【16】血風
森を渡る風がさらに冷気を増していく。
触れただけで気力が萎えてしまうような――澱んだ気を伴っている。
やがてそれらは、森の木々の影から姿を現わした。
風に漆黒のマントをはためかせ、見覚えのある白い儀礼用の式服を纏った者達だ。その数、ざっと二十名ほど。
「神殿騎士……何故ここに」
リセルは森を踏み越え、こちらへ歩いてくる騎士達の姿を凝視した。
けれど彼等の歩き方はどこかぎこちなく、顔色も青ざめ生気を感じられない。
まるで人形が歩いているみたいだった。
「リセル、気をつけろ。奴らは……」
隣でルーグが銀の剣を抜き放った。白銀の刃が日光に反射して、先頭を歩く騎士の顔を明るく照らす。それを見てリセルははっと我に返った。
長い金髪の騎士は額を割る大きな傷跡があった。眼孔は落ち窪み、そこから血の涙が滴り落ちていた。
その隣を歩く痩身の騎士は、右腕がありえない方向へ捻れていた。肩を脱臼しているのか、腕の長さが左右違う。
そして、今にもつまずくのではないかと思うほど、不安定な歩き方をする騎士達の首には光るものがぶら下がっていた。それはルーグも身につけている、あの銀の剣を象った小さな首飾りだ。
「まさか……この騎士達……」
リセルは奥歯を噛みしめ、ぐっと両手を握りしめた。あまりのおぞましさに吐き気が込み上げ、同時に怒りで体が震えるのがわかる。
彼等は六日前、大神殿の崩落に巻き込まれて死んだ『神殿騎士』達であることに間違いない。
彼等はリセルが焼いた森を通り抜け、真直ぐにこちらへ歩いてくる。森が焼けたせいで聖なる森の結界は、ひびが入った硝子のように脆くなってしまったのだろう。
ひやりとした風に乗って、濃厚な血の臭いが漂ってきた。
「わざわざ迎えに来てくれたようだぞ。リセル」
「……それは、不要だ」
リセルは右手を上げて聖炎の王・ギムレーの力が宿る業火を喚び出していた。
死してなお安息を与えられない騎士達の魂を憐れむからこそ――。
『全てを灰に。肉体の檻から今、魂を解き放つ……!』
リセルは『
彼等の身体を跡形もなく燃やし尽くすようにと。
浄化の炎で送ってやらなければ、彼等は永遠に安息を得られない。
リセルは躊躇いなく右手に宿った炎の力を騎士達に向けて放った。一瞬の内にそれらは騎士達を包み込んで炎上する。金と緋の入り交じった光の中で、炎に包まれたまま騎士達は歩き続けていたが、やがてそれも激しい熱に身体が灰となり、崩れ落ちていった。
生き物の焼かれる臭いと煙にリセルは口元を覆った。
ギムレーの炎に死者を愚弄するルディオールへの怒りがこめられたのは否定しない。
ルディオールの力で偽りの生を与えられた、神殿騎士たちの骸は灰燼と化した。今は靄のように立ちのぼる煙だけが、彼等の存在を唯一示しているばかりだ。
けれどリセルとルーグはその靄の向こうに、大きな力を持った何かがたたずんでいることに気がついた。
「何者だ」
「折角お前を迎えに来たのに、その騎士達を焼くとは何事です。リセル」
「なっ……」
靄の向こうには白い馬に乗った金髪の女性が佇んでいた。女性は緋と金糸をあしらった豪勢な神官の長衣を身に纏い、肩から真紅の布を羽織っていた。エルウエストディアスの神官を統率する者――『
リセルは馬に乗った女性を見つめたまま愕然と立ち尽くしていた。
そして、自分が今見ているものが、幻であることを切に願った。
「リスティス=アーチビショップ」
その名をつぶやいたルーグの声に、リセルは両手を握りしめて絶叫した。
ルーグの声は僅かなリセルの希望をあっさりと打ち砕いたのだ。
「嘘だ! こんなの……嘘だ」
リセルを見つめる母リスティスの目は、纏う神官服より鮮やかな紅に光っていた。それはあきらかに彼女も騎士達と同じように命を失い、ルディオールに身体を支配されている証だった。
リスティスは静かに馬を降りて、こちらへと歩いてきた。肩掛けの上でゆるやかに波打つ金色の髪が、生前の彼女を思い出させるかのように神々しく輝いている。
リセルはその場から動けなかった。
両目を見開いたまま、リスティスが近付いてくるのを見ているだけだ。
「リセル、しっかりしろ」
ルーグがリセルの肩を掴んで正気付かせようとした。
だがリセルは開いた口から何も言葉が出ず、死してなお自分の手駒として母を差し向けたルディオールへの怒りよりも、深い悲しみに突き落とされるのを感じていた。
見開かれたリセルの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
母リスティスはもうここにはいない。
あれは母の姿をしているが、母ではない――。
頭ではわかっている。
もたもたするな。
騎士達と同じように、彼女もまた聖なる炎で焼き清めなければ、いつまでも彼女の魂は肉体から解放されず苦しむことになる。
「リセル。どうしたの。そんなに辛そうな顔をして」
リスティスは両手を広げ、リセルの顔を覗き込むように首を傾けた。
「私と一緒に来なさい。リセル。そして『あの方』に仕えるのです。アルヴィーズさえいなければ、私達は普通の暮らしに戻る事ができる。ルディオール様がアルヴィーズを神界から引きずり下ろせば、わざわざ民の為に召喚を行わずとも、あの方がこの地をずっと守って下さるのよ」
リスティスの言葉は毒の入った蜜酒のようだった。
リスティスはまた一歩、リセルの方へ近付いた。
「リセル! 何をしている。早く魔法で彼女を解放してやれ」
ルーグが銀の剣を構えリセルの肩を揺さぶった。
「母さん。わたしは……」
リセルはかろうじて上げた右手をだらりと下ろした。
死んだのならもう眠っていて欲しかった。話しかけないで欲しかった。
目の前に現れないで欲しかった。生きている時と同じ姿と声色で。
リスティスはもう手を伸ばせば触れられるほど間近に近付いていた。
ルディオールと同じ真紅の瞳が、リセルを捕らえるために妖しい光を帯びる。
リスティスの青白い手がリセルの喉元に向かって伸びたその時。
「わたしには……できない! ルーグ!」
ルーグはリセルの身体を後方へ突き飛ばし、手にしていた銀の剣でリスティスの首を刎ねた。
が、リスティスの首は地面に落ちるどころか、赤い筋が一瞬付いたかと思うと、すっと傷が消え失せた。
「何……!」
リスティスは白い指を首に当てながら、赤い唇に笑みを浮かべた。
「生憎だったな。神殿騎士」
ルーグの右手から銀の剣が滑り落ちて足元の地面に突き立った。
ルーグに突き飛ばされたリセルは身を起こし、自分を庇うように立つルーグの背中を見て呆然とした。
翻った漆黒のマントから、血濡れたリスティスの左手が突き出ていた。それはルーグの胸を深々と貫いていたのだった。
けれどルーグはリスティスを睨み付けていた。その瞳の奥――彼女を操る者へ自分は屈しないといわんばかりに。リスティスは興味深気に目を細めた。
「……貴様……どこかで」
「ルーグ!」
リスティスはルーグの肩に右手を回し、抱き寄せるような格好で、ルーグの胸から左手を抜いた。支えを失ったルーグは膝を付き、地面にそのまま倒れ臥した。
「ルーグ! ルーグ!」
リセルは倒れたルーグの所に駆け寄ろうと立ち上がった。
だがリセルの視界には、いつか見た黒い稲妻が迫っていた。
それはルーグを巻き込むほどの質量で避ける暇などない。
リセルは右手を伸ばし、ルーグの背に覆い被さりながら、アルヴィーズより託された剣が宿る掌でそれを受け止めた。
心臓の鼓動が止まりそうなほどの冷たい衝撃がリセルを襲う。黒い稲妻はそれを防ごうとしたリセルの力と
「……くっ……」
リセルは痺れて感覚を失った右手をだらりと落とした。
アルヴィーズは自分の力を剣に変えて、ルディオールを封じるためにリセルに託してくれたはずだが、何故か今はその力を引き出す事ができなかった。
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