魔女が拾った子

綾上すみ

子供編

発現

 生まれつき耳が小さい彼を産んだことを、母親はよく嘆いていた。音を聴きとりにくそうにする割には言葉覚えが早く、一歳と少しですでに三語文の話ができた。しかし、彼がどんなに母親に話しかけようと、母親の口から出るのは彼の耳の心配ばかりだった。


 生まれて三年が経ったとき、彼の耳はもうエンドウ豆ほどの大きさに委縮していた。そうして彼は、耳が聞こえなくなった。音の情報がすべて遮断された彼は、他の感覚が鋭敏になり、食べ物の傷み具合を匂いで感じ取って痛んでいる順に指さして見せたり、牧場のはるか遠くから歩んでくる牛が、雄か牝かの区別をつけたりした。


 また彼はよく、自然を愛した。渋る母親にねだって山に連れていってもらい、森の木々を揺らす風を肌で感じ取る。川を魚が飛び跳ねて、白い腹が空気中できらめく様を見ては、高い声を上げる。母はそんな彼を見て、ため息をつくばかりだった。彼は母が自分に向けない愛情を幼心に悔しがり、その心の空白を、自然に遊ぶことで満たしていた。


 彼には歳が十ほど離れた兄がいて、名をレジーといった。レジーもまた、弟を愛さなかった。彼に対し様々な悪態をつき続けたが、もちろん彼の耳には入らない。しかし彼にも、レジーが弟のことで悲しい顔をしているのだとは察しがついた。


 三年前から村では冷涼な気候が続き、この年も大不作に見舞われた。レジーは小麦や豆類などの農産物が取れない腹いせに、彼を殴った。衝撃で、彼の縮こまった耳はぽろ、と取れた。その瞬間、耳の取れて空いた穴から、柔毛が生えた滑らかな皮膚がするすると出てきたのだった。


 それはちょうど、狐の耳の形をしていた。




「お前のせいだったんだな」


 レジーは大急ぎで家に戻ってことの急を告げた。やってきた母親の恨みがこもった声が、彼の耳に入った。久しぶりに聞くことができた声は、以前にも増して、鋭く冷たいものであるように感じられた。彼は母親に触れようとした。


「触るな、汚らわしい。いいか、お前が生まれてきたせいで、ここ数年実りがないのだ。異形であるお前がいるから、神がこの村を見放しておられるのだ。お前などもう、うちにはいらない。お前は物同然だ」

「ぼく、分からない、なんで」

「レジー、それを片付けて、森にでも放り投げておけ」


 「それ」という言葉が、彼の胸を刺し貫いた。レジーはスキの金具が取れたものらしい木の棒を拾ってきて、彼を打ち据えたが、もとより抵抗する気力もなかった。彼はただぼろぼろになっていく自分の体を、ぼんやりと眺めていた。心の痛みのほうが強かった。


 兄だった人に言われるがまま、入ってはいけないとされている森の入り口にまでついていった。


 ひとり残されると、彼はその場にくずおれ、ようやく涙を流した。


 名前がほしかった。レジーと同じように、自分にも声をかけてもらえる名前が、彼はほしかった。


 少年の泣き声は、森の深いほうへと吸い込まれ、あっという間にかき消えた。




 彼はずっと膝を抱えてその場に座り込んでいた。飢えのような感覚が彼を時折襲うが、それすらもう、どうでもよくなっていた。空腹感はすぐに暗い気分の中に沈んでいく。そして発作のように、涙がこみあげてくるに任せ、彼は必死で泣きわめいた。


 日が沈んでいくが、彼はそれすら気にしないようだった。日が沈むまでに家に帰らなければ、とよく言われた。しかし今や、彼に帰る家などないのだ。


 また、太陽が膝を抱えた少年の、小さな影を作った。


 ほらまた。


 彼は尻のあたりに違和感を覚えていた。最初、長い間地面に座り込んでいたからだと思っていた。けれど少しずつ、その違和感は異物感に変わっていった。下を脱いで確認すると、毛虫のようなものが尻の間についていた。それを取ろうと思いつまんでみると、尻尾のほうが痛んだ。


 ――これ、僕の、しっぽ?


 耳の件といい、自分がどんどん人ならぬものに変わっていくことに対する恐怖が、彼を蝕んだ。


 ――狐になる、いやだ。


 彼はまだ「悪魔」という言葉を知らなかったが、自らの体を蝕んでいく「なにか」に対する、根源的な恐怖に打ちひしがれた。


 ――ぼく、呪われてる?


 また怖くなって、泣きだしそうになる。けれど彼にはもう泣く体力すらなく、ただ喉がひきつるばかりだった。


 まだ世の中のことをてんで知らぬ三歳の子供は、しかし確かに絶望を覚えた。立ち上がろうにも足に力が入らず、もう、一歩たりとも動くことができなかった。


 ――このまま、しぬ、いいかも。


 そう思った彼に、ひとつのリンゴがさしだされた。嗅覚が人並みを外れてよくなっていたので、皮つきのリンゴの中にあふれる蜜の匂いを察知した。彼はそれが、誰かに差し出されたことにも気付かなかった。


彼はリンゴを食べ尽くし、ようやくそれを差し出した人物に目をやった。


「まるで獣のように、食うものだ。――おっと、お前はもう人間ではなかったな」

「あの、ありがと」


 怪しい黒のローブを翻した背中ごしに、魔女は健気な狐憑きの少年の声を聞いた。

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