第133話 末は博士か大臣か、でも最強はお嬢様
他人の美談を賛辞してはいけない
自分の功績を大きく見せてはいけない
他人の欠点を哂ってはいけない
自分の欠点を理由にしてはいけない
ふと、もし自分が家訓とかそういう類の物を作るとしたらどんなものだろうと思い浮かべてみた
”他人の失敗を笑い話にできるくらいにユーモアのセンスがないなら、その場に居ない人の話をしてはいけない”みたいなことが、ふと頭によぎった
欠点を哂う事と、失敗を笑い話にする事は全然違う
”さとうさんを さいとうさん って間違ったのは仕方ないさ、砂糖を塩と間違ったわけけじゃないんだからさ”
うーん、どうだろう、あまりセンスがある言い方じゃないかもしれないけれど、単純なミスによる失敗なんて、誰にでもあるんだよ、ここは笑ったすまそうよって精神は、みえたかしら(これは僕の創作ね)
石巻の”いしまき”って、言い間違えた”かの人”の失敗を笑い話にするならば、”彼は震災があったとき、日本にいなかったのさ。きっと安全な場所で海外のニュース番組でも見てたんだろう?”
いかん、いかん、これでは皮肉になってしまうか
いや、どうせだったら、”ニュース番組”ではなく、”応援している議員の心配ばかりしていたんだろう”くらいまで行くと、笑えるんだろうけど、これって自分に唾を吐くようで、どうにも残念でならない
さてさて、今は昔
僕らが子供の頃には、”末は博士か大臣か”なんて言葉がありまして、優秀な子どもには、そういうものになってもらいたいという”純粋な願い”でもあり、あるいは”がり勉”と呼ばれるような勉強だけできる子供に対する揶揄の意味も多少含まれた、とてもセンスのある言い方だと僕は思うのです
つまり今も昔も大臣や博士なんていうものは、大変地味で、しんどい仕事なわけで、子供の夢といえば、プロ野球選手や飛行機のパイロットになること、女の子は”お嫁さんになる”っていうことになるのでしょうかね
1954年に公開された映画『ゴジラ』を5~6年前に見直してみたときに気が付いたんですが、この中で大臣も博士もなんというか、あまり役に立っていないんですよね
それは『シン・ゴジラ』でも踏襲されているんですけど、『ゴジラ』のような想定外の怪物に対抗できるのは、アウトロー、反社会的なマッドサイエンティストであり、その彼を動かしたのは、彼の片恋相手であり、そのことを知っていて利用してしまうお嬢様という、ある意味大衆が敬遠するようなパーソナリティを持った人なわけです
『ゴジラ』の監督、本多猪四郎の作品はどういうわけか、このような登場人物が中心に話が進むのですが、まぁ、その話はまた何かの機会にするとして、昭和29年・・・つまり戦後10年の世界で描かれている国会の風景は、今の国会の与党と野党のやりとりみたいなものが、そのまんま描かれていることに大きなショックを受けるわけです
人の営みは、今も昔も変わらない
変わらないということは衰退だって話もありますが、人も組織も社会も劣化するってことに関しては、人類の歴史がそれを証明しています
だからこそ、戦争という緊張が人類には必要なのだという、田中芳樹が好きそうな悪役のセリフもまた、人類社会を俯瞰で見た際の一面であることに、僕は異を唱えませんし、だからこそ人は神を必要とするわけなんですけど、もちろん、ここで宗教論を議論するつもりもありません
ただ、神もゴジラも変わらないとしたときに、畏れ、敬う事を忘れた人には、まぁ、天罰とかそういうものが下るものだと思うわけです
仏の顔も三度までと申しますが、そんなはめにならないように、最初の4つの訓示にあとひとつ加えるのであれば
”自分だけの神を持て”
ですかね
つまり、”常に俯瞰で自分を観るように”と言う昔から言うところの”お天道様が見ている”ってやつですね
そういうものを失った時、足元の穴や小石に気付かずにぶっ倒れるものなんですよ
人も組織も、国もね
ではまた次回
虚実交えて問わず語り
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