第304話 消息

 ミスルトゥを飲み込んでしまった巨大な影の狼は、完全に動きを止めると、世界に一拍の静寂をもたらした。


 明滅を続けていたミスルトゥも、不安にどよめく群衆も、何もかもが静寂に包まれてゆく。


 その様子を肌で感じ取ったドクターファーナスは、一つ深呼吸し、頭の中を整理する。


 今彼女が目にしている物は、間違いなく、ミノーラなのだろう。


 確たる証拠を求められれば、そんなものはどこにもないのだが、それ以外の心当たりがない事も、また事実だ。


 そんな事実と、タシェル達が突然ボルン・テールに現れた事がどのように関係しているのか、想像が止まらない。


 とは言え、混沌無形な憶測を延々と思考することに、大した意味を見出せなかった彼女は、すぐに頭を切り替えた。


 涙を流しながら呆然とミスルトゥを見上げたままのタシェルの傍に行き、彼女の瞳を覗き込む。


「タシェル。落ち着きなさい。そして、ミスルトゥの中で何が起きたのか、詳しく説明してちょうだい」


「先生……はい、すみません」


 声を掛けられたことで気を取り直したのか、涙を拭ったタシェルは深呼吸をした。


『何がどうなってるのか分からないと、どうするべきなのか分からないわね……。タシェルちゃんが落ち着いてくれて助かったわ』


 次第に落ち着きを取り戻しつつあるタシェルやオルタ達の姿を見ながら、少しばかり安堵した時、新たな騒ぎが診療所内から聞こえてきた。


 それと同時に、先ほど拘束したはずのレイガスとクロムが居た方でも、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。


「次から次に何が起きているの!?」


 若干の苛立ちを含ませながら呟いたドクターファーナスは、まず、診療所の方へと目を向ける。


 すると、騒ぎの原因であろう二人の人物が、看護をしていた数人の職員をかき分けながら、姿を現した。


 その内の一人である女性が、ミスルトゥを見上げ、呟く。


「成功したのですね……」


 それに続くように、もう一人の男が首を摩りながら告げた。


「みたいだな。それにしても、ミノーラはお人よしすぎる。これが本当に成功と言って良いのだろうか」


 二人が何を言っているのか理解できなかった彼女が、思い出したようにバリケードの方へと目を向ける。


 誰かが暴れている声が聞こえてくるあたり、レイガスが目を醒ましたのだろうと推測した彼女は、何者かがバリケードを飛び越えて来るのを目の当たりにした。


 その姿は、予測していた背格好より一回り小さなもので、控えめに言っても、ズタボロな状態の青年。


 纏っている衣服もボロボロで、体中傷だらけのクロムが、勢いよくバリケードを飛び越えて来たのだ。


 向かう先に居るのは、診療所から出てきた二人。


 その内の女性を強い眼差しで見つめながら、クロムが叫ぶ。


「サチ! 行かないでくれ!」


 今にも転げてしまいそうになりながら駆け寄ろうとするクロムは、しかし、後を追いかけてきた兵士たちによって、羽交い絞めにされてしまう。


 それでも抵抗を止めないクロムの様子を見ているうちに、彼女は心の内に様々な感情が湧き上がってきた。


 同情か、はたまた憐れみか。


 事情を知らないので、口を挟む気にはなれないのだが、そんな彼女ですら気の毒に思えてしまう。


 何が彼をそこまで必死にさせるのだろう。


 そんな考えに至った瞬間、どこからともなく、耳に触るような嫌な音が、響いてきた。


 ピシッというその音は、その場にいた全員に、平等に降り注いでくる。


 音のする方へと目を向けた彼女は、すぐに音の原因を理解した。


 先程まではっきりと見えていたはずの影の狼が、薄っすらと姿を消しつつある。


 必然的に、再び姿を顕わにしたミスルトゥは、完全に光を失っていた。


 さらに言えば、その表面に巨大な亀裂がいくつも走っているではないか。


 それらの亀裂が、ただの模様では無いことを指し示すかのように、ゆっくりとミスルトゥが崩壊を始める。


 時間の流れが遅くなったように感じた彼女は、崩れたミスルトゥの光景に、遅れて迫りくる轟音を耳にし、咄嗟に声を張り上げる。


「サライちゃん! 衝撃を打ち消しなさい!」


 遥か遠いミスルトゥの麓で、巨大な粉塵が巻き上がるのを横目に見ながら、彼女はタシェル達を庇うようにして、地面に転がった。


 次の瞬間には、ありとあらゆる情報が、世界をごちゃ混ぜにして行く。


 力の精霊であるサライのお陰で、少なくとも彼女がいる付近だけは、衝撃を和らげることが出来たのかもしれない。


 しかし、完全に緩和できたとは、到底言うことは出来ないだろう。


 甲高い音が耳をつんざき、大量の砂ぼこりが口や鼻から体内に入り込んでくる。


 猛烈な衝撃で地面を転がったせいか、体中のあちこちが痛む。


 目も耳も使い物にならないような状況の中で、彼女は静かに時が過ぎるのを待った。


 そのまま、どれだけの時間が経っただろうか、ようやく周囲の様子を伺えるようになったころ、彼女は何者かが歩み寄って来た事に気が付く。


 足音から察するに三人が、彼女のすぐそばを通り抜けて、どこかへと歩み去ってゆく。


 タシェル達がどこかへと立ち去ったのかと、一瞬慌てたドクターファーナスだったが、すぐ傍にタシェルとオルタが横たわっているのを見つけ、安堵した。


 その後、周囲の視界が開けるのを待った彼女は、意識のある者と協力し、事態の収拾と負傷者の確認を行った。


 そして、行方を眩ませたであろう3人の素性が明らかになったのだった。


 一人は、サチと呼ばれていた女性。


 もう一人は、バートンと言う男性。


 そして最後の一人は、ハリス会長。

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