第60話 バイト
「毛利先輩、今日は休みっすか」
剣道場のホワイトボードを見て、俺は振り返った。
道場内にはすでに道着に着替えた武田先輩が柔軟体操をしている。お尻を床につけて前屈すると、べったり額が太もも辺りについているのだから、驚く。
「織田君。その言い方は間違ってるわ」
武田先輩が顔を上げ、目を細めて俺を見る。
「今日からしばらく、休みなのよ」
棘のある言い方に、「はは」と俺は追従程度に笑うにとどめる。再びホワイトボードに顔を向けると、確かに汚ったない文字で、『7月いっぱい休み。毛利』と書かれていた。
基本、部活を休む時は顧問に理由を告げ、それから部員に宛ててホワイトボードに『何故休むのか』書いて知らせることになっている。
終業式が終わってあすから夏休み。
どこかふわふわした気分で道場に来てみれば、ホワイトボードにはそんな毛利先輩のメッセージが書き込まれていた。
「毛利先輩、旅行かなんかですか?」
道場奥の更衣室から出てきた石田が首を傾げて武田先輩に尋ねる。
「バイトよ、バイト」
武田先輩がぶっきらぼうに答えた。前屈は終わったらしい。座ったまま右足を曲げ、足首を持ってゆっくりと回している。
「許可とったんですか? 毛利先輩」
石田に続いて更衣室から出てきたのは、ルキアだ。どうせ面を被ったら乱れるのに、頭髪を気障ったらしくかきあげながらのご登場だった。
「取るわけないでしょ、あの面倒くさがりが。親に頼むわけない。顧問には『帰省』って届けだしたみたいよ」
武田先輩は言い、今度は左足首をゆっくりと回す。
「無許可ですか? バイトハンターにつかまるでしょ」
石田が目を丸くする。
黒工はバイト禁止だ。ただし、家庭の事情等でどうしてもバイトが必要な生徒は、保護者が申請すれば許可される場合もある。
ちなみに。
黒工の教師陣は皆、いかつい。
傭兵かレンジャーかヤクザかと思うような容貌や言動を取る大人ばかりだが。
『一度入学したならば、なんとしても卒業をさせる』という気概は、普通科の高校よりよほどある。
『義務教育じゃないんだから、辞めたければ辞めればいい』
そんなことを普通科の高校教師は言うらしいが、黒工の教師陣は、退学を申し出た生徒に食い下がる。とどめようとする。理由が経済的な事であれば、各種奨学金制度や補助金制度を進めるし、バイト先も紹介する。勉学のことであれば、朝学習で個別指導を行う。不登校になった生徒の自宅訪問など、俺の中学時代の先生たちより熱心だ。学校内にはカウンセラールームまである。
そんな黒工が校則でバイトを禁止されている理由はただひとつ。
勉強がおろそかになるから。
バイトに行ったがために、資格取得をおろそかにしたり、定期考査の勉強時間が削られ、結果的に留年したら意味がない、とのことらしい。
そして。
校則で禁じられていることを行った者は、探し出してでも罰を与える。
それが、黒工だ。
教師陣が定期的に、バイトをしていそうな場所を訪問し、黒工生が働いていないかチェックして回っている。
それが、バイトハンターだ。
「捕まらないと思うわ」
武田先輩はつまらなそうに言うと、するりと立ち上がる。今度は足を前後に開いてアキレス腱を伸ばしはじめた。
「へぇ。捕まらないバイトなら、ぼくもしたいな」
ルキアが目の色を変える。まだボイトレを諦めていないルキアは、授業料をどうするかで悩んでいた。バイトをして金を溜めたいのかもしれない。
「ルキアは毛利のしてるバイト、できないわよ」
武田先輩は吹き出し、ストレッチの手を止めた。
「あいつ、町工場で溶接のバイトするって。ど短期の」
「「「溶接!?」」」
不本意ながらも、ルキアと声が被り、俺と石田は同時に視線を合わせて顔をしかめた。
「溶接科、多いのよ。ほら、授業で溶接してみるけど、実際自分たちの技術が『実戦で役に立つか』はわかんないじゃない」
武田先輩は俺と石田を交互に見て肩を竦めた。
「学校で習わないようなことを現場の人たち、教えてくれるし。自分たちの技術が商品として通用するかわかるしね」
武田先輩は、「それに」と笑った。
「普通科の子たちみたいに、飲食店やカラオケでバイトするよりは、バイトハンターに見つかりにくいわ」
俺たちは顔を見合わせて、なんとなくうなずく。確かに見つかりにくいだろう。
「毛利先輩、金を稼いでも全部、遊びに使いそう」
遅れて更衣室から出てきた伊達だが、話しは聞こえていたらしい。石田にそう言い、苦笑を返されていた。
「もともと、部活に興味はなくって、一年の時からバイトしたかったんだって」
武田先輩の言葉に、そういえば、武田先輩が誘って、毛利先輩は入部したんだっけ、と思いだす。
「去年、私の稽古相手、あいつだけだったのよね。夏休み期間」
武田先輩は呟くようにそう言う。
一年前、武田先輩は野球部と男子バレー部員から、妨害まがいのセクハラに遭った。遭っただけでも不幸なのに、結果剣道部の先輩を全員失った。あの後、武田先輩の稽古につきあってくれたのは、毛利先輩だけだったのだろう。そんなことを考えれば、ちゃらんぽらんだけど、人情味に溢れたいい先輩だ、としみじみ思ったのだが。
「私が考えたメニューで去年の夏、稽古をやってたんだけど……。あいつ、中学で引退してからあんまり体動かしてなかったみたいでね。すぐ熱中症みたいな感じで倒れるし、筋肉痛だとかなんとか言ってサボろうとするし……。声もがらがらになって潰れるしね」
「「「「……えっと。去年の稽古メニューは……」」」」
俺たちは声を揃えて武田先輩に尋ねた。ごくり、と皆が生唾を飲む。
「これよ。去年と一緒。ちょっと手抜きしちゃったわね」
言うなり、武田先輩はホワイトボードを反転させ、裏面を俺達に見せる。そこには、武田先輩が書いたであろうメニューが、びっしりと書き連ねてある。
その内容を確認した俺たちは、絶句した。
……そりゃ、あの、毛利先輩でも音を上げるわ、と……。
「今年は、鍛えがいのある男の子がこんなに入部してくれて、本当に嬉しいわ」
冴え冴えとした笑みを浮かべ、武田先輩は俺たちを睥睨する。
「この夏で、強くなりましょうね、君たち」
底光りのする瞳で射竦められ、俺たちは思った。
毛利先輩。
バイトに逃げた、と。
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