サダメの恋
吾妻栄子
第一章:夢の中の男
――馬鹿、死ぬな!
どんより黒く染まっていく視野で、あたしを見下ろす貴方の顔だけが鮮やかに浮かび上がる。
――やっと、この手にお前を捕まえたのに。
どこか西洋人じみて彫り深い、しかし、膚《はだは琥珀じみて浅黒い顔がグシャッと涙に歪む。
――いいのよ、これで。
あとちょっとばかり生きながらえたところで、あたしはもう吊られるだけ。
そんな無様な最期、「
――駄目だ。
絞り出すようなあの人の声を最後に、全てが暗闇に飲まれた。
また、あの夢だ。
というより、今の私と同じ二十七歳の時に死んだ、「昭和の毒婦・黒鳳蝶」こと市川サダメとしての前世の記憶だ。
まだ、スマホのアラームが鳴るには少し早い時刻だが、二度寝するには目が冴え過ぎている。
「勘弁してよ、もう」
ワンルームのシングルベッドの中で丸くなって寝返りを打った。
現世の私はもう「毒婦」だの「悪女」だのごたいそうな形容の付く人生なんか送ってないんだから。
むしろ「しょぼい」とか冷笑される部類の現状なんだから。
それなのに、前世の最後の記憶が夢に現れるたびに、突き刺すような胸の痛みも蘇ってきて、目覚めた後もなかなか消えてくれない。
*****
「よし、出来た、と」
洗面所の鏡に呟く。
私のお化粧はごく簡単だ。
左目の下の泣きぼくろも薄塗りしたファンデーションではごまかせないけど、そもそもさほど隠したいとも思ってない。
前世ではこの泣きぼくろが大嫌いだった。
「市川サダメ」として紹介される写真がどれも右側から取った横顔や斜め向きなのは泣きぼくろを映したくないからだ。
前世では藍染めの着物や群青の絹のチャイナドレスを人前では良く着ていたので「黒鳳蝶」と呼ばれた。
今は黒かグレーのスーツで職場に行く。
もっとも前世での着物やチャイナドレスだって仕事着のようなものだったが。
必要に迫られて着たわけで、決して、好きで身に付けていた衣装ではない。
*****
“年末はいつ帰る?”
実家の母からのLINEだ。
“30日には帰るかな”
満員電車の中ではスマホの文字を打つのもなかなか厳しい。
“お向かいの愛ちゃんはもう二人目が生まれたよ。ゆかりの一つ下なのに”
前世では男が次々寄ってきたのに、現世では二十七歳の今に至るまでまるで縁がない。
前世と現世で、容姿としては左目の泣きぼくろまで似通って生まれてきたのに、皮肉な話だ。
あるいは前世の市川サダメが「毒婦」「妖婦」「淫婦」だったから、溝口ゆかりとしての現世は「生涯純潔」でいろ、という見えざる力が働いているのだろうか。
「え? この前の子は結局、ヤリ捨てしちゃったの?」
「何か重くなりそうだったからさー」
田口と中村。
会社ビルの前で、同期のこの男二人は相変わらず朝からバカ丸出しだ。
こちらに気付くと、さすがにばつの悪そうに口を閉じる。
だが、「重くなりそうな女の子だからヤリ捨てした」と語った中村の方だけは何だか挑む風に口の端を歪めるのを私は見逃さなかった。
「お早うございます」
何も聞かなかった風に儀礼的に笑顔を作って通り過ぎる。
「あれはないわー」
先んじて入ったエレベータの扉が閉まる瞬間、二人の哄笑が耳に飛び込んだ。
もしかすると、こちらへの当てこすりかもしれないけど、とにかく聞かなかったことにする。
*****
「溝口、お前、どうして俺が今、怒ってるか分かるか? どんだけお前が俺の貴重な時間を無駄にしているか分かるか?」
いつものことだけど、この質問形式の問答こそ互いに無駄なんだから、さっさと結論から言って欲しい。
でも、決して課長がそうすることはない。
本当に仕事全体を円滑にするより、「出来ない部下に考えさせる」ポーズを取りつつ自分を偉く見せるのが目的だから。
――サダメ、お前、このダイヤに俺がいくら払ったか知ってるか? どんだけお前に俺が注ぎ込んだか分かるか?
前世でもそっくりな顔と口調の資産家にクドクド食い下がられたから、こういう男の腹は良く分かる。
「お前は何にも分かっちゃいない」
課長がバンと机を叩いたところで、今朝は私の代わりに電話番をしていた中村が声を掛けた。
「課長、リー社長がそろそろ到着するそうです」
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