3話 氷の心臓夫人

「御主人様! 御主人様! また憂鬱の森スクォンクの夫人が溶けちまいました」


「帰って早々騒がしいな……詳しく教えておくれ毛むくじゃらくんブラウニー


 ルリジオは、外套を脱ぎながら足元でピョンピョンと跳ね回る自分の膝小僧くらいの背丈しかない茶色い毛むくじゃらのボールのような生き物に対して少々疲れた様子で声をかける。


 ルリジオが手にしている外套を手放すと、それを待っていたかのように飛び出してきた蜉蝣の羽根が背中に生えた掌ほどの少女の妖精によってクロゼットに運ばれていく。

 ルリジオの館は、家の取り仕切りのほとんどをヒトではない存在に頼っているのだった。


 妖精の少女から良い香りのする暖かな茶が入れられたカップを手にして暖炉前の椅子に座ったルリジオは、ブラウニーと呼ばれた茶色い毛むくじゃらの妖精の方を見ながらカップを傾ける。


憂鬱の森スクォンクの夫人が、氷の心臓ウェンディエゴ夫人とまた鉢合わせしちまったんですわ……」


「スクォンクが怖がるといけないから確か一番離れにしたはずだろう? 何があった?」


「それが……怖がって溶けちまうのが面白いってんで、氷の心臓ウェンディエゴ夫人や残酷のオーク夫人が追い掛け回しまして……」


 ブラウニーの言葉を聞いて、ルリジオは溜息を吐くと手を顔の前で組み考え込むような表情になる。

 長年手伝いをしているブラウニーは、彼がどう対処するのか興味を持っていた。

 ドラゴンの首さえも簡単に剣ひとつで叩き斬れるほどの実力と、常春の国ティル・ナ・ノーグの女神から与えられた唸るほどの財産があるルリジオという男が、自分の妻として引き取った相手に武力を少しも

誇示するところを見たことがなかったのだ。

 以前も事故で、他の妻同士が鉢合わせになり、ルリジオの所有するこの巨大で堅牢な館を半壊させるトラブルがあった。そのときも、ルリジオは決して妻たちに手をあげようとしなかった。それどころか全身血まみ

れになりながら根気強く妻たちを説得したのだ。

 しかし、今回は強いものが弱いものを一方的にいじめる形のトラブルだ。こういうときくらい威厳を示しても夫としても、館の主人としても、規律のためには当然のことなのでは? そう思ったブラウニーは出過ぎ

たことかもしれないと前置きをしながら、思案顔のルリジオにおずおずと物申すために口を開く。


「それにしても、ギザギザ歯で唇は抉られたようで、あんな歪んだ手指のガリガリの性悪……御主人はなんでキッツイ折檻で思い知らせてやらないんですかい?」


「だって巨乳だぞ!?」


 間髪入れずにそう言い切った主人の姿を見て、ブラウニーは思わず笑いがこみあげてくる。

 そうだこの人はそういう人だった……と笑い終えたブラウニーは、溶けたスクォンクが詰められた皮の袋をルリジオに差し出した。

 ルリジオは、差し出された皮袋に頬ずりをすると立ち上がり、夫人の自室へと向かう。ブラウニーはお辞儀をして、主人とその夫人の一人だったものが入った皮袋を見送った。


 二人きりの部屋で、ルリジオは闇の中でほんのりと深い緑に輝く石で出来た桶に皮袋から液体を注いでいく。

 注がれた液体はしばらく波紋を浮かべていたが、ルリジオが「ただいま。怖がらないで僕の可愛い可愛い美の女神……」と囁くと、プルプルと震えてゆっくりと固まっていった。

 ゆっくりとルリジオの胸元くらいの大きさに固まり始めたやわらかい物体は徐々に固まり始め、無数の皺とイボと痣に彩られた体の上に、三日三晩苦痛に顔をゆがませ続けたらこうなるであろうというような猪の頭

を付けた姿へと変貌した。

 ルリジオは、元に戻ったスクォンクの、そのひしゃげた頭をゆっくりと撫で、折れ曲がった背筋を擦り、うっとりとした瞳で彼女に白い花束を捧げながら熱を帯びた声で愛を囁くのだった。


「この曲がった背筋のお陰でひっそりと崖の間にひっそりと咲くような秘めた宝のような豊満な胸、そして手触りのいい君のイボだらけの肌、見ていて飽きない少したるんだやわらかそうなそのお腹……本当に君は僕

にとって美しく可憐な宝物だよ……」


 すすり泣いていたスクォンクは顔を上げて、ルリジオのことを見つめるとなにやら口をパクパクと開閉させてなにか囁いた。

 ルリジオは人には聞こえないくらい小さな声で話すその陰鬱な見た目の妻の言葉を受け止め、安心していいよと言って抱きしめると、部屋を後にするのだった。

 スクォンクは、彼が出て行ったあと、安心した様子で扉が閉まるのを見ると、頑丈な錠前を内側から締めて、木の洞を模した苔の敷き詰められたベッドに横たわり体を丸め、眠りに落ちたようだ。


 スクォンクの部屋を後にしたルリジオは、海豹の妻セルキーから譲り受けたどんな寒さも防ぎ、水の中でも呼吸が出来る不思議な毛皮を羽織ると、離れにある氷に覆われた部屋のドアを優しくノックする。

 乱暴な足音と共にドアが開かれると、冷風と一緒に齧り取ったような唇と抉れた鼻のこけた頬をした女が顔をだし、ギョロリと血走った目をルリジオに向けてきた。


「会いにきたよ愛しい君」


 そう言って溶けて固まった灰色の雪のような色をしたゴワゴワした髪の毛を撫でたルリジオの手を奪い取るように両手で掴んだ氷の心臓夫人ことウェンディエゴは、夫であるはずの男の腕に勢いよく噛み付く。

 ルリジオの身に纏った毛皮は彼女のヒトより少し鋭いほどでしかない牙を弾き返してしまい、ウェンディエゴは不満そうに鼻を鳴らしながら部屋へ招き入れた。


「その細い骨のような手足と真逆の、新雪が山のようにように積もったようなその柔らかそうな豊かな双丘はいつみても素晴らしいね」


 自分の腕に噛み付かれそうになったことはまるでなかったかのようにルリジオはそういうと、氷で出来た椅子にゆっくりと腰かけた。

 ウェンディエゴは落ち着きなく座ったルリジオの周りで鼻をひくつかせながら歩き回る。それは、まるで獲物を追い詰めた狼がいつそれに襲いかかろうかと悩んでいるのを彷彿とさせるような動きだった。


「…―………。―……―。―…―――。…―――。―…。…。……。―…。…―」


「そうだね。僕の役目が終われば君に最初の一口を食べさせよう」


 ウェンディエゴは、独特のヒトには聞き取りにくい声で話す。これで話され続けた人間は気が狂うといった伝承もあるほどだが、ルリジオはなにを言っているのか到底聞き取れない吐息とぼそぼそと隙間風のような

雑音にしか聞こえないその声に笑顔で応答する。

 ルリジオは、グルグルと落ち着きのない様子で自分の周りを歩き回る豊かな胸の妖婦の肩にそっと手で触れ、動きを止めさせると、その白濁として焦点の微妙に合わない目を見つめて真剣な声で話し始める。 


「それよりも、この前約束したはずだよ? みんな僕の大切な存在なんだ。それぞれ干渉しないって約束してほしい。それが無理なら、僕の体も食べさせることは出来ない」


「―――…―。―…――…。 …――。………―。―――…。………―。…―――」


「聞き分けがいい素敵な妻を持てて幸せだよ。契約の証に、僕の血なら今分けてあげよう。これからもその素敵な高く聳える双丘の雪原を僕に拝ませてほしい」


「―……―。―……―…。―…――…。」


 首がもげてしまうのではないかというような勢いで頷くウェンディエゴに対して「鮮度は悪いけど……」と言ってルリジオは、皮袋から小さな木のコップに赤黒い液体を注いでいく。

 そのコップを素早く奪い取るように両手で持ったウェンディエゴは、喉を鳴らし口の周りを真っ赤にしながら飲み干すと、ギザギザの歯を見せて笑ったような顔を見せた。

 ルリジオは、警戒をようやく解いた彼女を見ると、そっと胸の谷間に指をすべり込ませる。


「氷のようなツルツルとした肌触りと、保護魔法なしの素手で触ったら凍傷を負ってしまいそうなこの体温……ああ……君を妻にして本当に良かった……」


 恍惚の溜息を吐くと、彼は満足そうにドアを開けてウェンディエゴの部屋を後にした。

 離れから戻ってくると、待ち構えていた毛むくじゃらのブラウニーに外套を渡し、肌触りの良い、蜘蛛の絹スパイダーシルクで織られた花の香りのするローブを妖精の少女たちがルリジオに着せていく。


「この外套の傷……それに血の匂い……もしかして一噛みやられたんですかい?」


「それが彼女ウェンディエゴの愛する者へのさがだからね。うれしいよ。食べたいと思うほど僕を愛してくれているようで……」


「傷の手当はよろしいのですか?」


「この前の外出の時流れた僕の血だからね。もう傷は癒えてるよ。ありがとう」


 ブラウニーは外套を、糸紡ぎの老婆ハベトロットに手渡しながらルリジオの身を案じる。

 彼も、ルリジオがどんな傷もたちまち治り、本気を出せば剣を一振りするだけで巨木を百本なぎ倒すことも容易いほどの力を持っていることはわかっていても、氷の心臓を持つ鬼のような存在と二人きりになったと

あってはなにがあってもおかしくないということも心得ているのであった。


 ルリジオが笑って答えると、それに対してブラウニーは恭しくお辞儀をした。

 そういえば今日はいつにもまして機嫌が良さそうだと思ったブラウニーは、ここぞとばかりに長年聞きあぐねていた疑問を口にしてみる。

 なにもここは醜女だけの館ではない。

 ルリジオの麗しい見た目と輝かしい功績は、ヒトや妖精だけではなく、女神や神の娘の心までもうばっていて、あちらからぜひ妻にしてくれとの申し入れも山のように来ているのだった。


「それはなによりなことです。とはいえ、蛇の女神や竜神の娘などのヒトからでも見目麗しい奥方もお待ちになっているのに何故あのような野蛮で……失礼ですが知能も獣並のウェンディエゴ様を他の奥様同様に愛せ

るのです?」


「だって巨乳だぞ!?」


 食い気味に答えたルリジオは、少し取り乱したのを自覚したのか恥ずかしそうに咳払いをすると、先ほどまでの逢瀬を思い出すようにうっとりとした声で妻の一人であるウェンディエゴについて話し始めた。


「素手で触ったら凍ってしまう巨乳の持ち主だぞ? ただでさえ男のウェンディエゴが多いんだ……あんな巨乳のすばらしい人には二度と出会えない……」


 ブラウニーは、ルリジオの答えに改めて尊敬の念を示した。

 見た面の美しさは、彼にとって本当におまけ以下の価値しかなく、それよりも胸の大きさや感触が判断基準なのだ……と。

 そして、自分の命や血肉を狙われたとしても、胸への想いは揺らぐことがないという恐ろしい価値観を目の前にして、今、この世界を脅かしている多くの魔物を総べる魔物の王の胸部に柔らかな双丘がそびえている

という噂が流れてきていないことに心から安堵していた。


「……で、毛むくじゃらくんブラウニー、今夜はもう他にもめごとはなさそうかい?」


 ブラウニーが聞いていない間もしばらくウェンディエゴの胸部の魅力について語っていたルリジオは、ようやく我に返ったのか落ち着きを取り戻した声で館の主人らしい問いかけをする。


「はい。先日お越しになった怪力の君も、リラ夫人もこちらに馴染んだようです……」


「ああ……それならよかった。じゃあ後は頼むよ。僕は久しぶりにママンと過ごすことにする。なにかあったらこれで呼んでくれ」


 そう言って力を抜いて笑うルリジオは橙色に輝く四面体の欠片をブラウニーに放ってよこすと、広間のバルコニーへとゆったりと歩いて行った。

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