61話 月夜の悪魔

「気が付いていないとでも思ったか」


 辺りが急に、夜のように暗くなる。

 小さな溜息を吐いたルリジオが、腰にぶら下げた剣の柄に手を添え、アビスモがワンドを片手に持った。

 黒い炎が、ルリジオたちを取り囲むような円の形に広がり、あっと言う間に退路を塞ぐ。


「お前を探す手間が省けたぞ……。よくきてくれた、偽りの勇者よ」


 声が聞こえた方向へセパルが目を向け、少し遅れてルリジオたちが追うようにそちらを見る。

 炎の上を飛び越えて、空からゆっくりと下りてきたのは真っ赤な鎧を身に付けた、くすんだ金色の髪をした男だった。

 男の両肩を掴んでいるのは猛禽類のような脚を持つ女の両眉の上には、親指ほどの長さがある紅い角が伸びている。

 新月の夜を思わせる漆黒の肌の女は、背中に生えた大きな黒い四枚の翼をはばたかせながら、着地する。そして、男の肩を掴んでいた脚をそっと離した。

 黒いドラゴンの革で作られた胸当てで隠された、下半分だけ露出している谷間へルリジオは目を向けている。

 彼女は、そんな彼の視線を気にする様子はない。腰まで伸ばした銀色の髪と、豊満な乳房を揺らしながら、男の後ろへ下がると片膝立ちになって跪いた。


「お前を殺して、オレ様が真の勇者だと民に認めさせてやる」


「僕は、君に旧き神と蛇髪の君ヴェパルがどんな契約を交わしたのか知らないか聞こうと思っていたんだけど」


 自分を指差して睨み付けてくるくすんだ金髪の男を見て、ルリジオは僅かに目を細める。


「今の君なら、蛇髪の君ヴェパルと君を置き換えてくれるように旧き神と交渉した方が話が早そうだ。君ほどの悪魔を従えているのだからね」


 ルリジオの呼びかけに、漆黒の肌をした女は少しだけ顔を上げた。そして、双眸に嵌め込まれた紫水晶のような瞳をギラつかせながらルリジオを捉える。


「……アグレアスか。随分大物の悪魔を呼び込んだな」


 自分の名を呼んだアビスモに、彼女はギョロリと視線だけ動かした。すぐに立ち上がろうとしたアグレアスを、くすんだ金髪の男は手で制する。


「先ほどからオレ様のことを無視して、配下ばかり話題にしやがって! 偉大なる勇者の末裔であるオリヴィス様を馬鹿にするにもほどがあるぞ」


「ううん……流石の血筋……と言いたいところだけど、残念ながら結界の件は、月夜の悪魔アグレアスの力が大きいだろうね」


「こいつを黙らせてから、聞き出すか」


 オリヴィスの言葉がまるで聞こえていないかのように、アビスモとルリジオは話し合うと、お互いに武器を構えた。


「か、母様よりも高位の悪魔を従えているのだぞ? こ、こわくないのか?」


 顔を青ざめさせているセパルが、タンペットの近くで、悲鳴に近い声でそう話すも、二人は涼しい顔を崩さない。


「俺は、悪魔の王とその軍勢を従えていた元魔王だぞ? そして、こいつは魔王城に乗り込んできた英雄だ。一人の悪魔とチンケな真の勇者様如きに怯えていられるか」


月夜の悪魔アグレアスとは、早く会話を交わしたいものだけれど、少々邪魔者がいるようだからね。手早く処理をしてしまおう」


 ルリジオは、そういうと何かを思い出したかのように自分の胸元を探った。

 小さな革袋を取り出すと、彼はそれを口に付けて中に入っている液体を自分の口に含む。

 僅かに眉を寄せてこちらを見たルリジオにセパルは、思わず立ち上がって駆け寄った。


「な!? それは、人間には毒なのであろう?」


 驚いて、橄欖石のような瞳を見開いたセパルの顎の下に、細く美しい指がそっと添えられる。

 もう片方の手でセパルの肩を抱き寄せたルリジオは、セパルへ顔を近付けた。

 二人の唇が触れあい、彼女の細い喉が、何かを飲み下した時のように上下にコクリと動く。


「うっげえええ……」


 ルリジオを突き飛ばして、四つん這いになって倒れ込むセパルの背中を、タンペットは思わず擦ってやりながら顔を上げた。


「……こんな時にいきなり接吻したと思えば……何をしたの?」


「ううう……ヒュドラの糞でも飲んだ方がマシな味なのだ……」


 涙目になっているセパルに「ごめんよ」と謝ったルリジオは、剣を鞘から抜いてオリヴィスと、彼の後ろで跪いているアグレアスへ向き直った。


「まあ、保険みたいなものかな? じゃあ、僕たちは行ってくるよ」


 それだけ言うと、アビスモと共に二人は、黒い炎を纏った剣を背中から抜いたオリヴィスの方へ歩いて行く。


「怯えた様子を隠してオレ様に向かってくるのは褒めてやる! 偽の勇者と魔王を自称するみそっかすめ」


 剣を構えて、二人を罵るオリヴィスの後ろで、アグレアスがそっと目を伏せるのが見えた。

 アビスモは小さく溜息を吐くと、ワンドの切っ先を、アグレアスへ向けた。アビスモは、目を細めて呆れた様にオリヴィスを見る。


「どういう契約を結んだのか知らんが……今ならまだ間に合うぞ。ルリジオに命乞いをすれば苦痛が少ない道を選べる可能性はある」


「オレ様をどこまで愚弄する気だ」


 大ぶりな動きで、オリヴィスがアビスモに斬りかかる。

 半身を反らして、さらりとオリヴィスを避けた――はずだったが、剣が纏っていた黒炎はアビスモを追いかけるように伸びた。


 振り返ったオリヴィスは、黒炎がアビスモの体をあっと言う間に覆い尽くすのを見て満足そうに笑う。体勢を整えて炎を向き合ったオリヴィスは、再び剣を振り上げる。

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