【13】神々の夢
リセルは夢をみていた。
夢の中でもリセルはルーグと一緒にあの巨石の間にできた空洞の中にいた。
ルーグはいつもと同じように銀の剣を大事そうに小脇に挟み、背中を岩に寄りかからせて眠っている。
だがリセルは空洞の外が薄ら明るいことに気付き、誘われるかのようにそちらに向かって歩き出した。外は青い空に細い銀の月がかかり、しんとした静寂に包まれていた。自分の息遣いさえも聞こえるような、恐ろしいまでの静寂。
リセルは青い闇に包まれる前方の「聖なる森」に向かって歩き出した。
話し声が聞こえたような気がしたのだ。
「どうしても、そなたはここに残るというのだな」
「はい」
森の木々の間から金色の光が放射線状に輝いていた。
その光の中で、二人の人影が浮かび上がっている。
そこは星々を敷き詰めたように輝く美しい水辺だった。
金色の甲冑と白銀の衣をまとった金髪の女性が、緑の苔蒸した岩の上に佇んでいる。
彼女からは、ありとあらゆる命を萌えさせる生命力に満ちた、思わずその場にひれ伏してしまうような圧倒的な存在を感じた。
一方、女性の側に跪いているのは、狩人のように質素な衣を身につけた青年だった。青年は長いセピアの髪を新緑のマントを纏った背に流し、水面のように静謐な雰囲気を漂わせた不思議な光彩の目をしていた。一見人間のように見えるが、彼もまた山を素手で動かす事ができるような、大きな力を内に秘めている。
「そなたは
女性は白い面を曇らせ、真昼の空のように鮮やかな青の瞳を悲し気に伏せた。
「申し訳ありません。ですが、誰かがこの地に降りて、もう一人の『あなた』を見守らねばなりません」
青年は俯いていた顔を上げ、金色の光の化身のような女性に真直ぐな視線を向けた。
「アルヴィーズ様。あなたが神界 の戦を鎮めるために、払った代償は大きなものでした。自らの半身を切り捨て、迷いを断ち、自分を変えねばならなかったのです。その痛手に比べれば、私が地界に降りることなど大した事ではありません」
「だがそれは、そなたが
「構いません」
青年ははっきりとした口調で答えると、静かに立ち上がった。
森を見回し、星の光を受けて輝く水面を眺め、清涼な風を感じるように大きく息を吸った。
「あなたが神界の戦を終わらせる決断をしたのは、あなたが育んだこの美しい世界を護るため。この地に降りてよくわかりました。ここはあなたの……」
青年は薄い青にも濃い青にも見える瞳を細め、少し悲し気につぶやいた。
「『半身』を切り捨てる前の、優しいあなたを思い出す。私はそれがとても愛おしい」
アルヴィーズの彫像を思わせる横顔が憂えるように歪んだ。しかし彼女が見せた動揺はほんの瞬きをする間だった。アルヴィーズは再び毅然とした表情に戻っていた。
「エレディーン」
青年は頭を垂れた。長いセピアの髪が肩から音もなく流れ落ちた。
「私がここに留まる理由はただ一つ。けれど、神格を失った私は人となり、常命の定めに従わなければなりません。ですが、人と交わる事で私の血脈は受け継がれ、この地を守り続けます。『監視者』として」
リセルははっと息を飲んだ。
顔を上げた青年が何かを感じたかのように、リセルの方を見たような気がしたのだ。
いや青年は、どこかで見た事がある表情でリセルをじっと見つめていた。その目にはリセルを包み込むような優しさと、絶対に抗えない大きな力が宿っていた。
『迷いがあると、お前は『彼奴』に飲み込まれる。己の弱い心と向き合い受け入れるのだ。それは、恐ろしい事ではない。我が血脈に連なる者よ』
◆◆◆
リセルは誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。
辺りはぼんやりとした金色のかすみに包まれているようだった。
何度か瞬きをするとそれは夢の残り香のように消え失せて、そこは真直ぐな幹をした木々が生い茂る森の中だった。
頭上からは木々の葉の間から朝の柔らかな日差しが差し込み、足元に流れる小さな清流がきらきらと水面を光らせていた。絨毯のように岩を覆う苔の緑が眩しい。リセルは目眩を感じて眉間に右手を当てた。
「リセル!」
「……ルーグ?」
リセルは後方から響いた若い男の声に振り返った。
肩まで伸びた黒髪と黒いマントを翻し、腰に銀の剣を携えたルーグが、リセルの姿を見つけて木々の間から姿を現わした。
「こんな所にいたのか、お前!」
がらにもなく動揺の表情を見せて、ルーグは安堵したかのように口元をほころばせた。
「明け方目が覚めたら、お前がいなくなっていたから驚いたぞ。こんな所で何をしていたんだ」
リセルは黙ったままルーグの顔を見上げた。
「夜中、わたしも目が覚めたんだ。ただし夢の中で。いや……夢の中と思っていたんだが、気付いたらここにいた」
リセルは戸惑いを覚えながらルーグに訊ねた。
「お前は本当に本当のルーグか? わたしはまだ夢をみているのだろうか」
ルーグはぎょっとしつつ、「大丈夫か?」と言わんばかりにリセルの顔を覗き込んだ。そしておもむろに右足をあげるとリセルのむこうずねを軽く蹴った。
「痛い!」
リセルはよろめいて、苔蒸した岩の上に尻餅をついた。
もう少しで川に落ちる所だった。
「ルーグ! 一体何をする!」
リセルの中で何かが弾けた。
睨み付けるようにルーグを見ると、彼は胸の前で腕を組んで笑っていた。
「いや、眠気を振り払う方法をお前から教わったから、それで起こしてやったまでのことだ。効果は私で実証済みだから『てきめん』だろう?」
リセルはルーグを怒鳴り付けようとしてそれをぐっと堪えた。
悲しいかな、骨に直に伝わるこの痛みのせいで、ふわふわとした夢の感覚は完全に消え失せた。それは確かだ。
リセルは立ち上がって服についた苔と泥を落とした。そしてむっとしながらもルーグに向かってつぶやいた。
「すまなかった。今まで、すねを蹴飛ばして」
「どうした。今日はやけに素直じゃないか」
「別に」
リセルはルーグに背を向けて、足元を流れる清流に手を入れた。
ひやりとして気持ちいい。
リセルは両手で水を受けてついでに顔を洗った。
「うっそうと木が茂っているだけと思っていたが、聖なる森にもこんな場所があるのだな」
リセルの隣に膝を付き、ルーグもまた清流に手を浸していた。
「夢を見た。ここで、遥か遠い昔の……神々の夢を」
「リセル」
リセルは大きく首を振った。
慌てて立ち上がり、ルーグとの距離を広げる。
「ルーグ、わたしは起きているぞ。決して寝ぼけてはいない!」
ルーグは残念そうに肩をすくめた。目が楽しそうに笑っている。
「魔法使いは勘が鋭くて困る。今までの借りを返す絶好の機会だったのにな」
リセルはルーグと距離を広げつつも、彼が昨夜巻いてやった右手の包帯を外していることに気がついた。
「ルーグ。さり気なく今手を洗って、サキキュロックの『さわやかな臭い』を落としたみたいだけど、朝食後にもう一度塗布するからな」
ルーグはそっと右手を背後に回した。
今度はじりじりとルーグがリセルから距離を離した。
「リセル、手の腫れは大分引いたし痛みもあまり感じない。もうあの薬草は不要だ」
リセルはルーグが離した距離を詰めた。
「あ」
ルーグがしまったというふうに顔をしかめる。
彼の後ろは樹齢千年を超えようかという立派な木が生えていた。大人が手を繋いで約十人ぐらいになる太い幹をしている。リセルは獲物を追い詰めた猟師のように微笑した。
「それを判断するのはわたしだ」
この後、ルーグの右手は新たにすりつぶされた薬草を塗布されることになる。
『さわやかな臭い』は、ルーグの体から暫くの間、消える事がなかった。
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