第30話 希望

「殺してはならんぞ。御渡り様を侮辱いたした罪を骨の髄まで思い知らせよ」


息も絶え絶えにひぃひぃと切れ切れの悲鳴を上げる代理人ら三人を国明は馬上から冷たく見下ろした。

藤木を乗せ、片手でがっちりと支えている。棍棒を手にした忠興が大声で呼びかけてきた。


「殿ぉ、いずれへゆかれますや」

「この者どもの穢れた悲鳴が御渡り様の御耳に入るも業腹、馬を走らせてくる」


国明の言葉に郎党達がわっと沸いた。そうじゃそうじゃ、うぬらの泣き声なぞを御耳には穢れじゃあ、と口々にはやし立てる。


「叔父貴、後はまかせた」

「おぅよ、叩きのめした後は、馬にひっくくって鎌倉の館へ放り込んでくれるわ」


国明はハッと気合いを入れ馬腹を蹴った。ガッと蹄の音も高らかに馬が駆け出す。藤木は国明に体を預けた。逞しい腕が藤木の体を抱き込んでいる。飛ぶように馬を駆けさせた。田畑をこえ、山道を駆け上がる。ぴゅうぴゅうと緑色の若葉が通り過ぎた。激しい揺れに頭の芯が痺れる。国明だけが藤木を包み込む確かな存在だ。

ふいに揺れが止まった。体がくらり、と傾くのを抱き留められる。馬から降ろされ草むらにそっと横たえられた。草の香りが濃い。ぼんやりと目をあげると、国明が馬を木に繋いでいるのが見えた。


「くにあき…」


国明が歩み寄ってきた。まだくらくらする。藤木は国明に手を伸ばした。国明が藤木に覆い被さってくる。草の香り、そして国明の匂い、藤木は国明の首に腕を巻き付けた。我知らず甘いため息が漏れた。国明の肩越しに見えるのは真っ青な空と瑞々しい桜若葉だ。明るい陽射しの降り注ぐ中、藤木は国明に抱かれた。獣のような交わりだと思った。ただ心のおもむくままの純粋な交わりだ。

草と土と、そして国明の匂い。

陽の光に包まれた交わりに後ろめたさなど微塵もわかない。互いを求める心だけで十分なのだと藤木は噛み締めていた。






「君ってさ、加減を知らないっていうか、もう、信じられないよっ」


ジャージを着せてもらいながら藤木はぶーぶー文句を言う。


「だいたい、こんなとこじゃ体も拭けないしっ。」

「怒るな。これでも夜、抱き合うのを堪えているのだぞ。」


苦笑気味に答える国明に藤木は赤面した。館では常に郎党が控えているし、夜は宿直がいる。国明なりに気を使っているらしい。国明はジャージを着せ終わると藤木を後ろから抱き込み肩に顔を埋めた。


「藤からおれの匂いがする。」

「ばっ…」


馬鹿なことを、と言いかけて藤木は口をつぐんだ。横目で見た国明がうっとりと幸せそうな表情を浮かべているのだ。


「きっ君からだって…」


僕の匂い、するでしょう、と小さな声で言うと黒い瞳が嬉しそうに細められた。


「あぁ、そうだな…」


しばらく二人は黙って抱きしめあった。それから国明はおもむろに藤木を抱き上げる。


「ちょっ、降ろし…」

「まだ歩けまい」


藤木を横抱きにした国明は坂を少し上り小高い丘の斜面に腰を降ろした。両足の間に藤木をおろし後ろから抱き込む。


「あれ…ここって…」


眼下に榎本の館が小さく見えた。その先には海がきらきらと日の光をはじいている。覚えのある風景だ。


「ここ…君のお母さんの好きだったっていう」

「そうだ、母上のお気に入りの場所だ」


一ヶ月前、桜の花の頃、国明が連れてきてくれた場所だ。あの時は小さな春の花が咲き乱れ、桜吹雪が舞っていた。藤木はぽん、と赤くなった。


「きっ君っ、おっお母さんのお気に入りの場所であんなことっ」

「ここでおぬしを抱くと決めていた。」

「え…」


藤木を抱く腕に力がこもる。


「おれはおぬしのものだ」

「…うん」


二人は静かに館を、海を眺める。優しい風が頬を撫でた。キラキラと波が陽射しをはじいて光る。


「…綺麗だね」


藤木はぽつりと言った。海は穏やかに空を映している。


「今は凪いでいる日が多い。だが、この辺りの海は秋がよいぞ」


藤木の頬に唇をあてながら国明が答えた。


「秋の海は格別の風情がある。おれは秋の海が好きだ」

「そうなんだ」

「秋にはまたここへ来て海を見よう。紅葉の頃もよいぞ」

「寒そう」

「おれがいる」


耳元にささやかれる。


「こうやっておぬしを温めてやろう」


くすくすと藤木は肩を揺らした。国明も笑う。


「茸も様々に採れる。焼いても汁にしても旨い」

「楽しみだなぁ」

「藤は食うのが好きだからな」

「うん」


藤木は国明の手に自分の手を重ねた。


「ねぇ、夏は泳げる?」


国明がわずかにためらった。


「…泳げるが…おれと二人の時だけだぞ」


おぬしの肌を曝すわけにはいかぬ、と真面目な声をだす国明が可笑しくて藤木はまた笑った。


「藤」


国明がすっと左手で下を指し示した。藤木が指さされた方を見る。榎本の館だ。


「榎本は小さい」


藤木を抱いたまま国明は真っ直ぐ館を見つめる。


「三浦党の隅で生き残るために汲々としているのが榎本だ」


藤木は黙って国明の言葉を聞いた。


「だが、おれは榎本を榎本党として独立させる。三浦党の榎本ではなく、榎本党になるのだ」

「え…でも…」


流石に藤木は驚いて顔を国明に向けた。言葉で言うほどそれは簡単なことではない。婚儀のもめ事ひとつとっても、そのくらいは藤木にもわかる。


「そんなのって…」

「難しいことだとわかっておる。だが、おれの代からはじめて数代後に榎本党となれればよい。おれはその基礎を作る」


館を見つめていた国明の目が藤木を見た。


「藤、おぬしを支えに榎本の絆をさらに固める。郎党どもにも榎本の誇りを植え付ける。それからおれは銭を貯める」

「えっ」


藤木は目を瞠った。自分を中心に据えて一族を纏める話はまだわかる。だが、この時代に貨幣経済の概念があったのだろうか。


「銭って…だってこの時代は米とか…じゃなかったっけ…」

「榎本の庄は豊かだが、それだけでは限りがある。おれは京から来た商人達から色々と話を聞いた。京では唐の銭が役にたつという。それで官位も買えるそうだ」


それってやっちゃいけないことだろうっ、と突っ込みそうになって藤木は慌てて言葉を飲み込んだ。この時代は藤木の倫理観にはあてはまらない。国明はまた指をさした。今度は海だ。


「榎本は騎馬の戦も強いが、水軍でもある。だが、これから大きな戦はあるまい。ならば戦船ではなく、荷を運ぶ船にすればどうであろう。榎本は街道沿いではないが、船で運ぶと馬よりも早い。武勇にたけた者達が乗れば、積み荷を無事に届けられよう。そうして得られたものを銭に代える」


国明の瞳は輝いていた。藤木はそれに見惚れる。


「銭を貯めて力をつける。幕府の職も買う。おれの代では無理だが、そうしていけば榎本は榎本党となれる日がくる」


どう思う?と見つめられ、藤木の胸は高鳴った。ぎゅっと重ねた手を握る。


「すごいよ、国明。きっと、君ならきっと出来る」


ごそごそと藤木は国明の方へ向き直った。


「僕、出来ること何でもするよ。あ、僕の時代のお金…つまり銭なんだけど、そのことも教えてあげるね。きっと役に立つ。国明なら絶対大丈夫だよ」


藤木は興奮していた。榎本の庄から起こす小さな変化はきっと歴史のうねりの一つになるのではないか、それに自分は立ち会うことが出来るのかもしれない。藤木は国明に抱きついた。


「国明なら大丈夫」


国明は藤木を固く抱きしめ返す。耳元に熱っぽく囁いた。


「おれのそばにいてくれ…」


海から一陣の風が斜面を吹き上がってきた。藤木の明るい髪がさらさらと散らされる。


「そばにいるよ、ずっと…」


桜若葉が風に揺れる。初夏がそこまでやってきていた。






館に戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。すでに庭は清められ、三人の人間を打擲した跡は残っていない。忠興が郎党十数人従えて三人を馬に括り付け鎌倉の館へ向かったそうだ。そこでも家の者達を威嚇するつもりなのだろう。


「板東武者の気概をみせつけてやるのもよかろうよ」


秀次から話を聞いた国明は楽しげに笑った。

その秀次が恐れながら、と板の間にスマホが置き忘れてあったことを告げた。恐ろしくて誰もスマホに触れずそのままとのこと。藤木は大慌てですっ飛んでいった。たしかアプリを立ち上げたままだったはず。


「バッテリー!!」


案の定、延々と録音が続いていたが拾い上げたスマホのバッテリー残量は変わっておらず、藤木はほっと安堵の息をつく。やはり、この世界ではいくら使っても大丈夫なようだ。それが何故なのかは全く見当がつかないが、まぁいいか、と藤木は国明の言葉の部分だけ残すとボイスメモを終了させた。


藤木は国明と昼餉を軽く取り、疲れたから、と夜具を頼んだ。流石に体がくたくただ。


「少し寝るよ」


大あくびをしながら這うように夜具へ潜り込む。


「無理をさせたな」


国明がすまなそうに微笑んだ。ぼっと藤木の顔が赤くなる。


「おれは所用で少し出てくる。控えの間に誰かおるゆえ、何かあったら呼ぶといい」


国明が藤木の髪を梳いた。


「うん、いってらっしゃい」


夜具から顔を出してにこっと笑えば、一瞬国明の手がとまる。


「う…うむ、いっいってくる」


心なしか顔が赤い。あたふたと部屋を出ていく背中を眺めながら藤木はくすっと笑った。


ほんとに、変なとこで純情なんだから。


「スケベなくせにね」


風が庭木の香りを運んでくる。数頭の馬が走り去る音がした。おそらく、国明が幾人かの郎党を引き連れて出かけたのだろう。


帰ってきたらおかえりって言ってあげよう…


藤木は微笑んだ。こんな日々を過ごしていく。これが藤木の日常になる。国明に、榎本の皆にいってらっしゃいを言い、おかえりと笑おう。国明の夢をかなえる助けになろう。どうすればいいのかまだわからないが、体も心も強く鍛えていけばきっと自分にも何かができる。そして、夢が少しずつ形になるのを国明と一緒に見ていくのだ。

ふわり、と海風が頬をなでた。ここはいつも、気持ちのいい風が吹く。


「あっ」


藤木はごそごそと夜具から這いだし、文箱を開けた。中から「教育委員会監修 郷土の歴史と文化」の小冊子を取り出す。藤木はここへ来て以来、後ろのメモ欄にカレンダーを作っていた。日記ほどではないが、その日の出来事も小さく記している。四月二十八日の欄に藤木は青いボールペンで書き込んだ。


『婚家の使者追い出される。国明の夢。山桜の丘で』


ハートマークってどうよ、と自分に思わず突っ込みをいれたが、気分はハートマークなのだからまぁいいか、とも思う。藤木はカレンダーを作ろうと決めた。この時代の暦と、自分の時代の暦を一緒に書き込んだカレンダーを作りたい。国明の側で暮らすと決めたが、自分の生まれた時代の記憶も大事にしたい。家族や友人の誕生日、健太が高校を卒業する日、大学に入るだろう日を、この時代から祝ってやりたかった。


インターハイの期間中は優勝祈願するからね。


秀峰の友人や後輩達の顔が浮かぶ。切なさが胸に満ちるが、もう涙は出なかった。


僕もがんばるから、みんなも全国制覇、実現して。


黒髪の端正な面差しが胸をよぎった。ずっと片思いだった同級生。


佐見、君の夢がかなうよう、ずっと祈ってる。


藤木は本を閉じ、文箱へしまった。塗り蓋を指で撫でる藤木の口元に微笑みが浮かぶ。それから藤木はまた、夜具に戻って横になる。外はいい天気だ。初夏の風が海と緑の香りを部屋まで運んでくる。庭先から聞こえる犬の鳴き声や人々の働く声を聞きながら、藤木はとろとろと眠りにおちていった。



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