そこらで勘弁してください

櫻井彰斗(菱沼あゆ)

第1話 とんだ不運のはじまりです

 


 このまま、まったりと、人生、生きていければな、と思ってた――。




 そこそこ大きな会社に、なんとか入社できて、ぼちぼち仕事にも慣れてきた桐島葉名きりしま はなは、眩しい朝の光を浴びたデスクで、ペン立ての横のペペロミアの鉢に水をやっていた。


 総務部のおじさんたちはみな会議に行ってしまい、先輩たちも社内を回ったりして出払っていたので、ひとり、まったり電話番をしていたのだ。


 自分で淹れた珈琲の匂いを嗅ぎながら、ペペロミアを見つめていると、背後から、よく通る男の声がした。


「ほう。

 ペペロミア・ジェイドだな」


 振り返ると、若い男が立っていた。


 がっしりとした体躯に、仕立ての良いスーツが良く似合う。


 少し顔が濃いかな~とも思うが、かなりのイケメンだ。


 だが、彼に気軽に声をかける女子社員は居ない。


 何故なら、この男、東雲准しののめ じゅんは、この会社の社長様だからだ。


「前からそこにあったが、お前が育て出してから、急に大きくなってきたな。

 お前の仕事は、それに水をやることか」


「……違います」


 そんな莫迦な、と思いながら、葉名が言うと、准は、

「なんだ、違うのか。

 それが仕事なら、褒めてやろうと思ったんだが」

と言ってくる。


 残念ながら、違います……と思っている葉名のデスクに手をつき、准はペペロミアを眺め始める。


 すぐ鼻の先に来た准のスーツからは人工的でない、すっきりとしたいい香りがした。


 准が、

「お前、この観葉植物の名前を知ってるか?」

と訊いてくる。


「あ、えっと。

 ペペロミアだとは伺いましたが」

と言うと、


「ペペロミアというのは、種類の豊富な植物なんだが。


 これは、美しい光沢のある葉が特徴のペペロミア・ジェイドだ。


 ジェイドとは翡翠ひすいのことだ。


 だから、ペペロミア・ジェイドは翡翠と同じく、幸運をもたらすと言われている」

とその可愛らしい観葉植物を見ながら、准は言ってきた。


「社長、お詳しいんですね」


 准は少し丸っこく、濃い緑の葉を持つペペロミアを見つめたあとで、

「……幸運か」

と呟いていた。


 葉名は、


 悪王子かもしれないけど。

 格好いいことには違いないな。


 なんかすごい迫力だ……と思いながら、間近にあるその横顔を見つめる。


 そのとき、

「社長、いらしてたんですか」

と会議が終わったらしい部長たちが戻ってきた。


「今、ご報告に伺おうかと」

と言う兼平かねひら本部長に、わかった、と言って、准はそのまま行ってしまう。


 こちらを振り返ることもしなかった。


 先輩たちも戻ってきて、総務本部にも普段の活気が戻ってくる。


 ……あー、なんか緊張した、と思いながら、葉名は少し冷めた珈琲をすすった。


 准が若くして社長をやっているのは、グループの創業者一族の息子だからだ。


 幼い頃から利発だったという准は、本家の直系ではないものの、曽祖父に可愛がられており、本当は、もっと大きな会社を任されるはずだったらしい。


 だが、何故か准はそちらを断り、此処に来た。


 准が受け持つはずだった会社は直系のボンクラ息子が受け継いだが、様々な悪条件が重なり、一気に経営が悪化した。


 それで、准は事前に、業績が悪化しそうな、なにかの情報をつかんでいたのに黙っていたのではないかと噂になり。


 その絶対的な容姿も相まって、一族の人間や、グループの役員たちの間で、悪王子あくおうじと呼ばれるようになったそうだ。


 でも、悪だとしても、社長がこの会社の業績を上げたことは確かなようだけど、と思いながら、葉名は、幸運をもたらすとその悪王子に言われたペペロミアを見つめる。


「君と居ると、いいことあるんだってさ」

と笑い、葉名は、そのつるんとした葉の先端をつついたが。


 これが幸運どころか、とんだ不運の始まりだった――。






 三日後、葉名は秘書室長の印鑑をもらいに、社長室のあるフロアに上がっていた。


 此処、緊張するんだよなー、と思いながら、社長室とつながる秘書室のドアをノックした。


「失礼します」

と入ると、定年間際の秘書室長、浅田と秘書の三浦涼子みうら りょうこがこちらを見た。


 二人は何故か顔を見合わせ、涼子が、

「ナイス、桐島っ」

と声を抑えて言ってきた。


 今でこそ、しとやかな美人、と言った風情の涼子だが。


 学生時代は、バスケで特待生だったという体育会系の人だ。


「お茶っ、社長室。

 会長っ。


 お茶っ」

とキーボードを叩きながら、涼子は単語でしゃべってくる。


 なんだかわからないが、相当急いでいるようだ。


 涼子はノートパソコンを打ちながら、プリンターからなにかを刷り出し、それを恐れ多くも浅田室長がステープラーで止めていた。


 大きめの文字で刷り出されたそれを見た葉名は、ははあ、会長用の資料だな、と気がついた。


「いきなり来て、すぐなのよっ」

と涼子はパソコンの画面を見たまま、言ってくる。


 どうやら、いきなり来た会長が、此処へ来るなり、なにかの資料を出せ、と言ってきたらしい。


 昔気質むかしかたぎの人なので、データで渡すので、見てください、という訳にもいかないようだ。


 今、秘書に他の人は居ないし、涼子は手が離せない。


 浅田室長にお茶を出させるわけにもいかない。


 それで、葉名にお茶出しを頼んで来たようだった。


「あんた、いつも、スーツ。

 ラッキー」

と忙しい涼子は、またも単語でしゃべる。


 そして、そのまま、もう口は聞かずに、お茶セットがある窓際の棚を一瞬、指差してきた。


 たまに秘書の手伝いはするので、だいたい勝手はわかっている。


「了解です」

と言って、葉名はお茶を淹れ始めた。


 総務とは言っても、ブラウスにスカートくらいの軽装の人も居るが、新入社員の葉名は何処まで着崩していいのか、まだ判断がつかないので、入社するとき買った五着のスーツを着回していた。


 そんないつもスーツ姿の葉名が来たので、会長の前にも出せる、ラッキー、と涼子は言いたいようだった。


 お盆を手に社長室の重厚なドアを叩こうとすると、プリンターから落ちた印刷物を拾いながら、涼子が、


「桐島、転ばないでよっ」

と幼児に言うようなことを言ってくる。


 浅田も慣れない作業の手を止め、振り返ると、


「なにかしでかしたら、自分でどうにかしようとせずに、すぐに言ってくるんですよ」

と言ってきた。


 ……ありがたいけど、めちゃくちゃ信用ないですね、私、と思いながら、葉名は、ドアをノックする。


「入れ」

と悪王子、じゅんの声がして、どきりとした。


 そうか。

 社長も居るよな、当たり前だけど、と思いながら、失礼します、と頭を下げて葉名は入る。


 広い社長室に入ると、辛子色の羽織姿の会長が上座のソファに座り、目を閉じていた。


 その前に座る准も難しい顔をしている。


 なんだろうな。


 なにか困った案件でも? と思いながら、壁際にあるサイドテーブルにお盆を置く。


 だが、お茶をお出ししようとして、気がついた。


 准たちが居るガラスのローテーブルの上は物がいっぱいで、お茶を置く場所がない。


 困ったな。


 此処には置けないな。


 ……濡らすとまずいだろうし、写真だしな。


 何故かテーブルの上には女性の写真がたくさん並んでいた。


 見合い写真風の物もあるし、普通のスナップもある。


「早く選べ、准」


 まるで、神経衰弱で、どれをめくるか迷っている子どもに言うかのごとく、会長は言う。


 いや、しかし―― と准は渋い顔をして言う。


「誰でもいいんだ、結婚しろ。

 この中のお嬢さんたちなら、間違いはない」


 他人が見て、間違いのない相手だと思う相手は、往々にして間違いなような気がするが、と思いながらも、葉名は黙って、准を見ていた。


 写真を眺めている准が顔を上げたら、お茶をどうするか、指示を仰ごう、と思ったのだ。


 そのとき、ふっと顔を上げた准が、こちらを見た。


 なんだ、お前か、という顔をする。


 はい、お前です、と思いながら、

「社長、お茶を――」

と葉名が言いかけたとき、准が言った。


「誰でもいいんですよね?」


 会長に確認するように准は、そう訊く。


「ああ、此処に居るお嬢さんたちなら誰でもな。


 この間も言われたんだ。

 お前は放っておいたら、結婚しそうにないと。


 血脈の続いていくような人間でなければ、のちのち揉めるから。

 私の跡を継ぐ者は、ちゃんと結婚――」


「じゃあ、彼女にします」

と悪王子は会長の話が終わらないうちに、葉名の腕をつかみ、言ってきた。





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