天狗の弟子は空を飛ばない

藤咲メア

第1章 天狗に育てられた少年

第1話 競い飛び

 天狗たちの住む「御山おやま」は、今日はいつになく活気に満ちていた。特にまだ鼻の伸びていない若い天狗の少年たちが最も顔を輝かせ、楽しみでたまらないといった様子をしている。なぜかというと、今日は年に一度開かれる「競い飛び」という行事が行われる日だからだ。


 「競い飛び」とは読んで字のごとく、飛ぶ速さを競い合う行事のことだ。


 天狗は、背に生やした漆黒のカラスのような翼で風をつかみ、天空を自在に飛行する。


 その飛行速度を競い合うのは天狗なら誰でも一度は熱中する勝負事だ。そして大概空を早く跳べるものは皆の憧れ、羨望の的となり、当然女子達からよくモテた。そしてお山を上げて行われる公式の競い飛びで一位になることは、若い男の天狗にとっては最上の名譽だった。


 競い飛びは昼、太陽が中天へ登る頃に始まる。現在、太陽はもうじき中天にさしかかろうとしていた。


 競い飛びに参加する若い天狗たちは、本番を前に朝っぱらから期待と緊張でそわそわしながら仲間と冗談を飛ばしあったり不安をこぼし合ったりしている。一方で、娘たちはどの男天狗が一位を取るのか、きゃあきゃあと大いに盛り上がりながら話に花を咲かせていた。そして、もう若い年頃を脱した天狗たちは、誰が一位を取るか酒を片手に賭けあっている。


 どの天狗もそんな風に日常とは違う浮き足立った空気に身を委ねていた。しかし、一人だけその輪から離れている者がいた。


 皆が騒いでいるのを尻目に、木々の開けた山の斜面に少年が一人、その身を横たえていた。年の頃は17、8ほど。本来なら競い飛びに参加するべく張り切っているはずの年頃だが、その少年は仰向けになって頭の後ろで腕を組み、抜けるような青い空に浮かぶ雲をぼんやりと目で追っているだけだった。


 少年は他の天狗たちと同じように頭に頭巾をかぶり、体に鈴懸すずかけ結袈裟ゆいげさを纏わせた山伏の格好をしている。どう見てもこの山に暮らす天狗の一員だが、彼にはたった一つ他の天狗たちと決定的に違う箇所があった。


 翼の有無だ。本来、鴉のような漆黒の大きな翼が生えているはずの背中には、何もない。


 要するに彼は翼がないため飛ぶことができず、必然的に競い飛びに参加することができないのだ。そもそも彼は天狗ではなかった。人間なのだ。赤ん坊の頃山に捨てられていたところを天狗に拾われ、ここで天狗として育てられた人間である。


「ああ、やっぱりそこか。葵」


 名前を呼ばれ、この御山でただ一人の人間、葵は「ん?」と仰向けの体勢のまま首をひねって後方へ視線を向けた


 葵が目を向けた先には、葵の無二の親友である五色ごしきが立っていた。


「今年も見ないの?競い飛び」


 五色の問いに葵は短く「ああ」と答えた。


「見たところで俺は飛べんし」


「相変わらずこの時期になると捻くれるね葵は」


 五色はやれやれといった様子で葵の隣に腰を下ろす。葵はよいしょと上半身を起こした。

短く後ろで結わえた葵の黒い髪がそよ風に揺れる。


「仕方がないだろ。このお山で飛べないのは俺だけだ。そりゃ捻くれるさ。」


 あぐらをかきなが葵は言った。その顔からはどこか不満げな様子が見て取れる。五色は「でもさ」と頬をかきながら言葉を続けた。


「お前飛ぶこと以外にかけてはは若手の中じゃ御山一番と言っても過言じゃないだろ。足は早いし、腕っ節も強い。神通力の才能にも長けてる。」


 一人でうんうんと頷く五色を、葵は胡散臭そうな目で見遣る。


「それ俺を慰めてるのか?」


「一応は。」


 五色は一応と言いつつ真面目な表情で葵の方へ向き直る。


 事実五色の言う通りだった。


 葵は同じ年頃の天狗たちの中でもずば抜けた身体能力を持ち、加えて優れた神通力の使い手となる素質をも備えていた。


 それもこれも葵の努力の賜物だった。飛べない分、他の能力で補おうと幼いころより必死で鍛錬を積んできたのだ。神通力については生まれつきの部分も多いが、身体能力や腕っ節の強さは葵の血の滲むような鍛錬の結果なのだ。


 大人の天狗たちはそんな葵を見て口惜しそうに言うのだ。「お前が天狗であったなら、将来立派な大天狗になったことだろう。」と。葵はそれを言われるたびに自分を否定されているような気分になる。


 どれほど他の能力に長けていようと、空を飛べねば一人前の天狗とは言わぬ。所詮自分は人間なのだとこの時ほど思い知らされることはない。


 五色はああ言うが、葵にとってこの御山で暮らしてきた限り、飛べないことは何よりの屈辱だった。そしてわざわざその屈辱を味わうために競い飛びを見物してやろうという気には到底なれなかった。だからこうして一人山の斜面で臍を曲げ、ひっくり返っているのだ。


「五色、お前も出るんだろ?もう日が中天に差し掛かる。早く行けよ。こんなところで油売ってる場合じゃないだろ。」


 葵にそう言われた五色はしかし、「行かないよ。」と首を横に振った。


「は?何で」


 五色はほらと葵に背を向けて自分の翼を見せる。すると、左の翼の先端に白い包帯が巻かれているのが見えた。


「怪我か?」 


 五色は頷く。


「昨日練習に張り切りすぎちゃってさ。速度を上げるのに必死で前よく見てなくて、木にぶつかっちまった。だから、俺も参加しないよ。そういうわけでどうせここでひねくれてるであろう葵のところに来たってわけ」


「なるほどな」


 それから二人は、遠くの方から法螺貝の鳴り響く音と、わっと歓声が上がるのを聞いた。競い飛びが始まったのだろう。


 競い飛びの規則は単純だ。麓から山の頂上にまで一気に飛び、頂上にある一本杉をぐるりと一周回って出発地点である麓に戻ってくる。一番早く戻ってきたものが優勝者だ。


 競争は男女別・年齢層別に分かれており、大きく子供、青年、大人の三つに分かれている。おそらく今は子供部門だろう。そして歓声に娘たちの黄色い声が混じりだしたら青年部門の競争が始まったことになる。


 葵は幼い頃に競い飛びを見たときのことを思いだしていた。


 合図の法螺貝の響き渡る音とともに一斉に黒い翼を翻らせて空へ飛び立つ天狗たち。大きな翼が力強く風を切り、まるで突風のように空を突き進む。


 やがて群れの中から一際速い天狗が飛び出し、一気に頂上へと駆け上がり優雅に弧を描きながら杉の木を一周して戻ってくる。


 当時、まだ幼く自分も当たり前のように飛べると思っていた葵はそんな天狗たちの姿に惚れ惚れとしたものだ。いつか自分もあんな風に飛べるようになってやろうと鼻息を荒くしていたのを今でも覚えている。


 しかし、結局葵に待っていたのは飛べないという事実だけだった。


 飛べないとわかった時は泣いて悔しがったものだ。


 その時葵は、自分を拾ってくれた天狗の椿丸になぜ人間は飛べないのだと泣きついた。

 

 椿丸は困った表情を浮かべながら、「そりゃあそういう風に神様がお決めになったからよ」と葵の頭を大きな掌でわしわしと撫でながら言っていた。


 そして、「人間は飛ぶことはできなくても、わしら天狗に持っておらんものもたくさん持っている。お前はそれを見つければいい」とも言っていた。


 幼い葵からすれば何のことやらさっぱりわからなかった。今でもわからない。そもそも葵は自分以外の人間を見たことがないのだ。

 

 正確に言うと遠くから見たことはあった。だがそれだけだ。天狗のことはよく知っているのに、自分と同じ人間のことは何も知らない。天狗にはなくて人間が持っているものがわかるはずもなかった。


 葵と五色はそのまま競い飛びを見物することなく二人で過ごし、夕方になってようやく皆が暮らす館へと戻った

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