第6話『12月12日(5)』

 白夜は暴行を受けた後、アパートから出るとそのままの足でアパートの近くにある路地裏に入った。

 すぐにうずくまり、嘔吐した。 吐瀉物から湯気が立ち上り、白夜の鼻を刺激する。

 そしてまた嘔吐。

 喉が切れ、黄色い吐瀉物に赤い血が混じる。

 それを数度繰り返し胃が空っぽになった後、うずくまったままの姿で身体を触る。

「あれ、熱くない……」

 先ほどまでの身体の不調が嘘のように消えていた。

 三十分ほどそうしていただろうか、いつまでもうずくまっていても仕方がないと考えた白夜は家へ戻ることにした。

 スカートのポケットから取り出した携帯電話で時間を確認する。午後九時をまわったところだった。

 立ち上がると身体のあちこちが痛み出したが、あの熱さから比べれば些細なモノと割り切り、路地裏から顔を出す。

 明日はもう少しマシな日であること祈りながら。

 


                        ※



 少女は今自分が不機嫌だと実感していた。

 イライラすると爪を噛む癖が出るからだ。

 すでに少女の爪はボロボロだった。

 少女が佐々木 白夜をあのアパートに呼び出したのはこれで二回目。

 一度目はちょうど一週間前、少女より先に白夜をイジメていた者と一緒だった。

 最初、少女は人に危害を加えることにあまり気が進まなかったが、先人に勧められるがまま白夜に暴行を加える。

 気が進まないまま、軽く頭を叩いた。

 気が進まないまま、腕を殴った。

 腹を蹴った。

 髪を掴み床を引きずり回した。

 いつしか『気が進まない少女』という名の仮面は落ちていた。

 少女は自分の嗜虐性に気が付き、暴力はエスカレートする。

 無抵抗な人間に暴力を振るう背徳感に少女は酔いしれた。

 そして今日は二回目。

 本当なら一回目に暴力を振るった次の日にでも呼び出したかったが、我慢した。

 我慢に我慢を重ねた方が暴力を振るった時の爽快感が増すかもしれないと考えたからだ。

 今日我慢の限界を迎えた。

 満を持して呼び出したというのに、まったく楽しめなかった。

 こんな不完全燃焼のままで帰るわけにはいかない。

 そのような自分勝手な理由から、白夜の家の近くのこの公園で待ち伏せして溜まったものを吐き出そうというわけだ。

 いわば延長戦。

 いわばロスタイム。

 ちょっとしたおかわり感覚なのが、このただただ自分勝手に暴力を振るいたいから待ち伏せをする、という行動からも見て取れる。

 近くの自動販売機で買ったホットミルクティを片手にベンチに腰掛けると、白い猫が少女に擦り寄ってきた。

 汚いと一度は追い払うが、懲りもせずにまた寄ってくる。

 それが二度、三度と続いた。

「ああ、うっとおしい!」

 元々イライラしていた少女はベンチから立ち上がり、猫の腹めがけて足を蹴り上げる。

『ニャッ』とも『ギャッ』とも取れる鳴き声を撒き散らしながら吹き飛ばされた猫は、何度か痙攣したあと血を吐き、ピクリとも動かなくなる。

「猫……」

 風が吹けば聞こえなくなるような声。少女の元に靴音が近づいてくる。

 白夜が少女の背後でもう動くことがないだろう猫を見つめていた。

「あれ、さっきぶりー、元気してた? これ、あんたの猫だったの? 歩いてる時に私の前に来たから足に当たっちゃったよ、ごめんねー」

 少女は、今日の自分はツいてると実感した。

 まさかこんなにすぐ白夜と再会できるとは考えていなかったからだ。

「はぁはぁ――熱い……」

 白夜は俯いて自らの身体を両手で抱きしめる。

 白夜に異常を感じつつも、気にせず周りに視線をやる。

 公園の周辺に人の気配はなくツキも隠れていた。

 本当に自分はツいている。

 これならたっぷりと楽しませてもらえそうだ。

 俯いている白夜の段違いになった髪を掴み、

「この髪、バランス悪いよ。私が揃えてあげる。安心して支払いは後でいいから」

 嗜虐的な笑みを浮かべる。

 髪を引っぱった拍子に白夜の表情が目に入る。

 少女が想像していた表情と正反対の表情をしていた。

「え……?」

 自分の身によくないことが起きる。

 普通じゃない――佐々木 白夜の表情を見て少女がその考えに至るまで時間はかからなかった。

 白夜から遠ざかろうと一歩踏み出す。

 少女に二歩目はなかった。

 一際強く、風が吹いた。

 深海魚のような雲が空を覆う。

 月明かりがなくなった公園は備え付けの外灯の貧弱な明かりのみとなる。

 ぽたり――手首から何かが伝う。

「ふぇ?」

 寝起き後に初めて発した声の様な、間の抜けた声が漏れる。

 その何かが伝う感覚に自然と振り向き、少女の視線が自らの右腕に向けられた。

 白夜に触れられた右手首は皮膚が裂け百八十度内側へと折られる。

 少女の手のひらが自らの前腕と握手しているようだった。


 ――人気のない公園で、殺人が始まった。

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