第九部 第1話

 一か月遅れで転入してきたそいつの名前は鳥山烏とりやま・からすと言った。

 ちょっと前まで中学生だったクラスメートはその異物感を早くに感じ取り、いわゆるいじめ行為に走った。背も小さめで女子より小さな鳥山は男子にも女子にも嫌われていた。かと言って女子のケンカキックを見るほどの落ち度はないと思っていたし、鳥山本人も耐えるばかりだったので秋にはすっかりいじめられ役になっていた。俺も乙茂内もそれはどうかと思ってはいたが、迂闊に手を出せばこっちに火が回るので何とも言えない気分で今日も詰め寄られている鳥山を眺めているばかりだった。

 彼女がそれを、目にするまでは。

「ほいよーっと」

 いつものように教室の裏で蹲って蹴られている鳥山に踵落としを食らわそうとしていた男子に、逆に踵落としを食らわせたのは、意外と身体の柔らかい百目鬼先輩だった。

「高校生にもなって馬鹿なことしてんじゃないよ。小学生かよ」

「げっ百目鬼……先輩」

「カラスに見付けられたカタツムリみたいな顔するんじゃないよ、みっともない。さて立てるかい? 鳥山君とやら」

「は、はい」

 まだ声変わりもしていなくてそれこそ小学生のような鳥山は包帯だらけのその手を取って立ち上がる。それから百目鬼先輩は俺と乙茂内の方にやって来て、ファイルを一部ずつ置いていった。いわゆる学祭の資料で、同好会も一つは展示物を出すように、というお達しだった。つっても俺達の根城にしている地学準備室にあるのは東西冷戦の続いていた頃の地球儀と怪しい血のりが付いた釘バットぐらい、あとはこっそりどうやってか運んで来た小さな冷蔵庫ぐらいのものだ。さてどうしよう。思っている俺の袖を、くいくい、と引っ張る気配がする。ん、と顔を上げると、佇んでいたのは鳥山だった。

「どした? 鳥山」

 ごく自然に話すと、教室がざわつく。鬱陶しい。

「さっきの包帯の人、知り合い?」

「まあ部活が同じ先輩になるかな。知らないのか? 百目鬼耳目とか、百目鬼地獄とか、訊いたことない?」

「ない……」

「あの人情報屋やってるんだよ。どんな生徒も弱みは一つ持ってる感じ。だから近付きすぎると危険だ。まあ基本的には良い人だけどな。たまに男子も殴ったり蹴ったりする。女子には噂戦略でハミにしていく。怖い人だよ、いや本当。まあ逆鱗に触れる事さえなければ、基本的には無害だよ」

「部活って? 空手とか?」

「いや……まあ詳しく知りたかったら明日の昼にでも地学準備室に来てみてくれ」

「? 解った……あの、ありがとうって、言っておいて欲しい」

「りょーかい」


 果たして次の日の昼、そーっと地学準備室のドアをスライドさせたのは鳥山だった。最初に気付いたのは百目鬼先輩、サツマイモのパフェを食べ終わったところだった。おや、との声に俺と乙茂内は振り返り、三つ目の稲荷ずしを食べていたキツネさんはきょとんとする。

「鳥山君じゃあないか。どうしたんだい一体。昨日の礼も彼氏希望も入部希望も間に合ってるよ、一応」

 だから入部希望は間に合ってないだろうと言うのが俺の口から出て行かない本音なのだが、言っても無駄なので喉で滞留させておくだけにする。必要だろうって。ここ同好会で正式な部じゃないんだから。先生方にも得体の知れない部で通ってるんだから。偏差値高めの奇妙な団体って。百目鬼先輩も十番以内はちょくちょくだし俺と乙茂内もまあ三十番以内だ。学年三百人中。そしてキツネさんは不動の一位。もはやいないものと思われているほどの一位。

「あの、違って」

 ドアを閉めた鳥山は、おずおずとしながらその手に柔道着を持っていた。

「身体が柔らかくなる方法、教えてください!」

 それは割と意外で女子三人は盛大に吹き、俺は呆気に取られた。

「その、昨日みたいに助けてもらうばっかりじゃだめだと思って……あんな踵落とし出来たら少しはいじめられないかと思って。だから柔軟体操を教えて欲しいんです。お、お金は払います! 百目鬼地獄はネットワークだからお金を払わなきゃ動いてくれないって聞いたので、柔軟体操も情報だと思って」

 存外きちんとした奴だった。ポケットの財布から千円札を出そうとしているのを見て、慌てて百目鬼先輩が止める。珍しい慌て方だった。こういう正攻法に弱いのかもしれない、案外。

「柔軟体操ごときに千円はもらえないって! それに君の身長じゃ踵落としじゃなく金的になるよ! とりあえず着替えて、この部屋案外埃っぽいから制服じゃ真っ白になっちゃうよ」

 えっと顔を赤くした鳥山はきょろりとこっちを見た。あー。一応男の子だもんなあ、女子の前で着替えは恥ずかしかろう。

「キツネさん、百目鬼先輩、乙茂内、ちょっと外に出てやって」

「あらどうして? とり君は何も言っていないじゃない」

「そーだよ哮太君。どして?」

 素で言ってるから困ったもんだ、この人達は。

「とにかく出る! ハリーアップ!」

 くすくす笑うキツネさんたちを追い出して、俺は着替え始めた鳥山に問う。

「なんで柔軟体操なんだ? 鳥山」

「身体が柔らかかったらみんなの攻撃受け流せるかなって……教室じゃ部活で習う受けもあんまり役に立たないから」

 リノリウムと畳じゃ大違いだろうからなあ。鳥山柔道部だし、これでも。それはまだ理解できる。しかし。

「なんで百目鬼先輩なんだ? テレビとかでもやってるだろ。動画配信もあるだろうし」

「僕学校でいじめられてる時間が多いから……学校で出来る訓練って考えたら、あの綺麗な踵落としが鮮やかだったから。そんな理由じゃ駄目、かな」

「着替えを許したってことはオッケーってことだろ。まあ初歩中の初歩と、逆鱗用の極端なパターンしか教えてくれないだろうけどよ」

「……犬吠埼君は、普通に話してくれるんだね、僕と。何で?」

 何でって。

「クラスメートに敬語使ってどうすんだ」

「そうじゃなくて」

「ま、俺の場合はこの部で揉まれたってだけだよ。下らない事に幾つもぶつかってると慣れるんだ。本人に取っちゃくだらなくないことは解ってるんだがな、沸騰しきらん。そう言う時は無視する。お前の事もそうだったが、百目鬼先輩に気に入られたお前なら、多分大丈夫だろう」

 ギュッと帯を締め終わったところで三人を呼ぶ。


 鳥山の関節は割と柔らかい方で、足を広げるのもそこから伏せて床に胸を付けるのも簡単だった。ふむ、と鼻から息を吐いた百目鬼先輩は、これは応用編の方が良いね、と呟く。が、その前に。

「良いかい鳥山君、あたしがあんたに教える技は人を傷つける技だ。傷付けられまくってた君に与える応報の技だ。そこはちゃんと覚えておくように。良いかい? でなかったら探偵部は二度と君を助けない。ただでさえこういう人助けは例外なんだからね。オーケー?」

「はいっ」

「ん、元気が良くてよろしい。まずは――」

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