第一部  Eternal twilight dominated all of the island.

第一章第一節<Young minstrel>

 男が樫で出来た古びた扉を潜ると、一種独特の匂いが客を出迎えた。


 皿に盛られ、脂の滴る肉が焼けた香ばしい匂い。無数の杯から立ち上る、アルコールの揮発した匂い。くゆらせた紫煙が薄められ、空気の中に溶け込んだ匂い。そして、一日の労働を終えた男たちの肌から上がる、汗の匂い。


 そこは、名も無き村の一角にある、まるで喧騒が押し込められてでもいるかの如き、酒場であった。


 男たちは酒場で杯を酌み交わし、語り、笑い、そしてそれぞれのベッドへと戻っていく。時折は拳を交わらせることもあったが、大抵は翌朝顔をあわせたとき、自分の拳の痛みと相手の顔の痣を見比べ、ばつの悪そうな会釈をして、終わっていた。


 そのとき、酒場に足を踏み入れた者は、さして広くも無い店内をぐるりと見回し、そして己がこの場所に迎え入れられていることに、何千回目かのささやかな安堵を味わった。


 見知った仲間。酒場が広くも無いなら、村の大きさだってたかが知れている。しかし、こうして見回せば、仲間たちの顔一つずつが物言わぬ語り部となって村の様子を表していることを、男は知っていた。


 赤い顔をするジェイクは、また明朝は寝坊をするだろう。飲めない酒に酔っているのは、今夜がはじめてではない。だが男は何も言わなかった。


 ジェイクの胸中に沸き起こっている、喜びを知っているから。彼には、待望の息子が生まれたのだ。それまで、二人とも女続きだったため、ジェイクの喜びはひとしおだった。


 大きくなったら、息子にいろいろなことを教えてやれる。ここで、馴染みの仲間たちと息子が最初の杯を煽るのを眺めているのは、どんなにか楽しいことだろう。文字すら満足に綴れないが、こうして仲間と騒ぐことで、ジェイクは己の喜びを語っているのだ。


 そこから然程離れていない席に、仏頂面で腰を下ろしているのは、アルムだった。


 こちらのテーブルはジェイクの場ほど楽しげではない。居並ぶ者たちも皆、どこか声を潜めつつ、そして時折押し殺した溜息と舌打ちを交えている。


 アルムは数日前、妻と口論の末、頭に血が上って妻に手を上げたのだ。以来、妻はアルムと口を利こうとはしない。それまで作っていたアルムへの手弁当も、あれっきり姿を潜めている。


 アルムはそうして夜な夜な酒場へと足を向け、同じく自分の妻に不満を抱いている者たちと共に、不平を並べ立てているのだ。だが、それを声高に唱えるつもりは、彼らには無い。何故なら、自分たちの生活を支えているのは、他ならぬ女たちであることを、彼等自身よく知っているからだった。


 男は一通りぐるりと見回すと、そして店のカウンターの側にいる、少年に目を向けた。


 日々の畑仕事のため、逞しい体躯ばかりが居並ぶ男たちに混じって、その少年はひどく場違いな存在に思えた。


 知らぬものが見れば、彼は少女にも見えたことだろう。黒い射干玉の髪は長く伸ばされ、緩やかに波打って背筋にまで垂れている。だが給仕の仕事を勤める彼は、その美しい髪を頭の後ろで結び、垂らしていた。


 髪を結わえたことにより、彼の顔はよく見えた。額と鼻の頭に汗の珠を浮かせ、そして酒場の熱気の為に僅かに顔を上気させた少年。


 名は、アウレティカと言った。


「こんばんわ、いい夜だね。星が綺麗だよ」


 アウレティカは、男の姿を認めると、笑顔で話しかけてきた。


 それが自分には心地よかった。時折、大きな町に行商に出かけたりなどした時、ここよりもずっと大きな酒場で飲んだこともある。だがそうした場には、ほぼ必ずといって給仕をしているのは女であった。それも、娼婦と同じくらいに媚びた笑顔を浮かべ、そして娼婦よりは僅かに大人しいだけの衣装を身につけ、動き回っている。


 それに比べ、ここにいる店主や、アウレティカの笑顔や言葉には、何も下心が無いのが嬉しかった。


 星が綺麗だよ。そのアウレティカの言葉に、自分が日が落ちてからここに来るまで、空の様子にほとんどと言ってよいほど注意を向けなかったことに気づいた。


 相変わらず不思議な少年だ、と感じた。身の回りの僅かな差異を、アウレティカは敏感に感じ取る。


 風の中に潜んでいる、微かな季節の到来を、すぐにアウレティカは悟っている。凍てつく空気の中、抜けるように澄んだ天空の美しさを、語ってもらったこともある。そして、一日の労働に区切りをつけるだけであった日没の陽光に浮き彫りにされた、雲海の物語を、はじめて聞いた。


「とりあえず、酒を頼むよ」


 太くごつごつした指で、肩にかけた荷を下ろしながら、カウンターの席に腰を下ろした。


 それまで重い荷を支えていた腰が、うねる筋肉の奥で控えめな苦情を漏らす。


 程なく、エドの元にはいつも彼が注文している、発泡酒が届けられていた。白く濁ってはいるが、喉を差すように強い刺激を、男は愛していた。


 ちょうど、三日前に村を出発して、近くの街まで買出しに出かけていたところだった。何か、楽しい土産話はないか、とアウレティカがせがもうとしたときであった。


「よぉ、そろそろ今晩の、頼むぜ」


 ジェイクだった。


「はぁい」


 よく通る声でアウレティカは応えた。


 まるでそれが符丁になってでもいたかのように、男たちは椅子を一脚、開けた。そして椅子を取り囲むように、半円状に向き合わせる。それだけで、酒場はちょっとした劇場になっていた。


 アウレティカはその椅子に腰を下ろすと、両手をゆったりした布で包んだ。


 それが合図であり、男たちは一斉に口を噤んだ。咳払い一つ聞こえない静寂の中、アウレティカは布に包まれた両手に唇を寄せ、何かを呟いた。瞳を閉じ、そして布を払う。


 それまで何も持っていなかったアウレティカの細い腕には、眩いばかりの竪琴が抱かれていた。


 幾度見ても、その美しさに男たちは息を呑んだ。


 六弦をぴんと張った弦楽器は、一目でそれがかなり値の張る代物であることが素人目にも分かるほどである。磨き上げられた銀の表面には瑕一つなく、左右から二人の森の精霊が頭上に腕かいなを掲げ、その先から伸びた枝が交差する装飾を施されている。


 ほっとしたようにアウレティカは息を吐くと、顔を上げて観客となった男たちに向き直った。


「さて、今夜のご要望は?」

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