10
「それじゃあ、行くね。しっかり掴まってて」
額をこすりつけるように頷くと、全身にわずかなGがかかる。
そのまま、どれくらいの時間が経ったんだろう。
数十時間だったかもしれないし数秒だったかもしれない。
ひたすらに静かで真っ暗だったから、時間の感覚なんてまったくなかった。
だけど、涙がとまるには充分な時間だったらしい。
目元の熱がいくらか引いたころ、いきなり機体が大きく揺れた。
「――わっ」
「シリウス!」
跳ねたボールのなかにいるようだった。
わけがわからなくて、咄嗟にベルの体にしがみついた。
ベルもわたしのことを抱きしめてくれて、おかげでシートから落下せずに済んだ。
「あ、ありがと……」
ひとまず顔を上げて、各種のパラメーターを確認する。
水圧計がエラーを吐き出していた。
つまり、センサーの周囲にあるはずの水がなくなっているということ。
「来たんだね、わたしたち」
「そうみたい……」
ただただ静か。機体が大きくゆっくりと上下している。
あれだけ大人たちから行くなと脅されていたのに、やけに呆気なかった。
「なんだか変な感じ……。本当に海のうえなのかな」
「ベル、SOLAVISの同期を切って、OLVISの可視光モードにして」
「あ、そうだね、忘れてた」
太陽を見に来たのにそれを忘れていたら本末転倒なんじゃないだろうか。
ちょっと不安になりつつ、ベルの手つきを眺める。
「……変わらないよ」
途端にベルがションボリとしてしまった。ちゃんと可視光モードに設定されているはずなのに、コックピットのなかは真っ暗なまま。ということは、外も真っ暗ということになる。
「海のうえに来たんだよね」
「それは間違いないと思うよ。センサーが壊れてるとは思えないし……」
「どうして真っ暗なの。太陽のおかげで明るいんじゃないの。すっごく揺れてるし」
「お、落ち着いてよ。これには理由があるはずだから」
不安とか緊張でベルはいっぱいいっぱいなのかもしれない。
そんなベルをなだめる。
ベルが心配しなくても、太陽は存在する。なのに外は暗いまま。その原因を記憶のなかから探しつつ、ホログラフィックパネルに指を伸ばす。機体表面のセンサーに周囲の湿度を計測するよう命じる。
「やっぱり。ほら、これを見て。湿度八十八パーセントだって」
パネルに表示されたいろいろな数値のひとつをベルに指し示す。
「すっごいじめじめしてる。ほとんどお風呂のなかみたい」
「そう。いま海のうえは、お風呂のなかみたいな状況なの。雨、っていってね」
「アメ?」
暗さと湿度を説明できる自然現象をひとつずつ挙げていく。アルマでは絶対に経験しようのないものだから、ベルは当然知らないし、わたしも知識でしか知らない。
「海のうえではね、蒸発して水蒸気になった水が上空で冷やされて、また水になって落ちてくることがあるの。それが雨」
「それじゃあ濡れちゃうじゃん。昔の人って大変だったんだね」
「建物のなかなら濡れないし、濡れずに移動する方法も持ってたよ」
「ふーん。でも嫌だなぁ、ずっとシャワー浴びてるみたいなものでしょ? 服を着たまま歩き回りたくないよ。昔の人って、裸で歩き回ってたとか?」
「それはもっともっと……人間がまだサルだったくらい昔の話だよ。傘って言って、布でできた一人用の屋根みたいなものを使ったり、カッパって言う水を通さない大きな服を着たりしてたんだって」
「……結構面倒臭いんだね」
「でもそのおかげで、真水が手に入ったりするからね」
ベルといっしょに大昔の生活に思いを馳せていると、少し気が軽くなってきた。もしかしたら海上に来てしまったことで、自棄になっているのかも。
「それで、すっごく高いところに水蒸気の親玉みたいなのがいて。雲っていうんだけど、それが太陽の光を遮って暗くなってるんじゃないかな」
実際に見たわけじゃないから仮説でしかないけれど、理屈は通るはず。
「煙で見えにくくなるようなもの?」
「そうそう、そんな感じ」
なんだか小さいころの実験を思い出して、懐かしくなってしまう。
「じゃあこの揺れは?」
「雨が降ってると海面が揺れることがあるんだって。空気の流れとかそういうのが関係してるの。お風呂でお湯に向かって息を吹いたりすると波ができるでしょ」
「二メートルくらいは揺れてるよ、わたしたち。自然って大きいんだね」
「それはもうね」
地球上を覆っている水の量は、ちいさなお風呂とじゃ比べるまでもない。
海底にいるとそんなこともなかなか想像しにくいけれど。
あ、でも、海上を真っ暗にするいちばん大きな理由が抜けていた。
これこそ最も重要で、けれども海底に棲むわたしたちには全然関係のない話。
「それともうひとつ。太陽って、実は見えたり見えなくなったりするの」
「え、どういうこと?」
「地球ってね、駒みたいに回ってるの。そのせいで、太陽が自分たちの周りをぐるっと回ってるように見えるの」
「へ、へー、そうなんだ……」
「回転する椅子に座って回ると、周囲の景色が動いて見えるでしょ? そんな感じ」
「んー、わかるような、わからないような……」
「首、ちょっと回してごらん」
「ん」
ベルは真横より少し後ろに視線を向けた。
「わたしのこと見えないでしょ」
「うん。あ、回ってるってこういうことだね」
徐々に首を元に戻して、わたしと目が合う。
「そう。外が真っ暗なのは、ちょうどわたしたちのいる場所が太陽の反対側だから」
太陽の日周運動。大昔なら誰でも知っていただろうことも、海の底では体験することはできないし、そもそもが無用な知識だ。
こうやって海上の世界に関する知識は少しずつ忘れ去られていく。だからこそ艦長という人間が、昔の知識を後世に伝えていかなければならないのだけれど。
「もうちょっと待ってれば、そのうち太陽も見れるはず」
「本当!?」
太陽は沈んでいても、ベルの嬉しそうな笑顔がまぶしい。
「どれくらい待ってれば見れるかな」
「真っ暗だから、もしかしたら数時間とかかかるかも」
「え、そんなに……」
ついてない、と思った。
ここが地球上のどのあたりなのか見当もつかない。
太陽が昇ってくる時間なんてさすがに調べようがないし、もうひとつ懸念もある。
この大きな波。天候不良によって発生しているとはいえかなり大きい。よほど天気が悪いんだろうか。太陽が昇ってきたとしても雲のせいでそこまで明るくならないかもしれない。
いや、だめだ。ベルが連れてきてくれたんだ。必ず太陽は見れるはず。
せっかくここまで来たんだから、せめて、太陽だけでも拝まないといけない。
信じるしかない。
「もう何時間か待ってみよ。そうしたら、雲があっても明るくなるはずだから」
「うぅ、わかった。……けど暇だなぁ」
「気長に待つしかないよ、せっかく来たんだし。……って、何やってるの、ベル」
ひと息つこうとしたわたしの下で、ベルは身をよじらせながら安全ベルトを外し、シートのうえに立つ。機体が波で揺れているのに、ベルのバランス感覚はどうなっているんだろう。
「せっかくだからちょっと外の様子でも見てみようかなって。アメ? って要は水でしょ、ちょっとくらい濡れてもいいよね」
「ま、まぁ……。せっかくだから。でも、すぐに閉めてよ」
「わかってるわかってる……って、あれ?」
ハッチの開閉レバーに手をかけたまま首を傾げるベル。
それどころか、レバーの部分が赤く光って、ブザーまで鳴り出した。
「うわっ、びっくりした」
体をびくりと震わせて、ベルは身を退ける。
「安全装置? どうしてまた」
「外が危ないと鳴るんだっけ。わたしこんなのはじめてだよ」
「うん。人間が生きていけないような環境だと開かないようになってる。間違っても海底で開かないようにって」
もし八百バールの水圧下で開けてしまったら、人間の体なんて一瞬でボールみたいになってしまう。外の環境がそれくらい地獄だということ。
「海のうえなのに、人間が生きていけないって、おかしくない?」
「どうなんだろ……」
わたしはまたパネルを操作して、センサーが取得する情報に目を走らせた。安全装置に引っかかりそうな項目を片っ端から目で追う。放射線量、大気組成、磁気。
そしてついに見つけた。何てことはない。極々基本的な項目、気温が犯人だった。
ただ、あまりにも突飛な数字だった。
「は、八十九度……?」
「嘘……ほんとだ……」
思わず互いに目を合わせる。まるで夢でも見ているようだった。
「ベル。とりあえず、レバーから手、放そっか……」
「そうだね……」
「命拾いしたね。外に出たら、完全にわたしの二の舞だったよ」
「それ、笑えないって……」
冗談を言って自分を落ち着ける。ベルのひきつった笑いがやけにむなしく聞こえた。しばらくベルはじっとハッチを見て、添えた自分の手を見て、そうしてから顔を真っ青にした。おっかなびっくり体をのけ反らせて、すとんとシートに体を埋めた。
「で、でもさ、どうしてこんなに熱いんだろう。昔は普通に人が住んでたんだよね。こんなところで住めるなんて……」
「もちろん無理。もしかしたら、海のうえで何かあったのかも」
地球四十六億年の歴史を通して、隕石が降っていた時代を除けば、気温がこれほど上がったことなんてあっただろうか。人類が海底に逃れる前、地球上の平均気温はせいぜい十五度で、比較的暖かかった中生代でもせいぜい二十数度だったはず。仮に上がったとしても、太陽定数や熱放射を考えるとほぼ九十度度なんて高温になるとは考えにくい。
しかもここは気温が安定している海のど真ん中だ。水は温めるのにかなりのカロリーが必要だから、必然的に海上の気温は上下差が少なくなる。ヴァスィリウスのせいで地球は一面海と化してしまったから、どこだって海のど真ん中。余計に気温は安定するはず。
何かあったに違いない。海上をとんでもなく高温にしてしまった何か。人類が太陽から離れて数百年、その数百年の間で気温を数十度も上げてしまうような何か。
考えるだけで、恐ろしくなった。
「何かって、何だろ」
「分からないけど……きゃっ」
「うあっ!」
突然、視界が真っ白になった。
「目がちかちかする……何、いまの」
両手で顔を覆うベル。わたしも視点が定まらなかった。
いきなりまばゆい光に包まれて、眩暈を起こしたらしい。
自然界で、これだけの光がいちどに発生する現象は限られている。
「たぶん、雷だと思う」
「か、かみなりぃ?」
よほどびっくりしたらしい。ベルはいまにも泣きそうな顔になっていた。
「ええと、雲のなかにある氷の粒がぶつかって静電気がたまっていって……。ま、まぁ、簡単に言っちゃうと、静電気で指がバチンってなるやつの、もっと大きいもの、みたいな」
「うぅ、そんなのが起こるなんて……。海怖い……」
「わたしを連れてきたベルが何言ってるの、もう」
「こんなところで何時間も待つのー?」
「泣きごと言わない。ほら、可視光モード切るよ」
「いいの、見えなくなっちゃうけど?」
「どうせ太陽が昇ってくるまでは時間がかかるだろうし、それまではエネルギー節約しておかないと。外の様子を確認するのは三十分ごとくらいでいいんじゃない?」
「それもそっか」
変更が適応されるまで、また真っ暗。
「でもそうなると、真っ暗ななかでずっと待たなくちゃいけないのかぁ」
「むしろ奴らが来たらすぐわかるんからいいんじゃない?」
海面には、OLVISが捉えられるものはヴァスィリウスのほかには存在しない。
雷を見なくて済むし、ちょうどいい。
「あ、そういえば。全然出てこなかったね、ヴァスィリウス」
「ほんと。あれだけ海面はヴァスィリウスがうようよしてるって脅されてたのに」
「嘘じゃないの」
「まさか」
肩透かしを食らったと言えばいいのかよくわからないけれど、根拠のない違和感を覚えた。ここまで来るのに、本当に呆気なさ過ぎた。
掴みどころのない疑問を覚えていると、目の前のホログラフィックパネルにOLVISの文字が浮かんで、コックピット内の壁面に映像が映し出される。
なぜか、コックピットのなかが明るくなった。赤色の光が照っていた。
背中に感じるベルの体が、こわばったように思えた。
わたしは、視線をパネルから上げる勇気がなかった。
〈待つ必要はありません〉
通信機から、聞き慣れない声が入ってきた。しわがれた女性の声。
つい十日前にもいちどだけ聞いた声。
こんな声の持ち主は、アルマにはひとりしかいない。
「艦長……?」
覚悟を決めて、顔を上げる。
赤色の光がセファイエを取り囲んでいた。それも七つ。ヴァスィリウスとは違う光。奴らはもっと全身から光が迸っているけれど、これはまるでチョウチンアンコウのように穏やか。
オケアノスの光だ。機体に備わっている識別信号だ。水面に反射してぼやけているけど、見間違いじゃない。わたしたちは七基のオケアノスに囲まれている。
〈あなたがたの見たいものはありません。アルマに還るのです。我々が先導します〉
「どういうことですか、それは」
耳にかかるベルの呼吸が荒い。すっかり怯えてしまっているらしい。
〈わかりませんか〉
けれど艦長は、どこか嘲りを含めて言い放った。
〈太陽など存在しないのですよ〉
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