第112話 フィオレンツァ・フィネガン
渡辺の体調は最悪だった。
肺が圧迫されて呼吸はままならず、右腕は筋肉が断裂、骨は折れ全体が内出血を起こしていた。しかも、『
普通の人間なら、とっくに倒れてもおかしくない状態。
それを、渡辺はマリンたちを助けるという義務感だけで耐えていた。
もはや、冷静な思考ができているのかも怪しい脳みそで、渡辺は新たに現れた人物を分析する。
……ドレスに華奢な手。武闘派とは思えない。なら、コイツの能力は魔法の可能性が高い。それなら、一気に距離を詰めて仕留めるべきだ。
「あなたの名前を教えていただけませんか?」
けど、後ろには銃使いの女もいる。直線的な動きじゃ、アイツに撃たれる危険がある。
「……? あのー、聞こえてますか?」
ここは初めみたいに、出鱈目な動きで相手を翻弄するのが得策か。
結論を出した渡辺の脚に力が入り、
「……そうですか。今のあなたはソレしか見えてはいないのですね」
飛び出した。
「『止まりなさい』」
渡辺が転ぶ。
ッ!! 何だ?! 足が! いや、足だけじゃない、体全体が動かねぇ!
纏っていた風も消え、うつ伏せのまま動きを止めた渡辺へフィオレンツァは緩慢な歩みで寄った後、両膝を曲げて正座する。そして、指先でそっと渡辺の頬に触れる。
こんなときでもなければ、シルクのような艶のある感触に胸を高鳴らせていたかもしれない。だが、今の渡辺にとっては、屈辱以外の何者でもなかった。
舐めやがって!
渡辺が額に血管を浮き上がらせた。
すると、徐々に手足に力が入り、上体が起き上がりかける。
「『怒らないで。今はリラックスして眠りなさい』」
なっ!!
ガクンと全身から力が抜け、全く湧いてなかったはずの眠気が一気に襲ってきた。
コイツが言ったことに身体が従ってる?!
クソ!……寝てなんていられないのに!……瞼が重い……。
次第に狭まっていく視界の中、フィオレンツァの翠玉色の瞳が目に映った。キラキラと輝くそれは宝石と同じに見え、光を通して全てを見透かしているかのように思えた。
「『大きな怪我をしているんですから。安静にしなくてはいけませんよ』」
渡辺の目がトロンとし始める。
その渡辺の頭をフィオレンツァは自分の膝の上に乗せた。ふんわりと芳しい香りが渡辺の鼻腔をくすぐる。
……ダメだ……全く逆らえない……どうして……。命令に……身体が嫌でも従う……これはまるで……主人からパートナーに対する絶対命令権……。
渡辺が、目を閉じた。
「ふふふ、可愛い男の子」
フィオレンツァが膝の上で眠る渡辺の頭を、優しく撫でる。
そこへ、エメラダがやってきて、渡辺に魔法石による『回復魔法』を施す。
渡辺の様子から『回復魔法』中毒を起こしているのを見抜いていたエメラダは、魔法での治療は最低限に、肺の孔を塞ぐだけに止めた。
「可愛いねぇ? この獰猛な肉食獣にそんな感想が言えるのはお前だけだろうな」
「だってこの子、女の子を助けるために王国を打破しようとしているんですよ。まるで囚われのお姫様を助ける王子様みたいで可愛いじゃないですか」
「私はその事実を知って、余計におっかないと思ったよ。それよりフィオレンツァ、脱獄するなんてどういうつもりだ。明日の新聞の一面でも飾りたいのか?」
「ふふふっ」
「ふふふっ、じゃない。そのニコニコ顔をやめろ……やれやれ、自分の立場を忘れてはないだろうな」
言って、エメラダは口から煙を吐いて、ひと呼吸おく。
「四代目女王」
「もちろん、わかっていますよ」
「……25年間大人しく囚人生活を送っていたお前が、急に出てくるとはな。そのボウヤに何かあるのかい?」
「何故そう思うのですか? この子と私は初対面ですよ?」
「はっ、カマトトぶってんじゃないよ。お前は昔からそうだ。全部を見通している。このボウヤはお前にとって重要な存在となる。だから、わざわざ出向いたのだろう?」
クスッ。
フィオレンツァが口元に手を当てて小さく微笑む。
それを返事として受け取ったエメラダはフッと失笑した。
「お前が何を企んでいるのか興味はあるが、カトレアから小言を言われたくはない。今はさっさと元の場所に戻れ。囚人に知られていない内であれば、看守の口に蓋をするだけで済む」
そう言って、エメラダが手に持っている狙撃銃をちらつかせ、口止めの方法をそれとなく示した。
「そうですね、そうさせていただきます」
フィオレンツァは渡辺の上体を自分の膝から下ろすと、立ち上がって来た方向へ歩き始めた。
「あ、そうそう。エメラダさん」
フィオレンツァが振り向く。
「ん?」
「煙草もホドホドにしてくださいね」
「……難しいな。何せ、お楽しみができた」
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