第2話 真珠の家《マルゴット》

 ロンドンからは大分遠ざかった。まばらに木が生える草原を歩いていくと、ナラの木が密生する小さな森が見える。森に入ると、あちこちで様々な植物が育てられていた。区画が区切られ、よく手入れされている。冬でも咲く様々な花々、珍しい樹木。見た事もない果実もある。妖精郷ほど非常識ではないが、どこか近いものが感じられた。

 特殊な方法で摂取すると幻覚を見たり、多幸感に包まれたりする植物の噂がある。そういったものが、裏稼業では高値で取り引きされるが、ここではそれらを栽培しているのだろうか。あれこれ考えても仕方がないので、エルニカは思い切って聞いてみた。


「なぁ、あんた達の稼業は一体何なんだ。そろそろ教えてくれ」

「だから言ったじゃあないか、魔女とその弟子だってね」

「いや、たとえの話じゃなくて」


 英国には、魔女や魔術師などと称する詐欺師は大勢いた。旧教派カトリックの奇跡や秘蹟は新教派プロテスタントでは魔術と同じと考えられ、国家的に改宗した時点で、英国の民は『教会の神秘』による救いを失った。不運や不幸は自分の行いの結果とされ、超常の力に縋ることが許されなくなった。そこで台頭したのが、魔女、魔術師などの職能である。彼らは元々地域の知恵袋として活動していたが、少なくとも英国においては、宗教改革の影響で、これらの民の受け皿となり、稼ぎが増えた。そしてそれにあやかろうと、それを騙る詐欺師も増加した。エルニカにとって、魔女といえば詐欺師の事なのである。


「さっきの魔術を見ても信じられないのかい? あたしは本物の魔術師さ。聞いた事はないかい、エリザベス女王の寵愛を受ける、ジョン・ディー博士のことを」

「あの噂、本当だったっていうのか?」


純潔王ヴァージンクイーン』エリザベス一世は、国の重要な判断をする際、占星術を使うジョン・ディー博士を頼るという噂である。市井の者は、英国国教会アングリカンが奇跡を提供しない事による余波で、少なからず占星術師を頼りにしていた。しかしまさか、その国教会の大本締めである女王までもがそうだとは、エルニカには信じがたいことであった。


「本当さ。それどころか、ロンドンの地下には、魔術師の巣窟が広がっているんだよ」

「魔術師の――巣窟?」

「ヘルメス魔術学院。魔術の一大根拠地にして研究機関。そこは女王の庇護下にあるし、英国王室から仕事を受けている魔術師もいるねぇ。あたしも女王とは懇意さ」


 眉唾ものだが、コルネリアの不思議な技を見た後では否定しがたく、そして魅惑的な話だ。


「待ってくれ、王室から依頼が? あんた達は、王室にコネがあるって事か?」

「まぁ、コネと言えばコネかねぇ。女王からは、無理難題ばかり頼まれるがね」


 人生を逆転するための賭け。数時間前に失敗して、また目の前に現れた好機。もし、エルニカがこの老婆の一味に仲間入りし、『本物の魔術師』になれたなら、ゴミ溜めのような人生から抜け出せるかもしれない。


(何もかもを、手に入れるチャンスだ。僕が持っていない、何もかもを!)

「その――魔術学院とやらに行けば、僕は魔術師になれるかい」

「まぁ、そりゃアンタ次第だね。元々『力』は持っているわけだし」


 エルニカの力。今までケチな犯罪に使っていた力が、人生を変えるほどのものだとは。何も持っていないかに思えた人生だったが、それだけは与えられていたのだ。


「ところで少年、そなたの名は何と言うのだ?」


ずっと黙っていたアウローラが声をかける。エルニカは彼女の見た目に反した古老のような口調に、妙な奴だなという感想を抱いた。


「エルニカ。家名ファミリーネームはない。家族がいないんでね」

「私は、アウローラ・ナーディア・ヴァルプルガ。憧憬の魔女の弟子にして、『激震の魔女・見習い』だ。私はまだそなたの事を完全に信用していない。私たちのファミリーになれるか、しっかり見極めさせてもらうぞ」


 ファミリーとは、一味の構成員を指しているのだろうとエルニカは考えた。

会話しながら歩いていると、開けた場所に出た。木々もまばらで、日当たりがよい。


「さあ、着いたよ。ここがあたしらのねぐらさ」


 いかにも、という風情の建物だった。藁葺きの、きつい傾斜の三角屋根は自重でひしゃげ、ゆるい弧を描いている。壁は小さな石材――明るい黄色の蜂蜜石ハニーストーン――を積み重ねた、城塞の塔のような円筒型。あちこち苔むしており、屋根には草や木の若芽が生えている。石積みの隙間から、時折ヤモリが顔を覗かせる。煙突からはもうもうと煙が立っており、そこら中に、嗅いだことのない妙な匂いが漂っていた。


「ようこそ、我らが工房カヴン真珠の家マルゴットへ――」


 コルネリアは勿体ぶって、古すぎて朽ちかけた板戸を、ゆっくりと開いた。戸の軋みが、亡者の悲鳴のようだ。中は薄暗く、先ほどの匂いが一層強く感じられた。ぐらぐらという、何かを煮立てている音。エルニカの中の、魔女のイメージが脳裏をよぎる。

 山羊の頭の悪魔を崇拝し、淫らな祭祀にふけり、カエルやトカゲを挽き潰して怪しげな霊薬を作る。烏や猫を使い魔とし、呪文を唱え、人の生皮を剥いで生け贄をこしらえ、沸き立つ大釜の中に放り込んでは、悪魔や邪神におぞましい祈りを捧げる――。

 エルニカはごくりと喉をならして、中を覗き込む。

すると――何かがエルニカの腹部に激突した。

あまりの衝撃に呼吸ができない。奇襲だ、体勢を立て直して反撃、と判断はしたが実行出来ない。『何か』は次々とエルニカの上にのしかかってくる。殺される、と思った。


「おかえり婆様ー!」「おかえり姉様ー!」

「え?」


よく見れば、エルニカの上に乗っているのは、七、八歳くらいの少年少女だった。


「うわっ、違う、姉様じゃない!」「なんだこいつ臭い!」

「誰がだ! お前等の方が余程臭いよ!」


確かに汗と泥にまみれていて、自分でもかなり臭うとは思うが、先ほどから漂っていた匂いが服に焚きしめられているらしく、彼らの体も独特な匂いであった。


「お前誰だよー!」「何だ新入りかぁ? でかい顔してんじゃねぇぞコラ」


 騒ぎを聞きつけて、わらわらと湧くように出てくる子どもたち。年齢は様々だが、一番年下で三、四歳、一番年上でも、十四、五歳というところである。ざっと三、四十人ほどはいる。エルニカは呆気にとられた。


「な、何なんだこれ」

「通称真珠の家マルゴット。正式名称、アルトス魔術学院改めヴァルプルギス孤児院コルネリア分室、だ。ここにいるのは皆、戦災や流行り病で親を亡くした、天涯孤独の子ども達だ」

 アウローラが、何故か腕組みをして、ふんぞり返って言う。

「え? 孤児院?」

「そうだ、詳しいことはおいおい説明しよう。まずはここで手に職をつけて働きながら、魔術はそれに支障のない範囲で教えてもらうがよい!」


 アウローラの満面の笑顔。この世のあらゆる困難は突破出来るという、根拠のない自信を持つ者だけが浮かべられる、自信に満ちあふれた笑みだった。





「人参の皮はもっと丁寧に! 薄く剥け馬鹿野郎! 勿体ないだろうが!」


 エルニカは、台所でひたすら人参の皮を剥いていた。彼を怒鳴って小突いているのは、彼と同い年くらいの少年――否、少年にしか見えない少女だった。名をフィーと言う。エルニカより背は低いが、体は筋肉質で肩幅が広い。黒髪の短髪で顔に向かい傷が無数にあり、どう見ても街道荒らしの無頼漢と言った風体である。


「タマネギの皮を捨てるんじゃねぇ馬鹿野郎! 後で使うんだよ!」

「やってられるかー!」


 叫びながらも手は止めないエルニカ。彼の直観は、ここで逃げ出したら後が酷い事になると告げていた。

 台所で騒々しくしていると、コルネリアが様子を見に来た。


「おや、随分仲良くなったじゃあないか。これがエルニカが剥いた野菜かい? 成る程筋が良い。あたしの目に狂いはなかった、やっぱりあんた、素質・・があるね」

「素質って! 魔術の素質じゃなかったのか!」

「いやぁ、ナイフの扱いが鮮やかだったからねぇ、良い料理人になれると思ったんだよ」

「誰が料理人になんかなりたいもんか!」


 と、エルニカの手元にナイフが突き立った。フィーが投げたものだった。


「おうコラ、料理人『なんか』とは何だ。俺を馬鹿にしてんのか?」


 全ての指の間に挟まれた、八本のナイフがぎらりと光る。


「してないしてない、馬鹿になんかしてない」


 その様子を見て、コルネリアは腹を抱えて笑った。


「ここはフィーに任せるよ。まぁ心配しなさんな、魔術もちゃんと教えてあげるから」


 コルネリアは、フィーによろしく伝えると、そのまま去っていった。


「僕は騙された……のか?」

「騙しゃしねぇよ、婆様は守れねぇ約束はしねぇ。俺を拾ってくれた時にゃ、『手に職を付けてやる』って言ってくれて、まぁ見ての通りだよ」


 いじけるのをやめてフィーの手さばきを見ると、なるほどまるで定食屋の主のような鮮やかさだった。数多くの行程を、一切の無駄なく、素早く、的確にこなす。


「俺の時は魔術を教えるなんて話はなかった。仲間の誰もそんな話をされた奴ぁいねぇよ。だからまぁ、あるんじゃねぇか、ナイフ捌き以外の素質がよ」


 ぶっきらぼうで分かりにくいが、励ましているらしい。フィーはコルネリアに、幸せに育てられたのだな、とエルニカは思った。彼の方は、利用されるだけだった。娼館に拾われたのは物心つく前で、うっすら物乞いに同行させられた記憶がある。


 修道院解散後、病気や身体欠損のある者は物乞いとなった。それを隠れ蓑に、体が丈夫な者は街道で物乞いのふりをして、油断して近づいて来た者を追い剥ぎした。

 エルニカは偽物乞いカウンターフィトの小道具として利用された。女物乞いが年端もいかぬ子どもを連れていることで、信憑性と憐れみが増す。美人局つつもたせの伝令役や、治安官に追われた時の囮として使われたこともある。盗みの下調べに、貴族の邸宅に忍び込まされた事もある。

 彼が自分の力に気気付いてからは、それら『小道具仕事』は簡単になった。生き残るために、力は隠してきた。そうしなければ、見せ物として売られるか、より危険な仕事を任されただろう。

 裏切り、裏切られ、利用し、利用されるのが裏社会の常だった。エルニカは、周囲のあらゆる人間を騙し、人を信頼することはついになかった。先の事を案じられ、技術を教えてもらえるのは、えらく幸せなことに、彼には思えた。


「なぁ、ちょっといいかい? 確かに手に職を付けてもらえるのはいいことだと思うけど……魔術を教えるんじゃなければ、なんで魔女が孤児院なんてやってるんだい? ロンドンのど真ん中に、クライスト養育院があるじゃないか」


 クライスト養育院は、孤児救済施設である。グレイフライアーズ修道院の行っていた貧民救済事業を代替する形で、孤児の養育、教育を行う。中には大学へ進む者もいる。


「餓鬼どもの様子を見りゃ分かるがよ、皆訳ありなんだ。どっかから逃げてきて、身元がバレちゃ困る奴。移民でロンドンじゃまともに扱われない奴。特殊な病気があってそのままじゃあベドラム癲狂院で一生過ごさなきゃならん奴。俺は親が辻強盗ハイローヤーでな、元々は追い剥ぎ稼業よ。養育院にいた日にゃ、俺を知ってる連中で強請ゆすりたかりの行列ができちまうよ」


 今が幸せであろうが――ここの子どもたちはエルニカとそう違わない生い立ちなのだ。

 エルニカはコルネリアの言葉を思い出す。


 ――より道を外れた者、よりこの世の有り様を憎んでいる者こそを仲間に加えたい。


 なるほど、孤児院であればそれも頷ける。どんな子どもも好き好んで孤児にはならない。少なくとも一番最初に、そうあろうとして道を外れる者もいない。それはいかに酷薄非情なエルニカとて同じである。

 コルネリアが自分に声をかけた理由も、アウローラがそれをいやがる理由も、何となく分かったような気がした。





 夕食は真珠の家の中心にある広間で食べることになっているようだった。広間には、半分に割った丸太をつなぎあわせた長テーブルが二台ある。奥にはコルネリアとアウローラが、手前にはエルニカとフィーが陣取っている。


「さぁ、飯だ餓鬼ども!」


 盛大な音を立て、鍋がテーブルに置かれた途端に、数十人の子ども達が群がってくる。急ぎすぎて、狭い室内を走る子もいる。あまりの光景に、エルニカは狼狽えた。


「馬鹿野郎、年下が先だ! 割り込み追い越しはお代わりなし! 二列に並べ二列に!」


 フィーは慣れたもので、この無法状態に秩序をもたらしている。彼女がいなければ、この場は弱肉強食の世界になるだろう。一方エルニカは、大盛りを要求する男の子に、言われるがままスープをよそったものだから、またしてもフィーに殴られた。


「では皆、素晴らしい夕食を作ってくれた二人に感謝だ!」


 アウローラの号令で、子ども達がてんでばらばらに感謝を述べる。あまりの勢いに驚くエルニカだったが、感謝されて悪い気がしない自分に対しては、更に驚いていた。自分にはそういう感性はないものと思っていた。

 子ども達は、旨い旨いとがっついて、すぐにお代わりを要求してきた。


「待て待て皆、今日は先に新人の紹介だ。今日の夕食を作ったエルニカだ!」

「あー……えーと、よろしく」


 エルニカが形式的な挨拶をする。子どもたちはそれで挨拶終了と悟ったらしく、すぐにフィーとエルニカの前にお代わりの列が出来た。

 子ども達を観察すると、フィーの言う通り訳ありらしく、何かの病気か体を包帯で隠している子や、義手や義足の子がいる。その中から、一人の少女がエルニカに話しかけてきた。年は十二歳くらい。肌の色が浅黒い。移民との混血だろう。


「エルニカはすごいのね。私なんか、フィー姉様に台所に入れてももらえないのよ」

「別にすごくはない。フィーには殴られっぱなしさ。頭の形が変わるかもしれない」

「よっぽど腕を見込まれたね」


 コルネリアがくつくつと笑った。


「フィーは普段、他の子を叩いたりはしないよ。叩いて教えたって出来るようにはならないからね」

「僕だってそうさ」

「出来るのにやらないのは、焚き付ければやるようにはなるさ。子ども達の食いっぷりを見ると、どうやら手先の器用さは問題ないね。明日からさっそく魔術の講義だよ」

「魔術をやるのに、手先の器用さが必要なのかい?」

「あたしの専門分野を学ぶなら、かなり必要・・・・・だよ。まぁその辺はおいおい教えるからね」


 コルネリアはエルニカと給仕を代わると、席を作って食事を促した。

 料理は確かに旨かった。ハーブがふんだんに使われていて、香りも味も良い。酒場エールハウスの料理では足下にも及ぶまい。上等な旅籠インで出す料理、という感じだ。これをコルネリアが教えたというなら、成る程、教えるのはうまいのだろう。

 成り上がりについて、エルニカは大いに期待を持った。





 エルニカは、久しぶりに暖かい布団で寝た。ベッドは一部屋に幾つもあり、二、三段に重ねた作りをしていた。エルニカは一番下のベッドを貸してもらっていた。

 まだアウローラは彼を信用していないようで、フィーとアウローラと同室であった。女の子とは言え、確かにこの二人ならばエルニカの抑止力になる。

 監視付きだからというわけではないが、彼は熟睡しなかった。もしここが街中の相部屋の宿なら、熟睡などすれば身ぐるみを剥がされかねない。そればかりか、命の危険さえある。それでも冷えた体を温める事は出来たし、数日来の疲れもそこそこ取れていた。


 朝。エルニカを起こそうとしたアウローラは、勢いよくベッドから転がり出た彼を見て苦笑した。


「私が警戒を解かないから、そなたにも緊張させてしまったか? 見上げた心構えだが、ここではそんなに心配をすることはない。そなたが何もしなければ、私達も何もせぬ」

「夜盗に襲われる心配のない君達に、僕の気持ちは分からないさ」

「いや、分かっているから、ここでは安心して眠ってよいと言いたいのだ。フィーから聞いたろうが、ここにいる子は皆訳ありだ。誰もが一度は夜の闇に震えている。初めのうちは皆眠れなかったり、眠れてもうなされてしまう。私にもそういう覚えはある」


 この時代、孤児は珍しくない。親を失ったり、親に捨てられたりした子どもは、ロンドン近郊にはごまんといるのだ。誰に拾われるのか、或いは拾われないのか。それだけで運命は変わる。真珠の家の子どもたちは、余程運が良いとエルニカは思う。


「君は――」


 どうなんだい、と聞く前に、アウローラは部屋のドアを開けた。


「ゆくぞ、婆様がそなたのために入団儀礼イニシエーションをやると言っている。裏社会にもあるだろう」


 杯を交わしたり、度胸を試したり、様々な方法があるが、『これが出来れば仲間入り』『これをこなして一人前』といった通過儀礼は、エルニカのいた組織にもあった。しかし魔術の儀礼となると、流石のエルニカも何が起こるのか少しだけ不安だった。


「ついてこい、婆様の工房は離れにあるのだ」


 アウローラに案内された工房は、様々な樹木に囲まれた、石造りのしっかりした建物だった。灰色の細かな石を積み上げられており、全体としては直方体。屋根は板石スレート葺きの切妻である。四本の煙突から、湯気や煙を吐き出している。随分重苦しい印象だ。


「婆様、入るぞ」


 アウローラがノックして、木の扉を開ける。

 熱気とともに、森の香りを凝縮したような臭いが鼻をつく。内部は板張りで、壁全体が棚になっており、古めかしいラベルが貼られた木箱や壷が並んでいる。天井には乾燥した草花が束ねて吊されている。壁の一面にはかまどが四つあり、その内二つに火がくべられていた。そこに、ぐつぐつと沸き立つ大釜を木べらでかき混ぜているコルネリアがいる。

 随分と魔女らしいことをしているなと、エルニカはごくりと唾を飲み込んだ。


「来たかい」


 コルネリアは不気味な笑みでニヤリと笑い、手招きをした。エルニカが恐々と釜を覗き込むと、釜の中には更に陶製の容器が入っていた。湯煎しているのだ。中の湯が、濃い褐色に色付いている。容器の底には、植物の枝のようなものが見える。


「これは……?」


「『魔法の枝』さ。ちょいと手伝っておくれ、竈から下ろすよ」


 竈から釜を下ろした途端、もうもうと湯気があがる。青臭い、独特の臭いがする。


「こいつに羊毛を浸すのさ」


 コルネリアは木箱から、毛糸の束を取り出す。束は輪を描くように纏められている。老婆は輪を手に引っかけ、釜に漬け込んだ。そのまま手で束を回すように動かすと、糸が薄い黄色に染まる。ある程度の所で、羊毛を捻り、水分を搾り取る。染液が減った分、糸の色は随分薄くなった。生成きなりの色が少し濃くなった程度の印象である。

 次に輪の中に腕を通し、音を立てて糸を伸ばし始めた。空気にさらしているようだ。糸の色が少しずつ変化して、僅かに赤みが差し、光沢を放ちはじめる。二束を取り分けてアウローラに渡すと、残りの糸をまた釜につける。コルネリアはそれを何度も繰り返した。徐々に色が濃く染まり、山吹色――いや、黄金色にすら見える。


「まぁこんなもんかね」


 コルネリアは糸の半分をアウローラに渡すと、棚から陶製の壷を取り出し、中身を釜に入れた。木べらでかき混ぜ、糸を漬け込むと、黄色の糸が徐々に緑に変化していく。エルニカにはまるで魔法のように見えた。


「何だ? 何をしてるんだ?」

「見れば分かるだろう、糸を染めているんだよ。あたしの魔術の研究領域は、魔術の工芸化さ。『魔法の道具』を作るのが専門というわけさね」


 コルネリアは糸を染め終えると、天井の梁に吊していった。乾燥させるのだろう。


「さて、やり方は分かったね。じゃあ、次は自分でやってみな」


 エルニカが躊躇いながらコルネリアの使っていた釜に手を伸ばそうとすると、


「違う、染料を選んで煮詰めるところからだよ。その木箱の中から、好きなものを選んで、釜に放り込んで煮出すんだ」


 好きなものとは言うが、棚の中の木箱は膨大な数だ。染料の名前が記してあるラベルはあるが、見てもエルニカにはどんなものか分からない。片っ端から蓋を開けてみるが、干された花や葉や果実、根や茎、砕かれた木片があるばかりだ。


「婆さん、これ、どれが何色に染まるんだい?」

「それを知っちゃあ面白くないだろう」


 エルニカは抗議の声をあげた。干された植物からは、色の予想が出来ない。先程の壷の中身を混ぜると色が変わるのであれば、尚更だ。どうせ分からないなら、煮立てる際に青臭い思いをしない方が良いと思い、香りで選ぶことにした。彼が選んだのは、香りの良い花びらだった。茶色く変色してはいるが、恐らく元は白い花だったのだろう。葉や根を煮出すより、匂いはマシであると思われた。


「量も自分で決めな」


 全く手探りの状態で、いったい何をやらせようと言うのか、エルニカは訝しんだ。量が多い方が濃く染まるような気がして、両手に抱えるほど取り、釜に投入する。


「ここからはとろ火で二、三時間煮詰めるよ」

「そんなに!」


 三時間も煮立った釜の前にいるかと思うと目眩がした。冬だというのに、暑さで倒れそうだ。悲痛な面持ちのエルニカの肩を、アウローラが軽く叩いた。


「覚悟を決めろ、エルニカ。ここにいる仲間は全員それをこなしているぞ。勿論、お前より幼い子たちもやり通したわけだが……どうする? やめるか?」

「誰がやらないなんて言ったんだい?」


 そこまで言われてやらないわけにはいかない。エルニカは不敵に笑って、火の面倒を見始めた。それは思ったよりきつい作業だった。常に火の番をしなければならないため、顔が火の熱で火照り、玉のような汗が額から頬を伝う。


「……ふむ、もういいだろう。エルニカ、竈に灰をかけな。釜を移すよ」


 火の番から解放されたエルニカは、釜を移して羊毛を染め始める。これがまた辛い。コルネリアは軽々やっていたが、蒸気で火傷をしそうになる。


「最初はそう何束も染められないさ。三、四束を、しっかり染めるんだよ」


 最初は薄い緑色だった糸が、二度三度と染めを重ねると、徐々に色が濃くなっていく。四度目で、新緑の若芽程度の濃さになる。空気を含ませて、弾くように糸を延ばすと、一層鮮やかに色が変わる。まるで植物の成長を観察しているような気分だった。

 エルニカは、最後に染めた色が一番気に入った。結局壷の中の薬剤は使わなかった。

 コルネリアは、エルニカから毛糸の束を受け取ると、戸を開けて外に出た。外はもうすっかり日が昇って、午前の日差しが暖かい。コルネリアは糸を日にかざすと、糸の色の具合を検分した。


「なるほど……こりゃあ初めてにしては上出来じゃあないかね!」


 日の光を受けた糸は輝いているように見える。コルネリアは束から糸を一本引き抜くと、細工をし始めた。何かに編み込んでいる。エルニカは不思議そうに視線を送った。


「気になるかい? こいつは、孤児院の子ども達が、初めて染めた糸で編んだ指輪さ。この橙色のがフィー、真っ赤でまだらなのがアウローラさ。アウローラったら、いきなり一番貴重な赤い染料を引き当てて、それで失敗するもんだから」


 コルネリアはにこにこ笑いながら、誰がどう染めたかを一人一人語った。糸は様々な色で染められ、虹のような色の変化が美しい組紐になっている。


「婆様、あれは仕方がなかった。私は甲冑をつけていたから、その分手先が細かく動かせないし、熱が甲冑から伝わってきて……」

「甲冑が鉄で出来てるから、触った所が媒染されちまったりしたんだよねぇ」


 甲冑で染め物。どう考えても違和感しかない。


「君はずっとその甲冑を着ているのかい? 食事の時も着っぱなしだったね」

「あぁ、基本的に外さぬ」


 怪我の痕を隠しているのだろうか? エルニカの同僚にも、荒事で失った片目を眼帯で隠したり、頭皮の火傷を隠すために年中帽子を被っていたりする者はいた。しかし、腕の傷を隠すためなら長袖でも着ていれば充分だ。どんな訳があるのだろうか。


「さてと、エルニカ、これで入団儀礼イニシエーションは終了だよ。よくやったね、お疲れさん」


 エルニカは慣れない労働から解放された安堵に、ほっと胸を撫で下ろす。


「これで、今日から本格的に工房に入って作業が出来るね」

「いやいやちょっと待ってくれ、魔術の修行を始めるんじゃなかったのか?」

「これが立派な魔術修行なんだよ」

「僕には体よく労働させられているようにしか思えない。魔法っていうのはこう、呪文を唱えたら何でも出来る不思議な力じゃないのか? そういうのを教えてくれよ」

「魔術というのはそんなにお手軽なものじゃあないんだよ。もしそうなら、この世は魔術師だらけのはずだろう? 何事にも平坦な道はないものさ」


 エルニカは少しイライラして眉間にシワを寄せた。


「百歩譲ってそうだとしよう。だけどこの作業は一体何なんだい? 染め物についてはよく知らないけれど、もしかしてこれは、染め物職人の普通の仕事じゃないのか」

「まぁそうだねぇ」

「やっぱりそうなんじゃないか! ものを知らないと思って馬鹿にするなよ!」

「そうだけど、そうじゃあない。……信じられないって顔だね。ふむ、ついておいで。アウローラ、少しここで待っておいで」

「いや、私も行く。二人だけにするのは心配だ」

「ここはあたしの工房だよ。もしエルニカがあたしに手を出そうとしても、それを死ぬほど後悔させるような目に遭うだけさ」


 その言葉にぶるりと身震いするエルニカを手招きして、コルネリアは奥の部屋に案内した。竈部屋の奥には作業道具の物置のような部屋があり、その奥にさらに部屋があるようだった。

 扉が開かれた瞬間、エルニカは息を飲んだ。

色とりどりの模様の毛織物。それらで仕立てられた、上等な衣類。棚には、精緻な細工の木工芸品が見える。そこはエルニカが見たことのない色彩と文様で溢れていた。

 毛織物は、使われている色数が驚くほど多い。配色が絶妙で、目を奪われる。模様はエルニカの見たことのないものだ。魔法に関係があるのかもしれない。木工芸品は、恐ろしく細かい細工が施されている。染料で染めてあるのか、色の違う木を組み合わせて、こちらも複雑な模様を作っている。よく見れば、動物や植物が彫刻されているが、色の違う木材をはめ込むことで、まるで生きているように思わせる作りだった。


(これは……相当高価な品だ。売り飛ばすだけで、食っていけるんじゃないか?)


 エルニカは小箱を一つ、そっと懐に忍ばせようとした。


「どうやらあんたのお眼鏡には適ったようだね?」


 コルネリアがエルニカの肩を叩く。ぎくりとこわばる体。魔女には何でもお見通しで困ると、コルネリアに聞こえないように小さく舌打ちして、小箱を棚に戻す。


「ちょっと手が滑っただけだよ。まぁ確かに魅力的な品だね。買い手は多そうだ」

「その通り。貴族相手にゃ飛ぶように売れる。社交界は流行に敏感でね、女王の寵愛を受けるために必死な貴族は、自分の屋敷に仕立て職人やお針子を住まわせる程さ」

「ここの子ども達が作ったもので、儲かるのかい?」

「仲間に草花に詳しい魔女がいてね。世界中から珍しい花の種を持ってきてくれる。それを栽培して、染料にするのさ。他では扱っていないから、希少価値がある。儲けたい訳じゃあないんだが、まぁ、生きていくのに余裕はある。大航海時代さまさまだね」

「なるほど。で、どの辺りが魔術と関係するんだい?」

「魔術師は魔力を蓄えておくのに、鉱物等の自然が生み出した幾何学的な形のものを使う。ところがそれを探すのは難儀でね。人が作った形が整っているもので代用することが多い。だからこういう工芸品が売れるのさ。場合によっちゃあ、これ自体を魔術の護符みたいに使うこともある。あたしなんかはそっち・・・が専門さ」


 エルニカは、出会った時にコルネリアが水晶玉の下に織物を敷いていた事を思い出した。あの不思議な空間は、このような織物によって生み出されていたのだろうか?


「貴族相手でも魔術師相手でも、商品として出すには完成度と精巧さが必要だ。そのためには、染めや織りの技術を学んで貰わなけりゃならない。その点、あんたは手先が器用そうだからね」

「アウローラは、そうでもなさそうだけど。弟子なんだよね?」

「あの子には、あんたとは別の超常の才覚ギフトがあるからね」

「ふうん……なるほど、納得したよ」


 工芸の技術を身につけ、価値あるもの・・・・・・を作れば、生計を立て、生き残る事ができる。そしてそれは魔術を学ぶ事にも繋がっている。


「それにしても……これをあの子たちが作ったんだな」


 エルニカは、色とりどりの織物や、精緻な木工芸品を見て、コルネリアに聞こえないような小さな声で呟いた。彼にとって、こういった工芸品は、盗み、奪うものであり、金に換わるお宝でしかない。彼は主に巾着切りスリを生業としていたが、その手先の器用さから錠前破りも得意だったし、変装や詐術もお手のものだったから、盗みの手伝いをする事は多かった。なるほど金になるわけだと、彼は心底納得した。糸一本を染めるだけでも、あれだけの手間がかかっている。職人の手間賃を考えたら高額なのは当然である。

 まさか、自分がその職人仕事をする事になろうとは思ってもみなかったが。


「分かった、観念して、染め物屋になってやろうじゃないか」


 エルニカは、この仕事に十分な価値を認めた。それに――少なくとも、この仕事をして、治安官に捕まるような事はなさそうだった。


「じゃあ早速始めようじゃあないか。後はアウローラに案内と指示を頼んである」

「アウローラだって? 婆さんが教えてくれるんじゃないのか?」


 エルニカはがっかりした。アウローラは手先が不器用、という印象が、彼の頭に刷り込まれていた。彼女に教わるくらいなら、独学の方がマシに思える。


「最近ちょいと野暮用が多くてね。人手が必要ってのはそう言うことさ。それにあんたのお仲間も探さなきゃならない。夜には帰ってくるから、まぁ、困った事があればあたしに聞きな」


 エルニカは不安になった。他に誰が技術の手ほどきをするのか――


「そう心配しなさんな、初日はまだ染めや織りまでやらないよ。明日じっくり教えるさ。ああ、それとエルニカ」


 コルネリアは手招きしてエルニカを傍に寄せると、小声で耳打ちした。


「あたしゃ、あんたのお仲間が、ただあんたとはぐれたんじゃないって事は分かってる。それを織り込み済みであんたを誘ったんだ。妖精郷で妖精に襲われた極限の状況じゃあ、その行いは責められない。妖精郷の恐ろしさはよく分かっている」


 その点に関してはぼかして伝えたはずであったが、魔女には何でもお見通しなのだと、エルニカは背筋が薄ら寒くなる。


「そして、あんたがそれを忌むべき行為だと感じているのも分かっている」


 エルニカは耳を疑った。自分はジョージをただの駒だと思っている。一瞬前に感じた畏怖が和らぐ。


(この婆さんは、僕の心の中まで分かっている訳じゃない。やったことが分かるだけだ)


 それでも充分恐ろしいのだが、心の中まで隠せないというのは、彼にとっていっそおぞましい事だった。


「――いつか後悔に苦しむ時が来る。だから、これ以上誰かを見捨てるようなことはおやめ。あたしの弟子になったからにゃあ、そいつは守ってもらうよ」

「分かったよ。約束する」


 お人好しめ、と内心馬鹿にしながら、エルニカはそれらしく神妙そうな表情を作って見せた。


「それから、その事はアウローラには言わないでおきな。あの子はいい子だが、まだまだ未熟だ。あたしゃあんたの性根を真っ直ぐに出来ると思っているが、あの子はそうじゃあないらしい。ここでうまくやるには、あの子の協力は欠かせない」

「ああ、それなら心配ない。絶対に言わないから」


 口を割らないのと、相手を誤魔化すことにかけては自信があった。コルネリアのように、頭の中を覗いてこない限りは。


「それじゃああたしゃ出かけてくるからね。アウローラの言うことをよく聞くんだよ」


 そう言うと、コルネリアは支度をして、隣の部屋で待っていたアウローラにエルニカを任せた。


「朝は忙しい、朝食前にやる事が多いからな。さぁ、こっちだ」


 アウローラは、エルニカを引っ張って、真珠の家へと歩き始めた。


「これは……どうなってるんだ?」


 そこは奇妙な部屋だった。室内が外見の数倍広い。天井の高さも屋根より高く見える。天井には硝子がはめられ、そこから光が降り注いでいる。冬だというのに汗ばむほど暑い。床には様々な鉢植えが置いてある。一部は地面がむき出しになっており、背の高い木などは地植えになっている。部屋の中に、森が一つあるような状態だった。暖かいからか、リスなどの小動物や、小鳥が数匹住み着いているようで、かさかさと木の葉を揺らす音や、鳴き声が聞こえる。


「ここは、暖かい土地の草木のための部屋だ。そのままでは冬を越せぬのでな、婆様が拵えたのだ。部屋の中は婆様の魔術で広げて・・・ある。この世とは別の世界を作るのが婆様の魔術の奥義なのだが、これが出来る魔術師はなかなか珍しいらしいな」

「この明かりは?」

「それは自然のものだ。屋根の上に鏡の魔術工芸品アルティファクトゥムが何枚も据え付けてあって、日の傾きに合わせて、光を反射させて部屋の中に取り込むのだ。太陽が三個は増えたような感じだな」


 それは如何にも暑そうな話だった。夏はどうなってしまうのだろうか?


「ここの草木は乾燥や寒さに弱いのだが、婆様の魔術では暑さ寒さや湿気がうまく調節できぬのでな。そこの水桶に、竈で焼いた石を入れて蒸気を出す。冬場は二時間おきだから、忙しい上に重労働だ。だがここの植物は貴重な染料になる。この管理を、私と、そなたでやるのだ」

「アウローラも?」

「婆様も初めて見る植物が多いからな、私でないと扱い方が分からない」

「婆さんにも分からない事を? 君は植物の専門家なのかい?」

「そういう訳ではないが、私には草木の囁き声が聞こえるのだ」

「草木の囁き?」

「私の超常の才覚ギフトは万物の言葉が分かることでな。婆様に教えられるまでは、他の者には世界の囁きが聞こえないとは知らなかった。人間から離れた存在ほど、会話は成り立たぬ。動物や鳥となどは話も弾むのだが。岩や地面、水や風となると、囁き声が聞こえる程度だな。草木とは、たまに会話が成立する」

「分からなければ聞けばいい訳だ。不器用な君にも役に立つ事なんかあったんだね」


 エルニカは、手先の器用さで自分に劣るこの姉弟子を、少し侮り始めていた。


「婆様の護衛も出来る。何ならそなたの体を使って実演してもよい」


 エルニカは彼女に組み伏されたことを思い出して、慌てて首を振った。


「冗談、冗談だよ。それより、岩や水や風の声なんて分かるものなのか?」

「婆様に言わせれば、熟練の鍛冶屋は火の声が、経験豊富な農夫は大地の声が聞こえる。優れた船乗りは、風や海の声が聞こえるというから、そう不思議な事ではないらしい。エルニカにもすぐ草木や土の言いたいことは分かるようになる」

「いや、それはどうかな……」

「分かるさ。草木は素直だ。日向が好きな草木は、日陰では背が伸びぬし、逆に日陰が好きな草木は日向では萎れてくる。暑いのが得意なものもあれば、寒いのに強いものもある。そら、この部屋の鉢は表面が白く乾いているだろう、皆水を欲しがっているぞ」

「あぁ、そう言うことか。会話しなくても、何をしたらいいかは分かるわけだ」

「草木の言葉が分かるようになると、友が増えたように感じて面白いぞ。皆には難しいようだが、私は実際に友になってしまう事もある」

「草木が友達? 寂しい奴だな君は」

「いやいや、賑やかなものさ。実はこの部屋の鳥や動物は私の友でな……皆、集まってくれ!」


 アウローラがその口から、鳥のさえずりのようなチィチィという音を立てると、周囲の木々から小鳥やリス、ネズミが集まって、その肩や頭に留まった。くすぐったそうに目を閉じて笑うアウローラ。


「彼はエルニカ。よろしく頼む」


 鳥や動物達が一斉に鳴き声をあげる。少しうるさいくらいだ。エルニカはまるで本当に挨拶をされているような気になった。アウローラが合図をすると、皆てんでバラバラに部屋のあちこちへ散っていった。


「あー……確かに賑やかではあるね」

「友や家族は、得難い人生の財産だ。自分に足りないものを教えてくれる。そして彼らは私の目の代わり、耳の代わりになってもくれる。そなたが妙な気を起こしてもすぐに分かるぞ」


 友人も家族も、エルニカの人生には縁遠いものだった。人間の友人すらいたことのない彼の目には、動植物を友と言い放つアウローラは、奇異に映った。或いはそれは、羨望の裏返しだったかもしれない。彼は胸がもやもやするのを感じて、桶の中の水を思いっきりぶちまけた。


「今、彼らは友だと言っただろう! 乱暴にするな!」


 アウローラはとうとうとエルニカに説教を始めた。ここの草木は彼女にとって大切なものであると同時に、いかに希少なものかを長々と話すので、面倒だなとエルニカは舌打ちした。


「そなた……! この際はっきりさせておこう。私はそなたをまだ仲間と認めらておらぬ」


 アウローラの顔からは余裕の笑みが消え、険しい表情になる。


「僕の何がそんなに気に入らないんだい」

「そなたは初対面で婆様に刃を向けた。婆様や私は返り討ちに出来るだろうが、その刃が子ども達に向かうことを危惧している」


 馬鹿なことを、とエルニカは失笑した。


「何のために? そんな事をしても僕に利はない」

「例えば、婆様の工房から工芸品を盗み出す。その逃走の際、自らの身の安全を確保するために人質を取る、というのはどうだ?」

「そう言うこともあるかもしれないね。だけど、自分の所在が明らかになっている場合、かつ自分の力が相手より小さい場合、人質を殺す事は即敗北を意味する。僕なら人質はとっても、少なくとも殺しはしない」

「何故だ」

「人質を失った途端、僕に盾は無くなるからだ。例えばフィーに殴り殺されるかもしれない。それに、君の宝石が脅威だね。僕が人質を傷付ける前に、どてっ腹に穴を空けられかねない」

「では日常的に粗野な振る舞いをして、子ども達を傷つけるような事は?」

「同じさ。フィーに十倍殴られるだろうからね。腕力で敵わない事が分かっている相手に楯突く事ほど愚かしい事はない。僕はそういう馬鹿なことはしない。まぁ、フィーにボコボコにされた時点で、僕はここから逃げ出すだろう。でもそうなれば君にとってはむしろ好都合じゃないかい?」

「賢しいな。損得勘定は出来るというわけだ。……ふむ、そなたが頭が回ることは分かった。自分の不利になるような愚考も犯さなそうである事も」

「ああ。それに、僕のような由緒正しいゴミ溜め生まれ掃き溜め育ちのクズが、人生を変えようと思ったら、それこそ魔法にでも頼るしかないからね。裏街道者の末路なんて、外道同士殺し合うか、道端で野垂れ死ぬか、牢獄で死ぬか、後ろから背中を刺されて死ぬかだ。墓にも入れない。僕はそんなのは真っ平だ。ここでは大人しくして、きっちり魔法使いになってやるつもりさ」


 自嘲気味に、そして卑屈に言い放ったエルニカの言葉を聞いて、アウローラは少し悲しそうな顔をした。


「……自分をクズなどと呼ばわるな。人はどんな状況でも、常に光差す方向に歩いてゆくことが出来る。私はそなたを危険だとは思っているが、そなたが価値のない人間だとは思っていない……いや、そなたにとっては同じ事か……」


 アウローラはしばし考え、エルニカに水桶を渡した。


「私はまだそなたを量りかねている……だが、ここでの暮らしや婆様の修行が、そなたを鍛えるのは間違いないであろう。私は婆様を信じている」


 アウローラの顔に余裕の笑みが戻る。エルニカはそれを内心、冷淡な目で見つめた。


(愚かなお人好しどもめ)


 しかし、先ほどのエルニカの言葉は本心からのものである。今や真珠の家が自分の安全圏であるなら、自らそれを壊すリスクを背負うのは、損得勘定が合わない。

 アウローラは気を取り直したのか、温室の仕事の説明を再開した。

水やりは毎日必要なものばかりではないらしく、種類ごとにその間隔を説明されたが、数が多くてエルニカはすぐには飲み込めなかった。


「終わったら朝食にしよう。フィーは食事時に遅れるとひどく怒るからな、急がないと。私もフィーに殴られたくはない」


 腕っ節ではアウローラよりフィーの方が強いのか……とエルニカはぞっとした。

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