第62話 中和滴定

「いやぁ、しかし、なんだなぁ……」

 島津先輩が珍しく言い淀んだ後、乾いた笑い声を漏らした。


「意外だよ、織田」

 その後に続いたのは「ですよね」という蒲生がもうの苦笑い。


「ぼくも最初、ちょっと驚いたんですよね」

 二人の言葉を、俺は甘んじて受ける。


 もう、反論すらできない。というより、ここまで俺につきあってくれるこの二人に、反論する権利が俺にはない。右手にコニカルビーカー、左手にホールピペットを持ったまま立ち尽くす。すでに大分体が右に傾いている気がした。心が折れそうだ。


「ものっすごい、なんだな、君」

 島津先輩が断言する。


「いや、器用なんですよ、織田。ラッピングとかめちゃ上手いし、同じ形を量産するのも得意だしね。ただ」

 ちらり、と蒲生が俺を見る。


「時間がかかりすぎなんですよねー。作業に」

 やっぱり、反論はできない。その通りだからだ。


「まさか、溶液を入れるだけでこんなになるとは」

 島津先輩が腕組みをしてため息を吐く。その隣で蒲生もやっぱり苦笑いだ。


『お前は作業効率が悪いっ。数値は合ってるが、遅いっ』


 授業中、科長にそう言われた。

 いや。

 とうとう、見つけられた、というところか。結構うまくごまかしていたつもりだったんだが……。


『丁寧なのは良いが、スピードも大切だ! 夏休み中、化学同好会の場所を使っていいから、中和滴定の練習をしろ!』

 科長は俺にそう命じた。


「ゆっくりならできるんですよ、ゆっくりなら」

 俺は言い訳がましいと思いながらも島津先輩と蒲生を交互に見る。


「だけど、『時間』とかを区切られたら焦ってつい……」

 俺は自分の右手と左手を見て項垂れる。


 中和滴定の実験だ。

 試料の濃度を調べる実験で、こりゃもう、全くスタンダードな実験だ。製品の濃度を一定にするために使用されるし、普通科だってこの実験をやっているところはやっている。


「よく科長からお願いされるのは、『モル計算が分かってないから教えてやれ』とか、『そもそも実験の意味が分かってないから指導しろ』とかなんだけど」


 島津先輩は、組んでいた腕を解き、眼鏡を擦り上げて困ったように笑った。


「計算は完璧、手順も間違ってない、意味も分かってる。ただ、強烈に不器用だな、君」

 悪意のない笑顔に攻撃され、俺は完全に体が傾いだ。ついでに心も折れた。


 その俺に、島津先輩も蒲生も容赦がない。


「コニカルビーカーから溶液をはじき飛ばした生徒を初めて見たよ」

「勢いよくホールピペットから出しすぎなんだよ、織田。だからコニカルビーカーの壁面に当たって反射するんだ。……いや、普通はしないけど」


「おまけになんとか入っても、コニカルビーカーの壁面に飛び散りすぎ」

「純水入れて、手間が増えるじゃん」


「また、純水をビーカー内にぶちまけるしな、織田」

「量も多い。純水の量が多い」


「いやぁ、そりゃ計算上問題はないけど、確かに入れ過ぎだ。君のコニカルビーカーの内容物だけ、やたら多い。『水汲んだ?』って感じだ」

「だぼん、って入ってますもんね」


「ビュレット操作も……。あんなの初めて見たな。あれじゃあ、コック操作じゃなく、コック解放だろう」

「滝ですよね。だ――――、って。あれ、コックの意味ない」


「なんで、一滴、二滴って落とせないんだ。指、どうなってるんだ」


 ああ、俺の精神が崩壊していく……。


「ビュレット、今までどうしてたんだ? 誰かにしてもらってたのか」

 島津先輩が不思議そうに俺に尋ねる。


 ビュレットというのは、あれだ。細長いガラスのスポイドのようなもので、器具に固定して扱う。コックを開いて下に設置したコニカルビーカーに内容液を少しずつ落とすのだけど……。


 調節が必要で、「あと数滴」、「あと一滴」が必要になってくる。


 俺はそれが出来ない。ってか、ものすごい苦手だ。

 俺は渋々島津先輩に告げる。


「一滴だけ、どうしても落とさないといけないときは、器具を揺すって落としました」


 正直にそう告白すると、島津先輩も蒲生も俺を凝視し、数秒後、腹を抱えて爆笑する。


「いや、だって、コック開いたら、だ――――――、っと落ちるんですよっ! いくらでも落ちて行くんですよっ! 一滴が無理なのに、科長、「半滴」とか言うんですよっ」

 俺の心の叫びを聞いて、一層二人は大笑いだ。


「夏休み中来いよ、織田」

 島津先輩は眼鏡を取り、目の端に浮かんだ涙を拭いながら俺を見る。


「おれと蒲生で特訓してやろう」

 その言葉の裏には、「あわよくば化学同好会に引きずり込んでやる」という意図が見え隠れしてはいたが、素直に「はい」と言うしか俺に選択肢はなかった。


 ところが。

 結果的に俺が化学同好会に通った期間は短かった。


「臭いっ!! 織田、臭いっ!! お前これ、何の臭いだ!」


 剣道部の部活終了後、実験練習の為に化学実習室にやってきた俺に、島津先輩は涙目になって怒鳴った。その隣では、蒲生も両手で鼻を押さえている。


「何って……。あ。籠手の臭いっすかね。稽古終わって一応、手、洗ったんすけど」

 俺は自分の手を鼻に近づける。それだけで、島津先輩と蒲生は大騒ぎだ。


「洗ってこの臭いか!?」

「何コレ!? お前、手だけ局所排気装置ドラフトに入れろよっ!」


 酷い言われようだが、まぁ、そんなもんかな。

 俺たちはこの臭いを『剣士の匂い』と言っているが、異臭悪臭刺激臭であることに間違いはない。


 原因は分かっている。籠手だ。洗わないし、裏返して干す、など絶対無理なので、いくら陰干ししようが消臭剤を振ろうが、臭い。汗で雑菌が繁殖しているのだ。


「ひょっとして、これから毎日この臭いで実習室に来るつもりか、織田っ!」

 慄いたように島津先輩が言うので、俺はけろりと頷く。


「稽古の後にお邪魔します。剣道部の部活動時間の方が、化学同好会の活動時間より早くに始まるので」

 そう言ってにっこり笑い、頭を下げる。


「実習指導、宜しくお願いします」


 結局。

 俺の実習指導は3日で終わった。


 たいして実験の手際が上達したとは思えないが、島津先輩も蒲生も、「我々が教えることはもう何もない」と、鼻をつまんで断言した。

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