3 アンジェリカの正体

 黒崎くろさき八式やしき司藤しどうアイは、お互い赤面しながら口論していた。


司藤しどうお前……! オレが最初からお前の顔が現実世界のモノに見えてたって……気づいてなかったのかよ!?」

「だってしょうがないじゃない!

 鏡や川面に映る顔は、ブラダマンテのモノなのよ?

 こんなややこしい話、気づく方がどうかしてるわよッ!?」


 確かにややこしい話だ。現代日本から「狂えるオルランド」の世界に飛ばされた者同士だけ、元の世界の顔を認識できるだなどと。

 もっともそのお陰で、魔女アルシナの奸計を素早く見破る事ができたのだが……


「くっそ……じゃあオレの顔も、ロジェロじゃなくオレ自身の顔でお前には見えてたのか……!

 なんだかオレの方も、すっげぇ恥ずかしくなってきたじゃねえか……!」

「ああ、もうヤダ……記憶を抹消したい……いっそ死にたい……」


 ゆだったように顔を赤らめ、羞恥心に悶えまくる二人を見て、アンジェリカは腹を抱えて大笑いしていた。


「あはははっ! あなた達……見てて飽きないわね!

 もしかして『本の外の世界』では顔見知りだったりする訳?

 ひょっとして恋人同士?」


「違います!」「ちげェよ!?」


 アンジェリカの問いを同時に否定する二人。息ぴったりである。

 そんなアイ達を見て、契丹カタイの王女はさらに笑い転げる。その態度にアイは苛立ちを隠せなかったが……それでも発言の重大さは聞き逃していなかった。


「アンジェリカ。貴女……ここが『本の世界』だって知っているの?

 もしかして貴女も、外の世界からここに引きずり込まれた犠牲者だったり?」


 アイの疑問を聞くと――アンジェリカの笑い声はピタリと止まった。

 途端に彼女は真剣な眼差しになり、逆に質問を返してきた。


「……ごめんなさいね。質問に答える前に、こっちから聞かせてちょうだい。

 あなた達、この世界では誰の身体に入っているの?」


「……ブラダマンテ。クレルモン公エイモンの娘よ」

「ロジェロだ。ムーア人の騎士。養父はアトラントという」


 今更な質問に、アイと黒崎はサラリと答えた。


「ではもうひとつの質問。あなた達の『元の世界』での名前は?」


「……司藤しどうアイ、よ」

「オレは黒崎くろさき。黒崎八式やしき……だ」


 二人にとっては当然で、分かりきった回答だった。

 しかし……その答えに、アンジェリカの表情は見る間に沈んでいく。


「そう……羨ましいわね。元の世界の『魂の記憶』が、ちゃんとあるんだ?」


「…………えっ?」

「アンジェリカ。それはどういう意味――」


「私は……契丹カタイの王女アンジェリカ。今は亡きカタイ王ガラフロンの娘。

 私はこの世界が『本の中の物語』の世界だと知っているわ。恐らく――私の『魂』も、元はあなた達の世界にいた誰かなんだと思う。

 でも……思い出せないの。本当は私が、いったい誰なのか」


 アンジェリカの声は震えていた。


「私には――『魂の記憶』がない。

 だからあなた達の顔も、物語のブラダマンテと、ロジェロの顔にしか見えない」


**********


 二人はアンジェリカの言葉に少なからず衝撃を受けたが、心の中で納得する要素があった。

 現にブラダマンテ、ロジェロともども――目の前に映る彼女の姿は、絶世の美貌を誇る異国の姫君そのものなのだ。

 もし彼女に「元の世界」の記憶があり、魂の名を覚えていたのであれば……アイや黒崎と同様、元の世界の顔で認識できなければ理屈に合わない。


「今の私の持っている記憶は、王女アンジェリカとしてのものと――

 この物語の世界が、何度も何度も繰り返されているという事だけ」


 「狂えるオルランド」の物語は、これまで幾度となく繰り返されてきた。

 それはすなわち、これまで幾人もの「ブラダマンテ」が物語の結末を迎えようとして失敗し――時間が、世界がリセットされたという事に他ならない。


「多分、だけど――私もかつては『ブラダマンテ』だったんだと思う。

 でも途中で失敗して……物語を進める役割から『退場』する羽目になったんでしょうね」


 アンジェリカの言葉に、アイも黒崎も魂の底から怖気がした。

 下田教授からは聞かされていなかった。もしこの物語を最後まで迎える事なく、冒険に失敗したら――自分たちがどうなってしまうのか。


「失敗しても死にはしない、みたいだけれど――

 私は美姫アンジェリカとして。物語を構成する『脇役』をあてがわれて、ずっとこの役目を繰り返すんだわ。

 誰かが結末を――ハッピーエンドを迎えない限り」


 ひょっとしたら、アンジェリカに成り代わった直後は、まだ元の「魂の記憶」が残っていたのかもしれない。

 だが物語が繰り返されるにつれ、何度も何度も「アンジェリカ」を演じる羽目になった彼女は……段々と元の世界の記憶を失っていった。

 今や自分が誰だったのかすら思い出せず、アイや黒崎の「魂」の顔も見えない。


「――どうしたの? 二人ともそんな怖い顔しちゃって。

 心配しなくても私は味方だから。あなた達にハッピーエンドを迎えて欲しいって、ちゃんと思っているから。

 あなた達は『魂の記憶』がある。だからまだ間に合うわ。二人で協力して――」


「……アンジェリカ!」


 アイは突如、アンジェリカの手を掴んだ。

 ひどく冷たかった。彼女の魂は凍えていた。今掴んでおかなければ、どこか遠くへ行ってしまう気がした。


「わたしと黒崎は、物語の結末を迎えて外に出たいと思っている。

 綺織きおり浩介こうすけっていうわたしの先輩も、この本の世界のどこかにいる筈だから、探し出したい。

 もちろんアンジェリカ、貴女もよ?

 一緒に協力して――この物語の中から出ましょ?」


 アイの呼びかけは、アンジェリカにとって思いもよらぬ話だった。

 まったく予想外の言葉にきょとんとして、彼女は目を白黒させている。


「え――? え――? ブラダマンテ、何を言って……?

 私に『魂の記憶』はないのよ?

 私はもう、アンジェリカとしての記憶しかない。

 元の世界の、誰かも分からない――死んだも同然の人間なのに――」

「馬鹿な事言わないでッ!」


 声を荒げ、アイは握り締める手の力を強めてしまった。


「ちょ……痛い! やめて!」

「ごめんなさい。でも――痛みを感じるでしょ? 貴女は生きてるわ。

 目の前にこうして生きている。死んでなんかない!

 たとえ元の世界の記憶を失っているとしても。二度と思い出せないなんて、誰が決めたのよ? そんな悲しい事……絶対にないッ!」


 司藤しどうアイの言葉は激しく、熱がこもっていた。

 冷えきったアンジェリカの魂に、ほんのわずかだが温もりをもたらした。


「――オレも、司藤しどうの意見に賛成だな」黒崎が言った。

「まだ望みはあると思うぜ。だってアンタは『外の世界』がある事を知ってる。

 外の世界からこの物語に迷い込んできたっていう記憶をまだ持ってる。

 つまりアンタの『魂』と、外の世界とを繋ぐ『糸』は――まだ完全には切れちゃいないって事なんじゃねえのか?」


 アイの炎のように暖かな心遣い。黒崎の控え目ながらも冷静な心遣い。


(――こんな事を言われるなんて、思いもしなかった。

 見ず知らずの私を、元の世界の誰でもなくなった私を――こんなにも気にかけてくれるなんて)


 ふと気がつくと――アンジェリカの目から涙が一滴ひとしずく、頬を伝わっていた。

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