第3話 仮面の下



 梅雨が近づいた曇天の空は人の心を憂鬱にさせる。


 まぁ、憂鬱なのは気候のせいだけじゃないんだけどな。


 早く授業を終わらせて家に帰りたい。

 

 黒板に教師がチョークを走らせる硬質な音が教室に響く。


 パートナーセレクトが終わり季節は春を過ぎて夏に差し掛かろうとしていた。


 衣替えが済んだ教室内の生徒たちはどこか涼しげだ。


 男子は半袖のワイシャツに女子は白の生地に紺色の線が入った半袖のセーラー服に変わっていた。


 冬服はブレザーだったのでどの人間の姿も新鮮だ。


 特に衣替え初日は神谷愛に男子の視線が集まっていた。アイドル科の人間に負けないくらいの容姿。


 お面のように表情を変えないが、それが返って神谷愛の整った顔のパーツを引き立たせている。


 いつもより開放的な美少女の姿に見とれてしまうのはわかる。


 だが、俺はそんなのを気にしているほどの余裕がなかった。


 中間考査では数学で赤点を一つとり、マネージャー基礎の授業で課題となっていた、輝石学園生の既存メンバーでユニットを作る企画書を期限までに提出できなかった。


 数学の赤点は袖浦の力を借りてなんとか再テストに合格した。


 袖浦は成績優秀だったらしく馬鹿な俺でも夜通しわかりやすく教えてくれて本当に助かった。


 なんでも友達がいなかったからそれしかやることがなかったんだとか。


 それを言われたときはさすがにリアクションに困ったな。


 俺の力になれて袖浦は嬉しいようだったが、俺が力になってほしいのはアイドルとしてなんだけど。


 とはいっても袖浦がいなかったら何もできずに退学させられていたかもしれないので助かった。


 数学の再テストが終わって息つく間もなく課題の提出は迫っていた。


 ただでさえ『輝石学園生』に詳しくないのとパソコンに不慣れだった俺はとにかく時間がかかった。


 仕事が終わって蓮にパソコンを借りて教わりながら朝まで作業をしては学校に赴くという毎日を過ごしていた。


 最終的には提出期限の三日過ぎてからなんとか天野先生に提出した。当然、天野先生から叱責はあったが、大目に見てくれるそうだ。


この中間考査と課題の提出は年に三回行われるアイドル科マネージャー科の特別な試験とはまた別物らしい。


 その課題を提出したのが今日。授業中だというのに俺は半分寝かかっている。ここ最近の睡眠時間はほぼゼロ。眠気に襲われるのは突然だった。


 周りの人間たちは変わらずにどうしようもないやつを見る目で俺に視線を向けていた。そればかりは仕方がない。事実入学してから俺はいいとこなしだ。


「ふわぁ……」


 そんなことはどうでもいいか。今日は早く寝たい。仕事もたまたま休みだし泥のように眠りたい。


 俺はふと、黒板に書かれた日付が目に入った。


 ん? 今日は六月一日か……あ! 家の近くのスーパーの特売日だった。


 しかもただの特売日ではない。毎月一日にお客様感謝デーと言って普段タイムーセールで安くなる食材がさらに安くなり信じられない価格で投げ売りされる。


 テレビや新聞などで何度も取り上げられていて、人が大勢集まり、ただのスーパーがこの日だけはなんでもありの世紀末の戦場のようになる。


 正直心身ともにぼろぼろだ。だが、この日を逃す気はない。


 仕事などで行けない日もあったが、それまでは毎月お母と一緒にその戦場を荒らしていた。


 ふ、今日は久々にお母の土産話でも作りに行くかな。


 学校が終わり、いつものように噴水のベンチで待っていると、袖浦がやってきた。


 最近はいつもこうして一緒に下校をしている。


 袖浦も衣替えを済ませており普段のブレザーから半袖のセーラーに変わっている。


 こちらのほうが袖浦の清楚な感じを引き立てて似合ってはいるが、垢抜けない印象を持ってしまう。


 眼鏡からコンタクトに変更してからは多少大人っぽく見えるが、それでもまだまだだな。


 袖浦と電車に揺られる途中で俺はスーパーについて話した。


 すると、袖浦が食いついてくる。


「へー、面白そうだね。私もついていっても大丈夫かな……?」


「……お前のような半人前だと戦場では死ぬだけだぞ? いいのか?」


「な、なんでそんなに怖い顔をしているの……」


「まぁ、行けばわかるさ」


 そう。あそこは本当に戦場だ。関ヶ原も桶狭間もあの戦に比べれば屁でもないはずだ。


 普段はのうのうと生きている主婦たちが歴戦の兵士のように立ち回り興味本位でやってきた人間を蹂躙しているんだぞ。


 とは言っても見てもらったほうが早い。俺は袖浦を連れて自宅へと一回戻った。タイムセールが始まるのは十八時からだ。家事を済ませてから行っても間に合う。


 一旦着替えて洗濯物を取り込むのとお米を炊いてから俺は玄関の扉を開いた。


 すると、ちょうど同じタイミングで袖浦も家の外に出てきた。


 着替えたのか、セーラー服姿からデニムシャツを腕まで捲って薄緑のロングスカートを履いて出てきた。


 俺はというと学生時代に持っていたバスケのジャージ姿だ。


「袖浦……悪いことは言わない。着替えて来い」


「え……? なにかおかしかったかな?」


「違う。そんな洋服すぐに奴らにビリビリにされるぞ」


「ど、どんな無法地帯なの……」


 袖浦は一応納得してくれたのか部屋に戻ると、ダンスの練習で使っていると思われるゆったりとしたシャツとズボン姿になってあらためて出てくる。


 それを確認した俺は袖浦を連れてスーパーへとやってきた。古びたスーパーの前には、外に野菜などが出され売られている。


 店内では主婦やお年寄り、一人暮らしっぽい大学生などがカートをゆっくりと押していた。


「……普通のスーパーだね」


「ああ、一見するとな。……そろそろ時間だな」


 俺は慌てて店内の中に入る。と、タイミングが良かったのかそれと同時にアナウンスが鳴り始めた。


『本日はご来店誠にありがとうございます! 本日のタイムセール第一号は豚の細切れです! 百グラムでなんと五十円!』


「五十円! へー安い――うわぁぁぁ!」


 袖浦が驚いて手をポンと叩いている間に周囲にいた人間が一斉に豚細切れのあるエリアへと駆け出した。


 先程まで子供と会話を楽しんでいた若妻も、カートを手押し車の代わりにしていた老婆も、イヤホンで音楽を聴いていた学生も、途端に目の色を変えている。


 老婆に至っては折れ曲がっていた腰が垂直になっている。


 ここにくる人たちは皆生活が掛かっている。死に物狂いで獲物をとりにくるだろう。


 雪崩のような大移動に袖浦は飲み込まれてどこかへと消えてしまった。


 く、こうなってはもう助けられない。お前のことは決して忘れない。俺は袖浦の救出を諦めて戦場の中心地へと向かった。


 バスケで鍛えたステップを活かして人を躱し目的地へとやってきた。だが、すでに時遅し。


 売り切れてなくなってしまった。仕方がない。すぐに次のチャンスがやってくる。


『続いて第二号! もやし一袋一円です!』

 俺はそれを聞くと一目散に野菜コーナーを目指した。もやしは安いし上手いし量が多いと三拍子揃ったなんでも屋だ。ここはなんとしても手に入れたい。


 今度はなんとか間に合って最後の一つを手にすることができた。


 が、俺もここ最近、戦場スーパーにやってこなかったせいで感覚が鈍っていた。すぐに横に居た常連のパンチパーマのババアに掠め取られてしまう。


「おいババア! 俺が最初にとっただろう!?」


「なに言ってんだよ。ここではカゴに入れるまでが勝負だろ」


「それは……」


「ふふ、狂犬親子と呼ばれたアンタも母親がいないとただのカスだね」


 俺に吐き捨てるように言うと、ババアは次の目的地へとカートを押しながら向かっていった。


 お母がいなければただのカス。こればかりはなにも言い返せない。普段は俺がルートを作って、お母が強引に獲物を狩るのが必勝パターンだった。だが、今日はそれが使えない。


「これは……厳しい戦いになりそうだな……」


 俺は戦地に赴いた戦士のようにかっこつけて唇を親指で軽く横から叩いた。


 なんか、勢いでこんなことを言ってやってしまってはいるが、クラスの人間にこんなところを見られたら恥ずかしいな。


「……狂犬親子ってなんですか。厳しい戦いってどういう意味ですか」


 後ろから声をかけられる。


「なんだ袖浦。もうあの波から解放された……のか?」


 俺は後ろを振り返ってみると、そこにはジト目で俺を見る神谷愛が立っていた。その隣には目をキラキラとさせたナイトレイが立っている。


 ……なんでこいつらここにいんだよ。

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