少年の興味は……?

 その声が、魔女の耳をついた。少年は涙を流してその場にうずくまっている。すり傷から流れる血が、膝全体を覆いつくしていた。


「ひっく。いたいよぉ。おなか、すいたよぉ」


 ――そういえば、狐憑きの膝の肉を煮詰めると、健脚の薬が出来上がるんだったか。たしかそうだった。だから仕方ない。


 魔女はやや駆け足で家に入って、家の角にたくさん詰まれた革袋を漁る。その中から常備してある薬草を取り出し、すり鉢でこまかく挽いた。粉末になったそれを手にすくい集め、少年のもとに戻る。


 そして魔女はそれに、呪文をささやく。


「なんていったの?」

「薬草がすぐ効くよう、それと、痛みを一瞬で消すよう。お前には分からない言葉だよ」


 少年の膝に粉がまぶされる。すると、本当に痛みが取れた。


「え、どうやったの、すごい!」

「血は拭っておけ」


 すごいすごい、といいながら、もう彼はぴょんぴょんと飛び跳ねている。今度は転ばないようにと手をつなぎ、魔女の家に二人で入った。


 家には生活に必要なものが最低限しかない。必要なものはその都度、集めることにしていた。先日集めたリンゴは、滋養薬の精製に必要なものだ。もっとも、魔術でその辺の熊たちをけしかけ、集めてきてもらったのだが。


 魔女は少年が、壁一面にうずたかく積まれた、真っ赤に熟したリンゴに目を奪われるはずだ、そう思っていた。


 しかしまず彼の目を引いたのは、その反対側の壁一面に作られた書架だった。


「なにこれ、本?」

「本のことを知っているのか……?」

「教会に、いっぱい、あるやつ?」


 あの村のあたりの領主である教会の所領は、思ったより広かったと魔女は思い出した。読み書きができる者がいて、本があってもおかしくはない。


 けれど私の部屋ほどではないだろうと、魔女は思った。書架には並び切らず、本が傷んでしまうので上策とは言えないが、直接床に積み上げているものもある。くわえて、置き場所に困ってすぐには使わないだろう本を、アマンダに貸してある。貸したのがずいぶん昔の話だから今はどうなっているか魔女は分からないが、ともかく魔女はこの地方で有数の蒐集家だった。


 少年は、自身の胴体ほどある本を持ちあげた。


「ん? それが気になるか」


 魔女はその魔術書を手に取って中身を確認した。


「これは、お前には一生かかってもわからないかも知れないな」


 魔女は少年を木造りの椅子に座らせ、本を開いて彼に見せた。彼は羊皮紙のページをじっくり食い入るように見つめている。


「なにこれ……絵?」

「文字だ。言葉を、形にしたもの」

「ことば、もじにできるの?」

「そうとも。文字に書いておいた言葉は、消えない。記された言葉は本として残されて、次の世代に伝わっていく」


 少年は黒くうごめくミミズのような文字ごしに、先人の顔が思い浮かぶようだった。意味は分からない。けれど、意志を感じ取ることができた。文字は踊っているようだった。同じ文字を探し、同じ言葉の組み合わせを見つけていく。それが何かの意味を成しているらしい、と推測するたび、胸が高鳴った。彼はひと時ページの上の世界に没頭し、空腹を忘れた。


「ぼくこれ、わかりたい」

「やめておけ、どれだけ時間をかけても、わかりやしないさ」

「でも、楽しい」


 少年の目の色は――魔女に南の地で取引される、琥珀を思い起こさせた。装飾品として目玉の標本を飾りたいぐらいだったが、魔女は思い至る。


 ――私もこの少年のような、曇りのない目をしていただろうか。そうなのだろう。私もかつて、書物を前にして寝食を忘れたことがある。


 魔女はふと、この少年を教育したらどうか、と思った。


 何かしら、自分の益になる研究をしてくれたらもうけものだと考えた。そうでなくても、ただでさえ長年の隠遁生活の性で、知能を持った生命とのかかわりが少なかった。自分の刺激になれば、それでいい。


「楽しいか。――その本は少し難しい書かれ方をしていてな」


 言葉がかみ砕かれた魔女の声に、少年は耳を傾けてうなずく。


「これを理解するには、日常語と古典語の両方をを学ばなければならない。お前はそれ以前に、話し言葉すらロクに使えない。まずはそこからだな……」

「ぼく、はなす、へた?」

「下手だ」


 齢三の子供を、魔女はバッサリと切り捨てる。


「うーん、もっと、はなしたい! うまくなりたい!」


 否定されて顔をしかめるかと魔女はと思ったがしかし、少年は真摯な視線を魔女に向け続けていた。翳りのない目だ。


「仕方がないな……」

「やった、お母さん、すき! りんご、くれる、いい人! はなしも、おしえてくれる! やさしい!」


 やれやれと、魔女はため息をつく。


「明日から、お前は私の教育を受けることになる。高名な魔女である私に教えを乞えることを、誇りに思うんだな。厳しくいくぞ、覚悟はいいか」

「おー!」


 ――命拾いしたな。本に目もくれずリンゴに飛びついていれば、一月後にはお前は私の胃袋の中にあっただろう。


 いずれにしろ、出来が悪いと分かった時点でお前を食べるつもりだが。

 魔女は心の中でそうつぶやくのだった。

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