16

 ドアの向こうは一面ガラス張り。吹き抜けのだだっ広い研究フロアが見下ろせた。目を引く巨大な黒い塊がふたつと、林立する機械の群れ、その隙間をカフの部下たちが慌ただしく動き回っている。


 ここに来るのは久しぶりだった。

 科学班でもないわたしが自分から来る用事なんて、ほとんどないわけだし。


「あの大きいのが巨大ヴァスィリウスの肉片。さすがに全部を置いとくわけにはいかなかったから、適当に解剖したあと一部だけ検体に残してあとは資材班に回したよ」

「じゃあもうひとつのほうは」

「あぁ、きれいだろう。不可視ヴァスィリウスのほぼ完全な屍だ」


 矢じりのような頭部と、そこから延びる異様に細長い尾、全身にまとった黒曜鱗。真っ黒なシルエットは、従来種とさほど変わらないように見えた。

 ただ、この肉眼で完全な実物を見たのははじめてだった。


「レグルスが遺したもの……」

「そう、命と引き換えにね」


 少しだけ息苦しくなる。レグルスの言葉がフラッシュバックした。


 ――いつか言ったよな。残せるものは残す、と。あとは頼んだ。


 だからって、レグルスまで死ななくてもいいのに。他人には命を捨てるなと言っておきながら自分は自ら死を選ぶなんて、最後の最後まで勝手なんだから。

 わたしは目を逸らした。


「もういいのかい」

「覚えたから」

「うらやましい限りだねぇ、その記憶力が」

「そう? わたしは、覚えられない人のことがよくわからないから。……あ、別に嫌味とかそういうのじゃないよ」

「わかってるよぉ」


 カフは苦笑交じりに肩をすくめて歩き出した。彼女の背中を見ながら追いかける。


 嫌味、というか八つ当たりかもしれない。むしろわたしは、みんなみたいに同じものを何度も見られることのほうがうらやましい。嫌になったりしないんだろうか。直視したくないものと何度も対峙したり、何度も見ているうちに見たくないものまで見えてきたり。何かを直視するなんて、とても大変なのに。

 これ以上あの検体を見ていたら、どうにかなってしまいそうだった。


 どうして、完全な検体を手に入れることができたのか。オケアノスとヴァスィリウスの戦闘において、敵の体表を綺麗なまま維持するためにはどうすればいいのか。

 簡単だ。攻撃をしなければいい。そしてぎりぎりまで引き付けてから急所を一突き。これで目立った外傷のない綺麗な屍が手に入る。急所を一突きするには接近しなければいけない。それも頭と頭がぶつかるほどに。失敗すれば死亡。成功したとしても、慣性で動き続ける死体にコックピットを潰されて死亡。


 奴らの完全な検体は、パイロットの命と等価交換だ。

 研究のためには完全な死体が必要だ。

 新種の性質を突き止めるには、すべての臓器が揃っていなければならない。


 だから、レグルスは命がけで検体を手に入れようとした。

 結果、検体は手に入り、レグルスは死んだ。

 カフは、レグルスのおかげで新種の研究ができる。大人たちはそのおかげで新種の対策を講じることができる。わたしたちはそのおかげで、次も戦うことができる。

 わたしは、代償という役割をレグルスに押し付けた。

 艦長の指示に従ったとき、特に反論することもなく、レグルスを見殺しにした。


 あの検体を見てしまうと、自分の立ち位置を直視しなければならなくなる。

 ひとつの命を歯車のように取り替えた、大人としての自分。

 レグルスにいつも助けてもらっていた、子供としての自分。


 直視したくないから、わたしは記憶の検体をじっと観察する。そのほうが楽だ。

 まだ、直視しなくてもいいでしょう?

 わたしが大人になるなんて、先の話なんだから。


「さぁ、入って。適当に座ってくれていいから」


 カフが招いてくれたのは、彼女が日頃過ごしているラボだった。ラボは壁どころか床までがガラス張りで、ここからも研究フロアが見渡せる。慣れないわたしは足元がすーすーして堪らなかった。あまり奥へは行かず、入口に近いイスを借りた。

 ふと、視線が下を向いた瞬間、研究フロアに入ってくるナオスが見えた。彼の表情は、わたしをなじっていたときより随分すがすがしかった。


「さて、シリウスに手伝ってほしいって話なんだけど、詳しいことを説明する前に、とりあえず現状について整理しておきたいんだ。いいかなぁ」


 ラボの主たるカフは奥のデスクに腰かけた。


「わかった」

「調査の進捗はこれからだ。まだ外骨格もはずせてない。まぁ新種の可能性が高いから、作業が慎重になっているっていうのもあるけどねぇ」


 回収が済んでからまだ三時間程度。奴らの表面はとんでもなく硬いし、普段ならオケアノスの武器で吹き飛ばせるけれど、大事な検体にはそんなことできない。時間がかかるのも仕方ない。


「ただ、体表のサンプル検査と体内スキャンは終わってるよ」

「結果は」

「予想通りといっていいだろうね」


 と、目の前のモニターに緑色の画面が映し出される。

 そこに黒いひし形の影が落ちてきた。


「これは?」

「巨大ヴァスィリウスの体液を溶かした溶液に、検体から採取した鱗を入れたんだよ。その様子を、OLVISで撮っている」

「なるほど」

「知っての通り、ヴァスィリウスは体内から黒波という電磁波を放出す。奴らの代謝自体が黒波を放射するものなんだけど、黒波の反響で周囲の様子を探ったりもしている。ORDERもOLVISも、その黒波を捉えて映像にしているのさぁ。ところがだ。あの検体は、体内に黒波の反応こそあれ、表皮は黒波を完全に遮る性質を持っていた。その再現がこの映像だ」


 全体を満たす緑色と、そのなかに浮かび上がる真っ黒な鱗。背景が黒波で覆われているからこそ鱗が視認できるけれど、何もなければただただ真っ黒なだけだ。


「それじゃあ、OLVISにもORDERにも映るわけはないか」

「周囲の黒波を反射することもないし、体内の黒波も完全シャットアウトだからね」


 奴らが人類に気づかれることなくアルマに近づけた理由は、明らかになった。


「スキャンは」

「内臓に関しては従来の種類とほぼ同じだったよ」

「その口ぶりだと得られた情報は少なそうだけど。ほぼ同じ、ってどういうこと?」

「相変わらず鋭いねぇ」


 なんだか自慢するように口元を歪めるカフ。

 モニターの実験映像が3D映像に変わった。矢じり型の骨や詰まった内臓が見えるから、検体のスキャン画像らしい。覚えている従来種の画像と見比べてみる。


「確かに見た目はほとんど同じだけど……なるほど、これのこと?」


 頭頂部付近に、何やら大きな白い塊がある。従来種にはない特徴だった。


「ご名答ぅ。はじめて見る臓器だ。今日来たほかの個体が持っているとは限らないし、あくまで――」


 ちらりとわたしのほうを見て、


「――突然変異の可能性も捨てきれないから微妙なところではあるんだけれどぉ。ひとまず便宜的には新種、と呼んでもいいだろうね」


 もしほかの個体にもこの器官があったら、繁殖している可能性が高い。


「いまのところ明確な発見がこれくらいしかないのも事実だけど、この白い塊こそ解明の手がかりなんじゃないかなぁと思っている。これ、シリウスは何だと思う?」

「さぁ……見当もつかないけど」

「そう、わたしもわからない」

「自信満々に言われても」

「ただ、スキャンの具合からこれが脂肪の塊だろうということは推測できている」

「脂肪の塊? 頭に? どうしてまた」

「それがわかったら苦労しないよ」


 わたしは自分の頭に手を当てた。ここに脂肪の塊が埋め込まれたとして、何の役に立つんだろうか。強靭な外骨格があるんだから脳を保護するためでもないだろうし。


「……で、それを聞くためにわたしを?」

「その通り。知っている範囲でいいから、これと似たような器官を持った動物を教えてくれないかなぁ。大昔の生物に関しては、シリウスのほうが詳しいだろう」

「わざわざわたしに聞かなくても、分析していくうちにわかるんじゃないの?」


 大昔の知識に関してだけ言えば、確かにカフより詳しい自信はある。

 けれども、その知識だけで科学班の力を凌駕できるとは思えない。


「別にうちの力を過小評価しているわけじゃぁない。ただぁ、初見のものをちゃんと調べようとするとどうしても時間はかかる。それに調べて終わりじゃない。対策を立てて、場合によっては新しい装置を開発しなきゃならない。その間に新種がまた襲ってこないとも限らない」

「あ……」


 従来のヴァスィリウスは襲来のタイミングが二週間周期だったけれど、新種がそうとは限らない。下手するといまにも襲ってくるかもしれない。

 そしてわたしたちの手元には、新種に対抗する手段がほとんどない。

 いま襲われたら、また三人のような犠牲を出さなくてはならないかもしれない。

 もしベルが次の三人になってしまったら……。

 一秒でも早く対策が必要だ。新種の調査も新装備の開発も、急務だ。


「シリウスの知識が時間短縮につながるかもしれないんだよぉ。協力してくれるね」


 ここでわたしが上手くやれば、研究は大きく前進する。不意打ちを防ぐことができる。犠牲を出さなくてすむ。それはベルのためにもなるし、レグルスたちの死を無駄にしないことにもつながる。

 目の前に光が差したような心地になった。

 額が急にかゆくなってきた。


「あぁ、そのナノパッチ、そこのごみ箱に捨てといていいよ」


 そうだ、ずいぶん昔の話に思えるけど、ナノパッチをベルからもらったのは今日のことだった。それが剥がれかけているんだ。わたしは引っぺがしたそれを丸めてごみ箱に投げ入れた。

 ど真ん中。


「キーワードは脂肪ってことでいい?」

「ひとつ頼む」

「と、言っても――」


 脂肪について考えたことなんてなかった。食べ物に関しては完璧にカロリー計算されたものが勝手に出てくるから、脂質の量についても、体重についても頭を悩ませる必要はない。そういう悩みは前時代のものでしかない。

 それに、脂肪というワードは食事と密接に結びついている。考えなしに人前で話せるような話題ではない。カフに対してだって、どういう言葉を使えばいいか気になってしまう。


「脂肪なんて、エネルギーを溜めるとか、保温とかのためにあるものでしょ」

「どちらもヴァスィリウスには必要なさそうだねぇ。こんなのなくたって、奴らは海底を猛スピードで泳ぎ回ることができる。むしろこんな脂肪、邪魔になりかねない」

「となるともっと別の利用方法が……」


 椅子にもたれかかって、足も腕も組んで、うーんと唸ってみる。

 カフも頭を抱えて独特の体勢で考え込んでいる。


「んん、全然ぴんとこない」

「そうかぁ、それは仕方ない」

「ごめんなさい。役に立てなくて」


 このままじゃ、時間が過ぎていくだけだ。何か思いつかないと……。


「いやいや、いいんだよぉ。いきなり聞いて悪かった。進捗があればまた伝えるからぁ、シリウスのほうでも調べておいてくれるかい?」

「わかった」

「あぁ、自分で調べられたらいいんだけどなぁ、どうしてわたしはデータベースへのアクセス権限が制限されてるのかなぁ!」

「愚痴なら艦長に言ってよ」

「あああああっ!」


 これ以上、ここにいる必要はなさそうだった。悩みもだえるカフと話し合ったところで進展はしないだろう。早く帰って調べ物をしないと。


「じゃあ、わたしはそろそろ部屋に戻るから」

「あぁ、それともうひとつ調べといてほしいことがあるん、だ……が……」


 言い終わらないうちにカフの口がどんどんぎこちなくなる。

 目は見開かれ、表情には恐怖の色が濃くなっていく。


「どうしたの、カフ」


 わたしはカフの目線を追った。振り返ってあたりを確認すると――。


「げ、ミモザ……」


 育ての親を見つけてしまったわたしも、さぞ渋い顔になっていただろう。

 藍色の髪を振りながら扉の向こうにひとりの女性がやってきた。


「カフ! あなた、何やってるかわかってるの!」


 扉が開くなりミモザは叫ぶ。内臓に響いてくるような迫力だった。


「ミ、ミモザ、どうしてここに……」

「居住区の見回りしてたらシリウスだけいなくなってたからに決まってるでしょ! わざわざベルを起こして聞いても知らないって泣きそうな顔で言うし。それで探したらここに行き着いたのよ。まったく、こんなときに呼び出すなんて」

「いや、これには深い理由が」

「あろうとなかろうとシリウスはちゃんと休まなきゃいけない体なのよ!」

「ぐ、ぐぐぐぐ……」


 年上を完膚なきまでに圧倒するミモザ。アルマの子育てを一手に担っている者の名は伊達じゃない。火の粉が飛んでこないうちに帰ったほうがよさそうだった。ばれないようにこっそり椅子から立ち上がって、ミモザの死角に入りこむようにして……。


「シーリーウースー」


 しかし、肩を掴まれてしまった。


「あなたもあなた。ちゃんと寝ないとだめでしょ!」

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