グッバイ、ハロワールド!

 ラッセと別れて涙を流さないよう気持ちを落ち着かせているのに、前を行くマニュアルピンポン玉はとことん事務的に異界帰還ハロ式の説明を始めてくる。


『異界帰還ハロ式が行われる異界帰還室には、帰還される異界の方と、アルゴさまの許可がある者しか、入室できません』


「つまり、アルゴが待っているってことね」


『田村凜子さまのおっしゃっていることが理解できません。現在移動しております巡る円環の本部そのものが、アルゴさまです』


「そう、だったね」


 会話ができない。

 あいかわらず、なんの面白みもない緑色の廊下が続いている。

 どこまで続いているんだろう。

 そんなに歩いていないはずなのに、疲れてきた。やっぱり、ハロ順応率が低下しているのかな。

 先の見えない延々と続く廊下に不安を感じていると、突然マニュアルピンポン玉が止まった。あまりにも突然過ぎて、顔にぶつかるところだった。


『こちらから先が異界帰還室となりますので、わたくしはここまでです』


 と、言われても、廊下の途中だ。

 ラッセとお別れした部屋のように、廊下の一部に入り口が開いたわけでもない。


「ピィ」


「あ、ピィちゃん」


 戸惑っているうちに、ピィちゃんがズリズリと先に行ってしまうから、慌てて追いかける。


「ピィちゃん、待っ……て?」


 5メートルも行かないうちに、急に景色が切り替わった。


「ここが、異界帰還室」


 前後左右上下、無限に広がっているんじゃないかって圧倒されるような白い空間。

 不思議と、地に足がつかない浮遊感に恐怖を感じなかった。

 先に異界帰還室に飛びこんだピィちゃんが、ズリズリと斜め上へと進んでいく。


「ピィピッ」


「待って、ピィちゃん」


 どう進めばいいのかわからなかったけど、何もない空間を蹴ると、ピィちゃんを追いかけるように体がふわりとピィちゃんを追いかける。


「ピィピッ」


 ピィちゃんが向かう先に、黒い箱のようなものがあった。近づくにつれて、その箱が棺桶によく似ている気がした。

 そして、それは気のせいではなかった。


「きれい」


 細長い黒い箱の中には、水色のワンピースを着た女の子が横たわっていた。十二歳くらいだろうか。

 でも、長い長い真っ白な髪に包まれるように横たわる彼女は、とてもきれいな女の子だった。


「眠っているのかな」


 肌理の細かい頬には、本当にかすかにだけど生気があった。本当によく見ればだけど、胸も上下している。

 こんなにきれいな人を、わたしは知らない。

 もう、きれいとしか言いようがない。たとえ、地球上の美しい言葉を集めても、彼女の美しさを表現できないだろう。

 ため息も忘れて彼女に見とれていると、どこからともなくアルゴの声が響いてきた。


『彼女はナージェだ』


「ナージェ?」


 アルゴの声に答えると、白い空間に赤や青の光が駆け抜けた。

 光は文字らしきものを描きながら、わたしたちを囲んでいく。

 それはまるで、巨大な天球儀の内側にいるみたいだ。


『そう、女神ナージェ。吾輩とリン――灰色の男グレイマンと同じく、巡る円環の設立メンバーで三賢者と呼ばれているが、彼女は別格だ』


「へ、へぇ」


 忘れられないために学習したとかいう変態性をのぞいたら、アルゴってめっちゃ知的で好青年じゃないかって気がする。というか、人工知能なんだから、知的なのは当たり前か。


『ずっと眠っているが、彼女の金色の瞳は、吾輩も困惑するほど美しい。……まぁ、そんなことは、これからハロワールドを去る君には、関係ないか』


「ピィ」


 その通りだ関係ないと、ピィちゃんが縦にズルンズルンする。もしかしたら、仲良しのピンポン玉アルゴ995号の行方が知りたいだけかもしれないけど。


「ねぇ、アルゴ。995号はどうしたの? わたしもピィちゃんも、ちゃんとお別れしていないんだけど」


「ピィ」


 ピィちゃんも激しく縦にズルンズルンして、姿を現さないアルゴに追求している。


『よほど、995号を気に入ってくれたようだね。吾輩も嬉しいよ。995号には、新しい仕事を与えただけさ。安心したまえ、995号にはちゃんと君たちの気持ちは


「会わせてくれないんですね?」


 アルゴの面白がるような笑い声に、知的で好青年は撤回。


『その必要はないからね』


 カッチーンだ。


「ビィイイイイイイイ」


 ピィちゃんもご立腹で、ブルブル震えている。輪郭が解ける前に、ピィちゃんの後ろに灰色のマントを羽織ったタムタムが現れた。


「相手にするな、クラガリ」


「ビィ」


 タムタムのひと声で、ピィちゃんはおとなしくなる。


「アルゴの言動は後になってから、嫌でもその意味を思い知る。昔から、そういうやつだ」


「でも……」


 ピィちゃんをひとしきり撫で回したタムタムの口元にも、意味ありげな意地の悪い笑みがあった。

 あとでわかると言われても、わたしはもうすぐハロワールドを去るんだ。


『ああ、そうそう、忘れるところだったが、田村凜子くんに、吾輩は最上級の感謝の念を抱いている。君のおかげで、退屈しないひとときを過ごせたし、吾輩の新世代移行プロジェクトを開始することができたのだからね』


 どう言えば、ピンポン玉アルゴ995号にさようならを言わせてくれるのか困っていると、タムタムが抱きかかえたピィちゃんを差し出してきた。

 彼の腕の中のピィちゃんに、緑色の首輪がはめられていた。


「小娘、もう時間だ」


「どうも」


 そういえば赤い首輪はどうしたんだろうと、今さら気にしながらもピィちゃんを受け取る。

 タムタムと目があわせられない。

 とりあえず、ピィちゃんをおろすと、彼に右手をつかまれた。


「それから、この指輪が俺の道標みちしるべになる。常に持っておけ」


「あ、ありがとう」


 ヤバい。

 右手に握らされた金の指輪は、間違っても左の薬指にはめたらダメだ。

 鎮まれ、鎮まりたまえ、わたしの心臓。


「アルゴとお前のせいで、俺のお気に入りの退屈な生活が台無しだ。今すぐにでも、地球に逃げ出したいくらいだ」


「ピィ」


 鼻を鳴らしたタムタムを、ピィちゃんが面白がるように短く鳴く。


『田村凜子くん、言いたいことはたくさんあるだろうが、彼が第10892世界『地球』に里帰りしたときに、ゆっくりと話をしたまえ』


 ピンポン玉アルゴ995号のことが気になるけど、アルゴはこれ以上、時間を与えてくれなかった。


『異界帰還ハロ式、発動』


 アルゴは、空気を読むことを学習した方がいい。


 ぐらりと体が崩れ落ちるのがわかる。

 とっさにひつぎふちに手をやる。


 薄れていく意識で最後に見たのは、美しい女神の安らかな寝顔と、それからタムタムの――――。




 行ってしまったな。

 思わず小娘に伸ばしてしまった手を、むなしく下ろす。


『行ってしまったね』


 棺の中のナージェはまだ眠ったままだ。


「ああ、そうだな」


 展開されていた異界帰還ハロ式が消えてしまっては、俺と眠るナージェ、それから、黒い棺にコアを移植したアルゴだけ。


「いいのか、ナージェ。アルゴの好きにさせて」


 眠れる女神は、答えない。

 代わりに答えるのは、機械仕掛けの脳みそだ。


『いいも悪いも、無いだろう。ナージェに、与えられた吾輩と君の役目を継ぐ者が必要な時が来ただけのことさ』


「それが、あの脳筋と出来損ないだった995号とは、まだまだ先が長いな」


 何がおかしいのか、アルゴはくつくつと笑う。


『それも、絶対ではない。我輩たちは知っているだろう。絶対などないことを』


「そうだな」


 絶対的存在だった故郷の世界を一度失えば、嫌でも絶対など信じなくなるだろう。


 老いも、苦痛も、女王さまが考えうるありとあらゆることから、死を遠ざけたこの不死身の身体も絶対ではない。


 絶対などない。

 不安定で不確定な未来は、当分の間は死にたくなるような退屈とは無縁でいられそうだ。


『久しぶりに、君の楽しそうな笑顔を見れて、吾輩も嬉しいよ』


「ほっとけ」


 それから、当分の間はアルゴの変態ごっこに悩まされずにすみそうだ。

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