決戦小豆坂~前哨戦~

 物見の報告が入った。今川軍は太原雪斎を大将に一万二千。岡崎の兵を合わせるとさらに三千だ。留守居の兵もほぼ残さないだろう。

 こっちは美濃からの援軍を得て国内ほぼ総動員で何とか一万を集めた。お互い兵力が予想より多いことに頭を悩ませていることだろうか。


 先鋒は織田上総介信長で、三千。その中には安祥の城兵五百が加わっている。右備えは織田信光殿の千五百。左備えは飯尾定宗殿の千五百。中軍は佐久間信盛殿の二千。そして本隊が二千。こちらは信秀様直卒の兵だ。

 そしてこちらの隠し玉。黒鍬衆が一千。いざとなれば予備兵力として投入できるが、工兵としての役割が大きい。

 こちらの野戦築城の防衛網に誘い込んで兵力を削る。そして、攻勢限界に達して撤退するタイミングで追撃して打撃を与える。ある種の釣り野伏せだ。

 雪斎がこんな手に乗って来るかはわからない。しかし今回は押し戻せば戦略的には勝ちである。引き分けでいいのだ。今川は大兵力を持って織田を破れなかった。この一事と俺の存在で三河の趨勢はかなり傾く。西三河半国はほぼ降るだろう。

 そうなれば、三河で今川の侵攻を食い止めつつ北伊勢を落とす。そうすれば伊勢湾の交易でこちらはさらに力を蓄えることができるだろう。


 敵は小豆坂の高みに布陣している。こちらから攻めかかるのは数の上でも地形的な意味でも不利だ。しばらくはにらみ合いになるだろうか。

「竹千代よ。甲賀者は敵の後方に向かったか?」

「吉殿、敵の補給線と後方のかく乱を命じました」

「これがうまくいけば、敵はどう動く?」

「二通りです。形勢不利と見て撤退するか、一気にこちらを突き崩そうとするか、ですな」

「雪斎の性格からして、岡崎を確保してそのまま退きそうではあるな」

「そうなれば兵力の差から、こちらは不利ですな」

「徐々に押し込まれるか」

「正面に貼り付けられる兵力に差がありますからな。ここで敵軍を撃破すれば三河の形成は一気に傾きましょう」

「まあ、もう一つ問題がある故な」

「こちらは大軍を動員しました。その軍役に報いるだけの戦果が求められますか」

「うむ。手柄も立てられずに撤退となれば、不満が続出しよう」

「大博打もいいところですな」

「抜かせ、この状況を作り上げたやつが何を言うか」

「勝算はありますよ?」

「無かったら安城の守りを固めて仕舞じゃ」

「ですが、その状況だと徐々に押し込まれる」

「で、あるな。親父もその辺は計算しておろうが。逆に今大勝負を仕掛けた方が、後々よりは勝機があるとみての事であろうよ」

「削られる前に、ですか」

「うむ、戦に勝つにはどこかで大博打が必要だろうが。それが今というだけの事」


 吉殿は何かもう吹っ切れていた。というか、俺も異常だ。これほどの鉄火場にいて心は落ち着いている。家康の経験によるものであろうか。

 敵陣を見上げる。坂の天辺の奥に布陣しているためその様子は見えない。物見を出しても坂の途中で見つかるだろう。そう考えると、城に籠っている状態に近い。高低差とは実に厄介な問題だった。


 数日にらみ合いが続いた。言葉合戦が繰り広げられているが、あまり効果は出ていない。そもそも因縁が深すぎていまさらといった感じだ。

 後方のかく乱は徐々に効果を現しているようだ。夜間に陣幕に火を放つ。兵糧に汚物をぶちまけて汚染する。少数の兵を見つけて襲撃する。これは殺害を目的とはせず、戦闘不能になる程度に負傷をさせる。

 負傷兵はただの足手まといである。であれば、いっそ戦死した方が始末が良い場合すらある。冷たいようだが、これが戦争だ。


 こちらが動かないことと、かく乱で雪斎は落ち着いているが配下の将たちが騒ぎ始めているようだ。優勢な兵力と有利な地形を占めていることで、勝ったと思っている者もいるようだ。まあ、間違いではない。

 高所からの逆落としの勢いをもって一気に突破すれば良い。大兵力を生かす最もシンプルかつ有効な手立てだ。

 しかし、不利な体勢からこちらも退かない。そこに疑念を持っているのだろう。それはそうだ。何の手立てもなく、不利な体勢に身を置くはずがない。当然罠が仕掛けられている。不意打ち、だまし討ち、何でもありだ。戦争だからな。

 そして、味方にも焦れている者が出てきた。その筆頭が吉殿の兄、信広殿だ。


「三郎よ、儂が夜討ちを仕掛ける故、許可してもらえぬか?」

「兄者、彼の雪斎は武田や北条を手玉にとる怪物じゃ。なまじな手では見破られる」

「其処は理解できる。しかしじゃ、このまま睨み合っていても埒があかぬ」

「兄者をみすみす討たせるわけには行かぬ」

「なに? 儂がそう簡単に討たれるか!」

「兄者、すまぬがこの備えの大将は我ゆえ、今は自重していただきたい」

「ふん、仕方ないの」

 こう言い残して信広殿は陣幕を出て行った。


「竹千代よ、あれでよかったか?」

「はい、これで信広殿は抜け駆けで夜襲をかけるでしょう」

「あれで織田の最前線を守っておるからの。武辺は確かじゃ」

「信広殿が釣りだしたら、あとは敵の先陣を包囲して叩きましょう」

「なれば、兄者の兵が出撃したら退路を予測して兵を伏せるか」

「そこで追撃部隊が不利とあれば増援を呼び寄せることがかないましょう。さすれば……」

「敵の全軍とはいかずともかなりの兵力を釣りだせる。第一段階じゃの」

 吉殿の笑みは少し歪んでいた。身内を危険にさらすことに呵責を感じているのだろうか?

 そして聞きたくない情報もあった。敵の先鋒は岡崎衆、すなわち松平家臣であった。

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