居候は雪と狼Ⅵ

それからと言うもの、雪女と一緒に生活することが普通になっていた亮人は学校に行って帰っては「ただいま」と言うようになった。

雪女が亮人の家に来るまでは家に帰っても「ただいま」ということはなかったのに、いつの間にか言うようになっていたのだ。


「雪ちゃんは家で寝てるのかなぁ?」


 化学の授業中である今、亮人はずっと外の空をぷかぷかと浮かんでいる雲を見つめながら、家で待っているであろう雪女の事を考えていた。

 あれから二週間と経っていれば、知らないうちに仲良くもなるし呼び方も変わった。

 最初は君としか呼ばなかったけど、それでは不憫で仕方がないから今日の朝から「雪ちゃん」と呼ぶことにした亮人に、雪女は一緒に暮らしてから二日目に亮人の名前を呼ぶようになった。


『あんたの名前って何?』


 と言われた時の亮人は流石に悲しくなっていたが、そんなのも些細なこと。

 そんな懐かしいような思い出を思い出しながら外を見つめていると、亮人の横で実験をしていた礼火が、


「雪ちゃんって誰の事なの?」


 と真剣な眼差しで実験を後回しに亮人へと言い寄って来ていた。

 班の人たちはしょうがないかなぁ……といった感じに礼火が亮人のほうへと意識を持って行ってしまったことを優しく受け止めていて、そのまま実験は班員に任されてしまった。


「ねぇ、雪ちゃんって誰の事なのかな? 私にちゃんと教えてくれないと、お父さんたちに電話するよ?」


 小さな体とは予想も出来ない思考。少し予想外の行動を起こす小さな幼馴染は亮人がちゃん

とした答えを返さない限り、おそらくここから引いてくれることはないだろう。

 でも、なんて言えばいいんだろう……。

 俺の家に一緒に住み始めた妖魔の女の子……なんて言った時には、俺が大嫌いの両親に何かしらの報告をされてしまうわけで、どんな答えを出せばいいのやら。

 言葉を一つでも間違えた時には大変な状況を作ってしまうことになる。

 そんな危機的状況な亮人は無言でやり過ごそうとした。ただ、亮人の耳にはもう一度、あの遠吠えが窓の外から聞こえてきた。


「また何かが鳴いてるな……何が鳴いてるんだ?」

「話しを逸らさないで。ほら、ちゃんと私に雪ちゃんっていう子の事を教えて。そうすればお父さんたちには電話しないから」

「いや、そんなことは気にしなくていいことだからさ。とにかく、俺はまず外で鳴いてる動物が気に」


 気になる。そう言おうとした亮人の横の窓ガラス。そこには一つの影が徐々に大きくなっていることが分かった。

 上からの影だという事は分かるが、そのシルエット。それはどう考えても一匹の犬のようにしか見えず、だがそれでも犬にしては大きすぎる。


『お兄ちゃんを困らせる人間は許さないっ!』


 窓の外から聞こえてきた幼さが残った少女の声。だが、近づいて来るのは大きなシルエット。そして、窓へと近づいて来た影の大きさは実物大になり亮人の横の窓ガラスを割りながら、化学実験室の中へと金色の犬が飛び込んできた。


「――――――ッ!」


 突然の亮人への来客。

 亮人の横へと飛んできた金色の犬は亮人に寄り添えば、礼火に向かって牙を剥き出して今にも飛びつこうとしている。

 だが、そんな金色の犬に一切気づいていないクラスメイト達は突然割れた窓に驚きを隠せないでいた。

なんでみんなはこの犬に気が付かないんだ? それにこの犬ってもしかして、狼なのか?

強靭な牙を持ち、それでいて大型犬なんかよりも大きな身体。無駄な肉なんかが一切ないその身体からは鋭い空気が流れて来ている。


『死ねっ!』


 金色の狼はコンクリートで出来た床を抉る程の力で礼火へと鋭い牙を剥き出しにして走り出そうとしていた。だが、そんな姿を見ていない礼火は逆に亮人へとガラス片が飛んで来ていないのかと心配しながら近づいて来てしまう。

 両者が自分から近づいて行く目の前の光景に亮人は危険な香りを感じて、牙を剥き出しにしている金色の狼へと右腕を突き出した。そして、その牙の矛先を自分の腕に向かわせる。


『――ッ! お兄ちゃんっ!?』


 飛び出そうとしていた体は既に止まらず、礼火の事を庇おうとした亮人の腕へと狼の牙を刺さる。そして腕には鋭い牙の跡が痛々しく残る。赤々と滴る亮人の血は化学実験室の床へと何滴も垂れ、それを見ていた礼火は亮人の腕が何かに潰されているように見えていた。


「――――――ッ。やっぱり……妖魔だったか……申し訳ないんだけど、早く口を開いてくれると嬉しいんだ……手から血が凄く出てきてるから、ね?」

『ごめん、お兄ちゃん……こんなことするつもりはなかったんだよ。それだけは信じて……』


 亮人の事を知っている金色の狼は亮人の腕へと咬みついていた顎を、地面へとその大きな体を伏せ、悲しそうに目尻に涙を浮かべていた。


「亮人っ! 早く保健室に行こう! 血が凄いよっ」

「そんなにっ、気にしなくていいよ。こんなのすぐに、止まると思うし……その前に一人でしないといけないことが、増えちゃったからね……先生、保健室に行ってきてもいいですか?」 


 ドロドロと腕から流れる血を教師へと見せつけるようにして突き出せば、教師は顔を蒼白にして、コクコクと頷く。


「私もついて行くっ! そんなにたくさん血が出てるんだから支えがいないとダメだよっ!」

「礼火、そんなことはどうでもいいから……とにかく俺は一人で行かないといけないんだよ。分かってくれないかな?」


 腕を抑えながら礼火へと向ける微笑みは普段とは少しだけ血の気が薄く、それでも何も気にしていないような憎めない表情で、礼火はそんな亮人の言う事しょうがなく承諾した。


『この女……お兄ちゃんの何なの……』


 殺気立った視線と空気を礼火へと向ける狼は再び、あの鋭い牙を剥き出しにする。


「やめてくれるか……一応は幼馴染なんだよ。俺の大切な人って言えば……止めてくれるか?」

『お兄ちゃんの大切な人……なら仕方がない、かな。今回だけは許してあげる、お兄ちゃんの大切な人ってことだから。でも、これから何度もお兄ちゃんの事を困らせるようなら、本気で殺しに行くから……』


 物騒なことを口にした狼は教室から出て行く亮人の後ろを追従するようについて行く。

 教室から出た途端にあの狼から出ていた殺気は無くなって、まるでクロのように、その猛々しい顔を亮人の横っ腹へと頬擦りをする。


『久しぶりのお兄ちゃんの匂いだぁ……凄く良い匂いで力が入らなくなっちゃいそうだよ』


 俺はこの狼と昔に会ったことがあるのかな……そんな記憶は一切ないんだけど。

 頭の中にある記憶は妖魔に関するものは二週間前に雪女から教えてもらった知識だけ。それ以前に亮人はこの大きな金色の狼と逢ったことがあるらしい。

 それにお兄ちゃんって呼ばれてる俺ってどうなんだろうなぁ……。

 実の妹なんか実在しない亮人にとって、『お兄ちゃん』と呼ばれることには新鮮さがあって、恥ずかしさがあってといった感じにいろんな感情が入り混じった感覚。

 それでも少しだけ『お兄ちゃん』って呼ばれることが嬉しく思っている亮人は自然と傷ついた右腕で狼の頭を撫で始めた。


『お兄ちゃん……』


 優しく頭を撫でられた狼は顔を亮人の方へと涙を浮かべた瞳を向けて来ていた。


『寂しかった……凄く寂しかったよ、お兄ちゃん……。あれからずっと私、一人で生きてきたから……』


 涙を浮かべている金色の狼。金色の狼の頭を撫でていた亮人の視線は、逞たくましい身体でいる金色の狼の全身へと向けられる。

 亮人の視線が向いた場所。そこには無数にある裂き傷や打撲の跡。まだ、生新しい物もあった。それは、まるで他の何かに襲われたような傷跡は痛々しく、生きていくのも大変だったんだ、と頭の中で考えた。


「それよりも……君はどうして俺の事を知ってるのかな? 俺は君の事を知らないんだよね……申し訳ないけど」

『えっ……お兄ちゃん、私のこと覚えてないの? 確かに一週間しか一緒に遊んでなかったから仕方ないかもしれないけど……それでも……四歳だった私が覚えてたんだよ?』


 亮人の隣を歩いていた金色の狼は亮人の歩調から何歩とズラしていき、歩く事もせずにただ廊下に佇んでしまった。

 そんな金色の狼は少しずつ金色の狼の姿から半人半獣となり、それから完全な人間の姿へと姿を変化させた。

 狼の姿は人間へと変わったことに驚いた亮人だが、そんな亮人の目の前にいるのは金髪が肩まで伸びた中学生くらいの女の子。真紅の瞳には獣のような縦に長い虹彩。犬歯は狼の面影が残っていて、少しだけ人の犬歯よりも長い。まだ幼い事もあって、成長途上の胸は少しだけ実ったと感じで、雪女のように柔らかそうであっても、やはり雪女のほうが胸の成長していることもあって亮人の情を揺さぶられることはなかった。

 それと亮人の目の前にいる金髪美少女は狼から姿を変えたこともあってとても大変な状態で廊下に立っている。


「そんな格好でいられると俺的に困るから……これでも羽織ってくれる? 寒いだろうし……お願いだから、ね?」


 制服のブレザーを脱いだ亮人は後ろに立ち止まっていた金髪の彼女へとそっと、優しく肩へと掛けた。

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