不堕落女の戀
甲斐ミサキ
ダーツを投げる
ぽかんと間抜けにあいた口からあひっとあえぎ声が漏れた。
唾液と馴染んだ糖蜜が滴ってデスクを穢す。
このときのわたしは、できることなら、
心底、聞き間違えたかったんだ。
カップアイスクリームをすくう手が止まったのには理由がある。
ああ、かみさま、
つかさどる言葉の何もかもを千分の一、億分の一の狂いもたがわずに。
あるいは
けれどそんな風にうまくやれるはずもなく、耳介が言葉を拾い、外耳道がラッパ管みたく言霊を増幅させ、もはや鼓膜を突き抜けて蝸牛神経をぐにゃぐにゃにしてしまった。脳裏にしっかり刻み込まれてしまった。
計らずも恨めしく思う。
自分の愚かしい両耳をフリート街の
嘆息。
天井を見上げればわたしの奈落が悦に入ったのか極彩色の紐が静水力学的骨格を破綻させた、苦々しくも既知外な蠕動運動に励んでいた。
ああ、
ハロー、わたしの知ってる地球さん。滅んでしまったのね。
ハロー、わたしの知らない地球さん。滅びてしまえ!!
狙ったかのように、世界中のありとあらゆる何もかもが結託してわたしに秘密を漏らさぬよう仕組み、突然に今日というこ
なんてばかみたいに救いのない無邪気で無慈悲な残酷さなのだろう。
かれこれ四年越し。
はす向かいの席に座る
言わずもがな。一方的に自身を充足する願望にしかすぎなくて。
誰かが言った?
遊瓦に彼女がいないだなんて!
無窮の中心で極彩色に耀く冒涜的な勧請縄。
補陀落がなんなのか。福来と捉えればちょっかいを出さないし、不帰ならなおさらいのちが惜しいはず。
だから、どこかから誤った知識を仕入れたおとこ、時代錯誤な補陀落を笠に着たら
怪しいふるまいを社会は関知しないし関知したところで。
地方紙の
末路はすべからく無間太鼓の打擲音で不覚になり、
魔王の不定形な擬足に死ぬ権利を刈り取られ、
意識だけはそのまま発狂しつづける、
児戯に等しくこねられて里の肥やしになり果てているに違いない。わたしは知らないが、識っている。
ちらっと天井を見やった。まだいる。
嗤ってるの。
かみさまは莫迦げてるほどゲスで嫉妬深い。
里のそと、おともだちは貴重なのだと。
刳られないおとこのおともだちはわたしにとり値千金、兆金だったのだと、
訊かれることがなかったのはわたしが埒外だからか。
そういえば、遊瓦はどうして生きているのだろう。
かみさまは分かってたの?
おたがい身の上には踏みこまず、仕事を終えて帰る道すがら、一緒になって小学生なみの悪ふざけをする仲で満足していたのは自分自身なのに、急に突きつけられた、普段はじゃれ合う艶めいた赤い舌の切っ先は思いのほか鋭利な刃で、わたしの胸を貫いて、けして小さくはない穴を残していった。彼が婚約した?
その痛みに面食らう。自分の鼓動が耳にうるさい。
この瞬間も本当に遊瓦のことを「好き」だったのか、自分の気持ちの天秤すら推し量れないくせに。
……。
いつから彼女は居たの?
青く晴れ渡ったそらに突然起こる雷のように、降って沸いた喪失感。気ままなモラトリウムの王国はまるで水際の砂城楼閣のようにあっけなく崩れてしまった。
ばかみたい。
遊瓦からへどもどと視線をもどし、再びスプーンを差し入れたが聞き耳を立てているうちにアイスクリームはすっかり溶けて果ててた。
「樫萩、俺結婚すんだぜ」そんな童貞めく
無意識に彼の瞳に吸われている視線をねじ切ってネクタイまで落とす。
なに、それ。
じっと見てしまった。
ああ、かみさま、「愛」の字に坐する補陀落ましますご当主さま。
万言の呪詛を吐きます、あなたに。
のろけをつとめて聞こえなかったふりをし、残りのアイスを処分しに給湯所のシンクへふらふら席を立ち、つかの間目と耳をふさぐことで、はだかんぼうより淫らで羞ずかしげのないあまったれな世界からわたしのこころを遮断する。
ふけつ。
うたぐれば、
ワイシャツの襟元にひっそり浮いた赤いむしさされまで邪推してしまう。
ああ、かみさま、
あるいは昼休みにオフィスを離れたりしなければこんな事態にはならなかったのかも。岐路を間違えた。遼丹を飲み下し、時の猟犬どもに餌を与え、時間を遡行すれば別の形に収束するんだ。世界を選びなおして注意深く組み立てて。
わかってる。
わかってるんだ、そんなことまるで論理的じゃないお笑い種だとは。
わたしの想いが臨界点に達したとして相転移は望めない。
世界を繰り返したって、どうせ収斂するんだ。彼の恋路は。
わたし以外に。
そもそも
一目見るなり気に入ってしまい、仕事帰りまで取り置きをお願いしておいたのだ。西部劇のバーに出てくるような観音開きのフロントパネルで、両脇のポケットにはダーツが三本ずつ収納できる代物。それは、来たるべき遊瓦への誕生日プレゼントにするとっておきなはずで。
二人の間でちょっとしたブームになってい、ダーツバーへ通ってはゼロワンやクリケットに興じる。勝敗の行方にジントニックやカルーアミルクの一杯を賭けあったりする他愛ない駆け引き、そんな風に投げ合うのは愉快で、最終電車ぎりぎりまで遊んでいたのがついこないだ。堅実に、的の内側にさえ入ればと思いながら投げるわたしとは違い、トリプルポイントの二十に放りこむのが一番の高得点源だというのに、ポイントを仕切る金具にダーツを撥ね返されながらも彼はどこ吹く風で、中心のブルスアイに狙いを絞っている。何ゲームもまたいでようやっとの何投目かでみごとに命中したとき、遊瓦の「今のちゃんと見てた?」といった起死回生の悪巧みが成功したときの無邪気で誇らしげな悪戯っ子のように、思わず笑い声をあげてしまうほどあどけない表情で、くりくりとしたまっすぐなまなこでわたしを仰ぎ見たその顔に、気づけば胸が甘く締め付けられ、
気づけば溺れていた。
注意深く御守りみたくスマートフォンへ収めた彼の写真は、砂目状の乳暈が色づいてこわばり乳首が痛く尖るほど冷たいシャワーを浴びてもとどまることを知らざりし火照るわたしの体を慰撫する偶像となり、あきれるほど沈着さを奪い盗ってしまう。昼の天真爛漫さとは裏腹に、どうわたしを嬲れば効果的かお見通しで、夜ごと布団の中で彼の指は「好きだよ未由」と耳たぶをはみ耳孔をぬるませ、太ももをつうとなぞり、脇腹や臍まわりに痕をつけ、まんまと下着の中に這入っては禊ぎ整えた絹糸の茂みを掻き分け、赤らんで羞恥する
朝、よじれたシーツに残るもったりした狂悦なる分泌液のなごりで不快に覚醒したわたしは、それでも毎夜の邪淫をやめることができない。姿見におのれの裸身を映せば乳房をたわめて絞るような、くっきりと赤く擦れた縄化粧の痕。
くるしいよ、かみさま。狂おしいよ、かみさま!
びっくりさせたくて購入したのに、
「ばかみたい」
シンクに手をついて呟く。今度は声にだしながら。
そうだ。自分の気持ちをこころの奥底に深く沈め、何食わぬ顔でプレゼントすればいいんだ。わかってる。律儀な彼のこと、お返しに、今までのようにわたしの誕生日になればわざとセンスを外した「面白いけど素直に喜べないもの」をプレゼントをしてくれるなんてことくらい。でもあくまで貰えるのは愛の巣でいちゃいちゃと乳繰りあう恋人同士の蜜滴る甘い睦みごとじゃなく、友情の交歓に過ぎない。遊瓦の善意むきだしのにこにことした友愛に押しつぶされるのは、カウカーソスの山頂に磔刑されたプロメーテウスの火が文明を開いたことより明らかで、それに耐えうる閾値はすでに決壊し、友情を装う自信も心を殺す覚悟も、爪先ほどすらこの世界になかった。
なかったことにして差し上げようとも。わたしのかみさまが囁く。
坐せば愛してやるとも。愛されたもうよ。
さては何を捧ぐる。
ぴちょんと心に生じる悪の華。神威による改変へのいざない。
ああ、なんて甘い。
わたしが無垢でなきゃ選択したろうに。
どう終業時刻まで過ごしたか記憶のあやふやなまま、婚約話を肴に呑みに行こう、彼女も呼び出して、って悪趣味な誘いを丁重に、けれど決然たる意思表示で断った帰り道、その足をD.Dに向け、出てくるころにはダーツセットを抱えていた。そんなことすればたちまち持て余すこともわかっていたはずなのに。見た目以上に重く感じるのはまるごと歯痒さの足枷に思えて、その重さがひと足ひと足余計に家路を遠くしてしまう。
アパートの鍵をあけ郵便受けを確認する。新規開店したヘアサロンの案内、選挙運動のビラ。それに宅急便の不在通知。母親がそんなこと話していたっけ。里を出たって、きままな独り暮らしは過ごせやしない。
補陀落の、なんて深くのしかかる愛情の檻はかくも。狂世の見合い写真なんか何度送られたとて気持ちを逆なでるだけなのに、愛すべきはわれらが長者よ。
窓をあけ、淫臭漂う部屋の気配を開け放つ。
きしきひききとヒグラシの声。この季節らしい、金柑の花のあまい香りとともに昼の名残を濃密に含んだ夜気が室内に流れこんでくる。胸いっぱい吸いこんで、昂ぶった気持ちを沈めようと努力してみる。鉛のように重苦しくわだかまる虚無感は一ミリグラムも減ろうとはしてくれない。ちっとも知らん顔でわたしの真ん中にどでんと居坐ってる。いっそ自分のこころにも窓を備え、自由に開閉できたならどれだけ清々することか。かみさまを言祝いでおけばとは今更だろう。
言祝いで山河にぎわい、長者くくろや後家よ孕めや。
かつての言祝ぎでは分家の一派が街道を等しく血の川に変え骨肉を絶やし禽獣を肥やしたとか。そういったことが里ではよく聞く夜伽噺。善行をして悪行はなお栄えん。神を賜るとはそういうこと。
諦観の塊みたいにシューと歯擦音を吐き出す。
「……っっっ……う……っっ」
眉根が寄り、ぷくっと頬がこわばる。口唇の内側を強く噛む。
水温をてのひらで確認しながら注意ぶかくバスタブにすこし熱いめのお湯を張る。
ひたした指先から物理的な疲労感が炭酸水の泡のようにしゅわしゅわ溶けてく。
これでも虚無感は消えない。消えやしない。
のろのろコンタクトレンズを外し洗浄液にひたす。かぁぁーっと目頭が熱くにじみ眼底が潮溜まりを招いた。俯いた鼻の奥がツンとする。われながらぼやけた鏡面に映るひどい相貌。こつりと洗面所の鏡に額を当てたはずみで嗚咽が零れる。
「……あっっっぐ……うぐ……っっ、
ぅぅあああー……」
目頭が火照り視界がゆがむ。
分かってた。限界なんてとっくにきてたんだ。ぐずぐず泣きながら、玄関に置いたままのD.Dの手提げ袋に目をやる。目を背けたって仕方ない。考えなくちゃならないのは、遊瓦を自身から遠ざけたちっぽけなわたしに巣くう補陀落ゆえの傲岸不遜な不正直さなんだから。ちゅうぶらりんな気持ちをいつまでも放っぽりだしておくわけにいかなかった。
喉をくっくっと引きつらせ何度も、何度もしゃっくり上げながら哄笑する悪魔のイラストで物々しく武装された包装を、ぶれる指先で解いてゆく。ぼたぼたと一度堰を切った涙の源泉は枯れることを知らないようで、気持ち好いくらい蛇口が壊れたみたく呆れるほど次から次へと溢れて出てくる。しょっぱい鼻水を啜りあげる。保証書に取扱説明書、取り付けネジ、ソフトチップダーツが六本、赤と青の交換用チップ。専用ACアダプター、メスティソのテンガロンハットが似合いそうな観音開きに封されたダーツボード。包装を解くたびに新しい涙滴がそれらの表面で弾けた。
遊瓦から誕生日に貰った、マッコウクジラが泳ぐ多色刷りされた意味ありげなテクスチャのリトグラフを壁掛けから取り外す。遊瓦と過去のわたしも一緒くたにして決別の一歩を心に刻みこむのだ。空いたフックにダーツボードを取り付け電源をいれると、液晶ディスプレイがにぎやかに点滅を開始した。
すっかり赤く腫れぼってしまった目でダーツボードを見据える。
今晩は完膚なきまで。ひどい嗚咽にしゃっくり上げながらまずはFMのボリュームをあげた。ポップユニット【Parahumor】の電子音的歌声に頬のこわばりが緩む。バスタブでうずくまり泣くだけ泣いたあとジャージーに着替え、よく冷えた大吟醸「付喪神百年午睡」を飲む。漂泊する昼間のわたしをありふれた日常に引き戻してやる儀式。
それからわたしはダーツを投げる。百投でも二百投でも気が済むまでダーツを投げ続けてやる。
棲み潜む曖昧さ、恋慕を認めなかった強情さを、勝手にこころを隠して勝手に泣いて、そんなあやふやでばかげたわたし自身を射ちぬくために。
邪淫にひたらせては今も嘲笑いわたしを冒して続けている、愛しい人を刳ろうよと痴愚な巫女を誘惑するかみさまを殺すために。
そしてまた明日、なんてことのない笑顔で遊瓦と顔を合わせられるように。
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