が残るもの ― 今月の頭には、眼球が傷付いて失明した女性が現れたとか ― も多かった。道理でフィアと一緒に行った時、雑木林内に子供の姿がなかった訳である。こんな危険地帯、報酬がカブトムシ程度では割に合わない。

 挙句起きた事象に統一感がなさ過ぎる。

 タイミング良く木を倒し、人を雑木林で遭難させ、車を爆発させるとはどんな能力なのだ? 灼熱の炎を噴き上げ、不可視の一撃でフィアの身体を吹っ飛ばす科学的方法とは? 幻覚はキノコによるものかも知れないが、このミュータントの仕業とも考えられる。

 ……さっぱり、分からない。なんだかインチキに嵌められたような、ムカムカとした違和感が胸をくすぐる。

「何か、天からアドバイスとか、降ってこないかなー……」

 周りに人が居ないのを良い事に、それとなく『虚空』に意見を求めてみるが、返事はない。どうやら本当に手伝うつもりはないらしい。

 花中はため息一つ。

 それでも胸中渦巻く虚しさやら徒労感は拭えず、花中は両腕すら脱力し、顎を乗せた姿勢で机に寄り掛かった。

「あれ? 花中じゃん」

「ぴゃあっ?!」

 そんなだらしない姿の時に声を掛けられたので、花中は思わず跳び起きた。結果、弾みで手の甲を机にぶつけてしまった。結構痛い。

 傷む片手をもう片方の手で擦りながら、花中は半べその顔で声がした己の背面へと振り返る。

 そしてまたしても驚き、驚き過ぎて手を擦る動きが止まってしまった。

 何しろ花中に声を掛けていたのは、人の姿をしつつも人ではない――――住所不定無職な『野良猫』だったのだから。

 尤も今日の彼女の格好は野良猫らしく体毛だけで秘部を隠した半裸スタイルではなく、半袖のポロシャツとジーパンという清潔感のあるものだったが。

「み、ミィさんっ!?」

 一月ぶりの再会に、驚きと嬉しさが混ざって思わず声が舞い上がる。が、此所は静かにしないといけない市立図書館。やってしまったマナー違反に花中は咄嗟に自分の口を両手で塞いだが、今更そんな事をしてもマヌケなだけだと後から気付いて顔を赤くする。

 ややあって開いた花中の口から出てきたのは、必要以上に小さなひそひそ声だった。

「ぁ、ぅ……えと、お久し、ぶり、です……」

「うん。一月ぶりかな? 花中は今日一人……のように見えるだけか」

 恥ずかしがる花中を他所に、野良猫ミィは以前会った時と変わらぬ快活さを見せる。兄との『喧嘩』でかなり身体を痛めたと聞いていたが、どうやら経過は良好なようだ。

 安堵のお陰もあって、花中の胸の内もいくらか落ち着いた。なので、首を傾げるだけの余裕も出来る。

 図書館に来たという事は、ミィも調べ物があるのだろうか? それに着ている服は何処で手に入れたのか。フィアやミリオンと違い、ミィの能力……『強靱な肉体を自在にコントロールする』力では、自身の身体を人間の形には出来ても、衣服を作り出す事は出来そうにない。捨てられていた物を拾った、にしては真新しい服に見えるのだが……

 あれこれ考えても仕方ない。話題がてら、花中は訊いてみる事にした。

「ところで、ミィさんは、どうして此処に? それに、その服は……」

「ん? この服はあたしが昨日買ったやつだよ」

「買ったって、お金は?」

「変なおじさんがくれたの。十万円ぐらい」

 さらりとミィは答えたが、花中はギョッと目を見開いた。

 変なおじさん、十万円もの大金、(見た目は)幼い少女……嫌な予感を、下種な勘繰りをするなと言われても無理な話。彼女は人間じゃないのでいかがわしい事をしても法律的にはOKでも、倫理的にNGだ。

「あ、あ、あの、一体、何をして……」

「んー、何をしたかって言ったら、殴った?」

「な、な、殴った!? ……殴った?」

「なんか人気のない場所で、二人のおじさんが変な臭いの粉とお金を交換してるとこに出くわしてさ。何やってんのって訊いたら、お金を貰ってた方のおじさんがいきなりナイフを取り出して、襲い掛かってきてね。殴ってぶっ倒したら、これで見逃して~って言いながらお金を渡してきたの」

 「一体なんだったのかなぁ?」と訊きたげに、ミィはあっさりと答えた。どうやら花中の勘違いだったらしい、が、予想していたよりもヤバいお金。もしかしたら口封じが現れて……などと物騒な考えも過ぎったが、一般人が何百人集まろうとミィに勝てる筈もない。人間にとってはヤバくても、猫にとってはあぶく銭か。

 花中の口からは乾いた笑いしか出てこなかった。あまり盛り上げて誰かに聞かれるのも、面倒事にしかならないだろう。

「で、では、その、どうして此処に?」

 話を逸らすように、花中はもう一つの疑問を改めて尋ねた。

 するとミィは口籠り、逃げるように逸らした顔をほんのりと赤らめる。

 危ない ― という認識など持っていなかったが ― お金の事を簡単に打ち明けたミィが、図書館に来た理由を口籠る。

 聞かない方が良い話だったのだろうか。

 そう思わなくもない花中だったが、好奇心の方が勝った。無論無理やり聞き出そうとは思わなかったが、花中はミィが話し出してくれるのをじっと待つ。

「その……勉強、しようかなって」

 ややあって開いてくれたミィの口から出てきたのは、ごく有り触れた理由で、花中は首を傾げた。

「勉強、ですか?」

「いやさ。一月前、あたしと兄さんがケンカして、一応あたしが勝ったじゃない?」

 ミィに言われ、花中は無意識に記憶を辿る。ミィとその兄・キャスパリーグの諍い……人類にとっては十数万の命の未来を左右する攻防。

 とはいえ、ミィ達にとってはただの兄妹ゲンカに過ぎない。さして深刻に考える必要もなく、花中はこくんと頷いてミィの次の言葉を待つ。ミィは気恥ずかしそうに頭を掻きながら、ボソボソと話を続ける。

「それでさ、やっぱあたしも何もしない訳にはいかないって思ってね。人間の良いところも、悪いところも……ちゃんと知ってって言った自分が何もしないなんて、知ろうとしてくれている兄さんに失礼だなって」

「だから、自分も勉強しようと?」

「うん……って、やっぱりらしくないか! あたしが勉強なんておかしいよね! 猫だし!」

 あはは! と元気に、恥ずかしそうにミィは笑う。

 花中は、ゆっくりと首を横に振ってその笑いを否定する。

「おかしく、ないと思います」

「……おかしく、ないかな」

「はい」

 自分の好きなモノの、悪いところも知る――――やらなきゃいけないのに、とても難しい事だ。花中じぶんもちゃんと出来るか分からない事。どうしてそれを馬鹿にするのか。どうして努力を否定出来るのか。

 それどころか、応援したいぐらいなのに。

「何を調べたいとか、あるのですか? その、具体的な、対象というか」

「具体的には、ちょっとないかなー……強いて言うなら、日常的な部分からもっと知りたい感じだけど」

「そうですか……なら、本を読むより、インターネットの、方が、良いかも、知れません。ネットでなら、最新の、ニュースも調べられます、ので。ちょっと、意見の偏り、というか、ネットの雰囲気、というものが、あるので、正確とは、言えないです、けど……でも、『悪いところ』という、意味では、丁度良いかも、です」

「そうなんだ。じゃあ、ちょっとパソコン室の方に行ってみようかな。使い方は、身に覚えはないけどなんとなく知ってるし」

 ありがとう、と言いながらミィは手を振って別れを告げ、こちらこそ、と返して花中も手を振る。ミィはパソコン室がある方へと歩き出し、本棚の向こうに姿を消した。

 ……パソコンの使い方を知っていたのは、ミュータントであるが故に花中の知識を共有しているからか。だとすると、ネット自体は初体験と思われる。

 さて、ネットサーフィンの誘惑に抗えるか。それもまた経験かと、花中はくすりと笑う。

 それから背筋を伸ばし、ぺちぺちと自分の頬を叩いた。

 ミィと会えたお陰で、気持ちを切り替えられた。

 現場に出向けない以上、困難な道のりなのは最初から分かっていたではないか。それどころかたくさん集まった『情報』に対し、その多さに文句を言うなど贅沢にもほどがある。まとめきれないのは自分の力不足が原因。嘆くべきは現状ではなく己の無力さ。俯き、項垂れても何も変わらない。それにまだスタートでちょっと蹴躓いただけ。『勝負』はここからが本番だ。

 まずは一際印象に残っている自家用車爆発事故を、もっと詳しく調べてみよう。自動車爆発という事件を、ネット界隈が気に留めないとは思えない。インターネットを使えば『事故』の詳細を掴めるかも知れない――――そう考えた花中は今し方ミィが向かったパソコン室に行くべく力強く椅子から立ち上がり、

「ん?」

「あっ」

 発とうと後ろを振り向いたところ、偶々後ろを通り過ぎようとしていた男性と目が合った。

 途端、花中の顔は一気に朱色へと染まる。

 元々恥ずかしがりやで赤面しやすい性質ではあるが、何より花中は男の人が苦手。逞しい肩幅、野太い声、ゴツゴツとした手……どれもが強そうで、ひ弱な花中には全部が怖くて仕方ない。友達が傍に居れば話ぐらいは出来るのだが、生憎今は誰も居ない。いや、正確には数百万を超える『友人』達に包み込まれてはいるのだろうが、姿が見えなければ実感出来ない。

 花中はすっかり萎縮してしまい、逃げるように男に対して背を向けた。ピンっと伸ばしていた背筋は今やすっかり丸まり、身体はビクビクと震えている。そんな自分の反応があまりにも恥ずかしく、花中の顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。頭の中も沸騰しており、周りを見渡す余裕すらない。

 だから――――バサバサっ! と大量の紙が落ちる音に、背筋が凍るほどビックリしてしまった。

「ひゃぅっ?!」

 短い悲鳴を上げ、花中は反射的に音が聞こえてきた背後へと振り向く。そこには未だ男が立っていて、またしても目が合ってしまう。

 混乱していた花中は、今度は顔を逸らせなかった。結果まじまじと見つめる事となり、男の姿をハッキリと認識する。

 幸いだったのは、その男があまり『男性的』ではなかったところか。顔立ちは端整かつ中性的な雰囲気がある細もてで、男性だとは判るのだが、女性的な麗しさもそことなく感じさせる。身体付きもしなやかで、失礼ながら女装をさせても違和感なく馴染みそうだ。唯一男性らしさが色濃く出ているのは、一見して細くか弱そうな、その実厳しい鍛練を耐えてきたのを窺い知れるボロボロな指先ぐらいか。女性的要素が強く正確な歳は判断し辛いが、二十代前半から後半ぐらいに見える。

 そして図書館に泥塗れでヨレヨレなタキシードで来るあたり、中々キテレツな発想の持ち主らしい。

 尤も、男だと断言出来る程度には男らしい事以外、花中の頭には殆ど昇ってこなかった。うっかり見つめてしまったばかりに、顔を逸らすタイミングが分からない。恥ずかしさや怖さで何も考えられず、あわあわと小刻みに右往左往するばかり。

 挙句、その男が不意に花中の肩を掴んできて、

「き、君はあの時の子だよねっ!? そうだよね!?」

「ひぃっ!?」

 大きな声で話し掛けてくるものだから、花中は小さくない悲鳴を上げてしまった。

 肩が痛い。耳に響く。大きな声で何か言っているけど、怒っているのだろうか。何に怒っているのか。自分は何かしてしまったのか。どうすれば許してもらえるのか。分からない。全然分からない。

 怖い――――

「ゃ、止めて……」

「あれからずっと探していたんだ! お願いだ、話を聞かせてほしい!」

 震えながらも声を絞り出して懇願する花中だったが、男の耳には届かなかったのか。怯えて縮み上がる花中に、男はお構いなしとばかりに声をぶつけてくる。あまりにもズカズカとした歩みより方は、まるで十年ぶりに肉親との再会を果たしたかのような必死さを感じさせた。

 もしかするとこの人、わたしに何か用があるのかな。

 ……なんて考えは、花中の脳裏には欠片一つも過らなかった。パニックに陥った頭の中はショートし、理性を司る神経が焼き切れる。怖くて痛くて涙がポロポロと溢れてくるが、震える喉からは過呼吸気味の吐息しか出てこない。浴びせられる『罵声』は耳から入るや頭の中身をぐわんぐわん揺さぶり、そのまま反対側の耳から抜けてしまう。

 押し寄せる怖さから這い出せず、花中は水底に沈んでいくかの如く意識の遠退きを感じ――――

「やれやれ、世話の焼ける子だわ」

 呆れ返った声が、花中の耳をくすぐった。

「いっ、でええぇああああっ!?」

 直後花中の真正面から頭に響くような太い悲鳴が。いきなりの悲鳴に驚き、沈みかけていた花中の意識は一気に浮上する。我を取り戻した視界に映ったのは、身を捩って痛みに悶える男の姿。

 そしてその男の、つい先ほどまで花中を掴んでいた手を捻っている、ミリオンだった。

「み、ミリオン、さん……!」

「はなちゃん、少しは男嫌いを直した方が良いんじゃないかしら? そんなんじゃ結婚どころか彼氏すら出来ないわよ」

「き、君はいっ、いだだだだっ!?」

 突然の介入者に男は抗議染みた声を上げるも、ミリオンは喋るなと返答するかのように彼の手を更に捻る。ミィほどの力はなくとも、重さ数百キロ~数十トンのフィアと対等に殴り合える程度の怪力はミリオンも持っているのだ。仮にこの男が何かしらの格闘技の世界チャンピオンだったとしても、ミュータントの前では赤子、いや、地を這う虫も同然。痛めつける事はおろかほんの少し指に力を込めるだけで、或いは『うっかり』で命すらも奪えてしまえる。人の手なんて、虫の足のようにあっさりと捩じ切ってしまうだろう。

「あ、あの、み、ミリ……」

「安心してはなちゃん。私はさかなちゃんと違ってそこまで手は早くないから。それに……」

 せめてそれだけは意識してほしいと花中は伝えようとしたが、ミリオンはちゃんと意識していたようだ。そして何かを言おうとしていたが……口籠もった途端、ぷっつりと言葉が途絶えてしまう。

 どうしたのかと花中が覗き込めば、ミリオンはすっと笑顔に。

「やっぱり何事も穏便に済ませた方が、後々面倒がなくて楽でしょ?」

 それから当たり障りのない答えが返ってきたので、花中はつっかえの取れない気持ち悪さを覚えた。

 とはいえ、それをここで問い詰める気はない――――痛みでもがき苦しむ人を目の当たりにしながら淡々とお喋りが出来るほど、花中は図太い神経を持っていないのだから。

「ところでこの人……蛍川でさかなちゃんに投げ飛ばされた人じゃない?」

 尤も、仮に図太かったとしても、ミリオンのこの言葉の方に意識を持っていかれただろうが。

 改めて、今度はしっかりと頭を働かせた上で、花中は男の顔を見る。

 ……『蛍川で出会った時』も頭が真っ白だったのでいまいち覚えていないが、言われてみればこの男、見た事あるような気がする。男はミリオンに今にも捩じ切られそうなほど手を捻られ苦悶の表情を浮かべているが、それでも尚花中に視線を向けており、何かしらの執念を燃やしているようだ。自分は覚えてなくとも顔見知りと考える方が自然か。ミリオンが言うように、蛍川で一度会っているのかも知れない。

 だとすれば、どうして彼は何度も花中じぶんに話し掛けてくるのだろうか?

 何か、どうしても話したい事があるのだろうか?

「あ、あの……何か、話したい事が、あるの、ですか……?」

 花中が恐る恐る尋ねると、男は手の痛みで顔を顰めながらも必死に頷いた。

 花中は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いて波打つ心を鎮める。

 今も男の人は怖い。けれどもミリオンが傍に居てくれるのなら、心を落ち着かせて話は出来る。怖がって、逃げてばかりでは何も分からない。怯えるのは分かってからでも遅くない。いや、分かってから怯えなければならない。

 まずは、話し合いだ。そうやってお互いの事を分かり合おう。例え相手がウイルスでも、自分を襲った怪描でも、そうしてきたように。

「……ミリオンさん。手を離して、ください」

「りょーかい」

 花中が頼めば、ミリオンはすぐに男の手を自由にした。痛むのか男は自由になった手を摩りながら、花中と向き合う。流石に散々痛めつけられていくらか気が散ったのか、また花中に掴みかかるような真似はしてこない。

「えっと、その……すみません、驚いて、何も、言えなくて……あの、あっちの、角にある机で、話し、ませんか? 今なら、ちゃんと話を、聞けると、思うので」

「……いや、謝らないといけないのはこっちだね。いきなり掴みかかって、ごめん……その、話を聞いてくれるならありがたい。是非、そうしたい」

「……………」

「……………」

 ぎこちなく会話を交わした後、花中と男は揃って花中が示した隅っこの机へと向かう。まるで他人のように離れて並び、だけど恋人のように足並み揃えて進む様子は奇妙の一言に尽きる。折角人目に付かない隅っこに移動しているのに、人目を集めてどうするのか。

 一部始終を見ていたミリオンは、呆れたようにため息を漏らしていた。

 ――――ただしその直後、彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。

「どう接触させようかと考えていたけど、向こうから来てくれたのは好都合ね……ん?」

 離れてしまった花中には聞こえない、小声で独りごちるミリオン。彼女はふと天井を仰ぐように顔を上げると、何かを聞いているかのようにこくこくと数度頷き、

 その眼を、パチリと見開いた。

「あ、あの、みみ、ミリオンさーん……い、一緒に、居てくれないの、ですかぁー……?」

 そのまましばし微動だにしなかったが、不在に気付いた花中に呼ばれてハッとしたように一瞬身体を震わせる。

「ええ。今行くわ」

 そして花中の方へと向けた顔に浮かべていたのは、何時もの無感動な微笑み。

 音もなく歩み寄るミリオンに、花中が違和感を覚える事はなかった――――

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