第24話 そばにいるから

「藤っ」


雷に打たれたような衝撃が全身に走る。びくり、と藤木は足を止めた。



国明っ。


振り向かなくてもわかる。国明だ。必死で国明が藤木を呼んでいる。


「藤っ、行くな藤っ」


自分を呼び止める声、愛しい声。


「藤っ、行くなっ」


振り向いてはだめだ。

藤木はぎゅっと唇を噛みしめた。

振り向いたら、国明の顔をみたら自分はどうなるかわからない。


帰るんだ、僕は。


藤木は煌めく光の流れを見つめた。銀砂の流れに沿って歩こう、今はそのことだけを考えよう。藤木は再び足を進めた。


帰ろう。


「藤っ」


だめなんだ、国明。


「藤っ」


そこは僕の世界じゃない。僕はそこにはいられない。


「藤っ」


国明、ずっと君だけを好き…


「好きだよ、国明…」


振り向くことなく、藤木は小さく、しかしはっきりと告げた。もう藤木の声は国明には届かないだろう。だが、国明の気配がまだ感じられる。国明を感じていられるうちに、言いたかった。


「君が好き」


ちゃんと君の顔を見て言えたらよかったのに…


光の粒の流れが次第に速くなってきた。最奥の白い光に吸い込まれるように流れていく。もう、藤木は足を動かす必要がなかった。銀砂の流れが藤木の体を連れて行く。白い光はもう目の前だ。藤木は元の世界に帰る。


さよなら、もう二度と会うこともない…


「…ふじ…」


遠くに微かな声がした。


「…ふ…じ…」


聞いたことがないほど弱々しく頼りない声。



え…?



思わず藤木は振り向いた。振り向いた先には、館の庭が丸く切り取られたようにぽっかりと浮かんでいる。さっきまで藤木がいた庭だ。鎌倉時代の館の庭だ。庭先にたつ国明が見える。そして、その姿に藤木は愕然とした。


国明が泣いている…


榎本国明が泣いていた。幼子のように泣いていた。榎本党を束ねる当主として堂々と落ち着き払っている国明が、軽々と馬を操り、刀を振るう偉丈夫が、弱々しく泣いているのだ。


「な…んで…」


呆然と国明を見つめ藤木は呟いた。喉がカラカラに渇いて、声が掠れる。


「なんで…国明…」


あの国明が、何故木偶の坊のように突っ立って泣いているのだ。何故迷子みたいな顔をしているのだ。黒い瞳からぱたぱたと涙が落ちて、直垂の胸元を濡らしている。溢れる涙を国明は拭おうともしない。


「くにあき…」


藤木は国明を見つめながらかぶりを振った。


どうしてそんな顔をするんだ。いつもみたいに強引に、自信たっぷりに僕を引き留めればいいじゃないか。


国明はひたすら藤木を見つめ、ただ泣いている。いつも生気に満ち溢れ輝いている黒い瞳は、今はただ、諦めの色しか浮かべていない。置き去りにされる子供のような目だ。寂しい目だ。


「あ…」


藤木はまたかぶりを振った。


僕は帰らなきゃ…


今を逃したら、もう帰れなくなるかもしれないのだ。


「帰らなきゃ…」


自分に言い聞かせるように、藤木は繰り返す。


「帰らなきゃ…」


『御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです』


ふいに秀次の声がよみがえった。


『殿をおいてゆかれますな…』



やめろ…



体が動かない。やっと元の世界に帰れるというのに。藤木は絞り出すように繰り返した。


「僕は帰るんだ」


じっと藤木を見つめていた国明の顔に、深い絶望の色が浮かんだ。静かに国明は目を閉じる。ぱたぱたと涙がこぼれ落ちた。なにもかも諦めきった表情、国明はそのまま俯いた。嗚咽を堪えているのか肩が震えている。


「くにあき…」


今まで見たこともないほど弱々しい姿の国明…


いや、違う。

本当は知っている。当主として榎本を背負って立つ国明の中に、小さな子供がいたことを。二人きりでいるときだけ、その子供は顔を出した。無邪気で甘えん坊な国明のもう一つの顔。その子供が今、全てを諦めきって、悲しくて泣いている。


「く…に…あき…」


頭の隅で警鐘が鳴る。

戻ってはだめだ。元の世界に帰れなくなる。


「くにあき…」


鎌倉時代でずっと生きることになってしまう。



ずっと国明の側で…



「ふ…じ…」



声が聞こえた。小さな、小さな声だった。迷子の幼子が母を呼ぶような、頼りない声。肩を震わせ泣く国明。ぱりん、と音をたてて、心の中の何かが砕けた。



あぁ…



ぽかっと切り取られた庭で国明が俯いたまま泣いている。


置いていけないよ…


だって国明が泣いている。


置いていけない。



藤木の頬を一筋、涙が伝った。



榎本国明…



銀砂の流れに逆らって藤木は駆けだした。キラキラと煌めく粒子に目が眩みそうだ。いつの間にか流れは速くなっていて、足をとられる。鎌倉時代の庭を切り取った円が急速に収縮しはじめた。通路が閉じる。閉じてしまう。


「国明っ」


藤木は叫んだ。


「国明っ」


ハッと国明が顔を上げる。声が届いた。


「国明っ」


藤木は駆けた。国明は目を見開いたまま呆然としている。


「国明、国明っ」


国明の側にいたい。


藤木は走った。銀砂の流れが藤木の体を押し戻す。館の庭が遠ざかる。


時空の穴が閉じてしまうっ。


「国明っ」


光の粒子が押し寄せてきた。息が詰まる。目を開けていられない。まぶしい光の奥で国明が手を差し伸べてくるのが見えた。藤木は必死で国明に向かって手を伸ばす。バシッと何かを突き破ったような衝撃が来た。光が渦巻く。何かが手に触れた。


国明の側に…


藤木は夢中でそれを掴んだ。



くにあき…



墜落するような浮遊感を感じながら、藤木は真っ白な光の中に意識を飛ばした。

どこかで犬が鳴いている。時折あがる、男達の笑い声。頬に固い布の感触がある。


「…あいた…」


藤木は頭を振った。一瞬、意識がなかったらしい。



僕は…



はっと藤木は我に帰った。

どうなったんだ、自分は。ここはどこだ。国明は…


「国明っ」


藤木は慌てて体を起こした。


「あれっ」


目の前に国明の顔がある。藤木は国明の腕の中にいた。土の上に尻餅をついた国明の上に乗り上げるような形だ。国明はぽかんと腕の中の藤木を見つめていた。まだ頬が涙で濡れている。


「ふ…じ…?」


呆然としたまま、国明が藤木の名前を呼んだ。恐る恐る、手が伸ばされる。国明の指先が頬に触れた。信じられない、という風に、国明の唇が震える。


「…ふ…じ…」


確かめるように何度も国明は藤木の名前を呟いた。ひどく声が掠れている。


戻ってこられた。国明の側へ戻ることが出来た。ここは鎌倉時代だ。国明のいる世界だ。


今更ながら、藤木の体から力が抜けた。国明は何度も何度も、藤木の頬に触れては名前を呟いている。


「…ふじ…」


頼りない声がまた自分を呼んだ。藤木は頬に触れる国明の指に手を添えた。大きな手だ。国明の手だ。


「…うん、くにあき…」


小さく答えて頬を寄せた。


温かい…


涙が溢れてきた。目の前の国明の顔がぼやけてよく見えない。涙が止まらない。ぽろぽろと零れた涙が国明の指を濡らす。国明が体を起こして、両手で藤木の頬を包んだ。


「藤なのか…?」


まだ信じられないのか、真剣な眼差しが藤木の顔をのぞき込んできた。その頼りなげな所作が可愛くて、藤木は泣きながら微笑んだ。


「うん、僕だよ…」


国明がひゅっと息を詰める。それから、頬を包んでいた両手で藤木の顔に、髪に、ひたすら触れてきた。藤木は国明のしたいように触れさせている。しばらく、無心に手を這わせていた国明の目が大きく見開かれた。みるみる涙が盛り上がる。


「藤…」


ぱたぱたと国明の目から涙がこぼれ落ちた。


「藤…藤、藤、藤…」


後から後から、透明な滴が国明の目から溢れてくる。泣き顔が可哀想で、藤木は国明の頬に唇を寄せて涙を吸った。


「泣かないで…国明…」


泣き濡れた頬に自分の頬をすり寄せる。藤木も涙を止めることが出来ない。互いに涙でぐしょぐしょになりながら、頬を寄せ合った。


「…泣かないで…」


藤木は国明の首に顔を埋めるようにして囁いた。涙が国明の襟を濡らす。


「泣かないで…」


国明の腕が藤木の体に回される。ぎゅっと抱きしめられた。


「…ふ…」


言葉にならない。国明は藤木を抱きしめたまま肩を震わす。藤木も国明の背にしがみついた。


「国明…」


国明の喉から嗚咽が漏れた。きつく藤木を抱きしめ国明は泣く。自分も泣きながら、それでも国明を慰めたくて藤木は震える背中を優しく撫でた。


「側にいるから…」


耳元に唇を寄せて藤木は言った。


「ずっと側にいるよ…」


はじかれたように国明が身を離した。藤木の肩を掴んだまま、縋るような目で見つめてくる。


「…おれの…?」


こくり、と藤木は頷いた。国明はまだ不安そうな瞳を揺らしている。


「おれの側…?」

「うん。」


藤木は微笑み、国明の濡れた頬を拭ってやった。触れた頬が温かい。国明の体温だ。確かに自分は国明の側にいるのだ。また涙がこぼれた。


「側に…」


胸が熱くなって言葉が続かない。藤木を見つめる国明の瞳から、新たな涙が溢れた。


「…どこへも…いかぬと…?」


答えるかわりに、藤木は国明の頬に唇を寄せる。国明の目尻から零れた涙が藤木の唇を濡らした。ちろり、と舌で藤木はそれを舐める。頬に舌が触れた。そのまま頬から目元へ唇を滑らせ、口づける。


「…藤…」


国明が囁いた。耳にかかる吐息が熱い。藤木は国明の頬に、瞼に、唇を押し当てていく。国明の口からふっと小さく息が漏れた。目を上げると、間近に国明の真っ黒な瞳がある。涙に濡れた瞳は美しかった。吸い寄せられるように藤木は顔を寄せる。吐息が絡んだ。唇が触れ合う。全身に痺れが走った。


あぁ…


国明の唇は柔らかくて温かい。藤木は国明の背にしがみついた。自分から強く唇を押しつける。国明の手が藤木の項にまわされた。ぐっと抱き寄せられる。


「…ん…」


国明が何度もついばむように唇をあわせてきた。国明の唇は熱く湿っていて気持ちがいい。切れ切れに藤木の名を囁き、また唇を合わせる。二人は互いに頬をすり寄せ、下唇をはみ、舌を触れあわせた。ぬるりと熱い舌が藤木の口内へ潜り込もうとする。


「…ふ…ぅ…」


藤木が吐息をともに国明の舌を受け入れようとしたとき、廊下をドタドタと渡ってくる音が響いた。


「殿ーっ。殿っ」

「叔父殿っ、まだ話は終わっておりませぬっ」

「えぇ、与三郎のしつこいわっ。殿に直談判いたすっ」


忠興と秀次だ。忠興は国明を探している。藤木と国明は慌てて立ち上がった。国明はごしごしと直垂の袖で顔をぬぐい、庭へ顔を向ける。そこへ言い合いを続ける二人が顔を出した。


「殿っ、またここへおられたかっ」

「殿、叔父殿が言うことを聞きませぬっ」


互いに言いつのる二人に国明は背を向けたままだ。藤木がちら、とその横顔を伺うと、明らかに困り果てた顔で空を仰いでいる。泣いていたことを悟られたくないのだろう。一向に返事をしない国明に焦れて、忠興が大声で呼ばわった。


「聞いておられるのか、殿っ」

「…おぬしらの大音声だ。聞こえておる」


振り向かぬまま、国明はぼそりと答えた。流石にその様子に二人が首を捻る。


「殿、そこで何をしておいででござりまするか」


秀次の問いに、国明はまたぼそっと答えた。


「…つっ月見だ」

「今宵は新月じゃぞぉ?月なぞ出ておらぬが?」


忠興が訝しがった。国明は背を向けたまま、顔を顰める。見かねた藤木が助け船を出した。


「ね、秀次。お風呂の用意をしてくれるかな。汗でベタベタなんだ」


それから忠興にほほえみかける。


「忠興、秀次の頼みを聞いてあげてよ。約束は明後日でもいいから」

「御渡り様~」


忠興が眉を下げ、情けない声をだした。藤木はくすっと笑う。


「忠興、僕はずっとここにいるよ。約束はいつだって守れる」


ハッと国明が藤木を見た。藤木はまた、微笑んだ。一方、秀次は鬼の首をとったように忠興へ宣言している。


「御渡り様もああ仰せられておりまする。叔父殿、お頼み申しましたぞ」


それから、湯の支度をいたしまする、といそいそ廊下を渡っていく。忠興はなにやらぶつぶつ言いながら、秀次の後に続いた。藤木はそんな二人の背中を見送る。


「…藤…」

「ここにいるから…」


小さく藤木は呟いた。


「藤…」


後ろから国明が藤木を抱きしめる。藤木は国明の胸に背をもたせかけた。夜風が柔らかく、藤木の頬を撫でていった。




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