第2話 青の良薬
彼女は正に絹の娘Ⅱ
プロローグ
城下町の教会直営の畑を管理する男やもめ、デズモンドは、次期領主の不可解な行動の数々に首をひねっていた。
そろそろ麦を撒こうかと思っていた春のある日、次期領主がいきなり畑にやって来て、
「悪いが、これからしばらく……麦の芽が育つ頃まで、俺の言うとおりに畑の管理をしてくれ。ここの神父と少し賭けをしてな。これから蒔く麦の芽が腐らなかったら、俺の勝ちなんだ」
と言い出した日から、全ては始まった。
前作の残りの麦わらを集めて焼けというのはまだわからなくもなかった。灰はいい肥料になるからだ。しかし、焼いた石灰と銅の顔料を同じ重さずつ量りとれと言われたり、量り取ったその二つを別々に水に溶かした後、五百倍の重さの水で薄めてから合わせろと言われたりしたあたりで妙だと思うようになった。果ては、そうして出来た真っ青な液体に、蒔くためにとっておいた麦を浸せというのだ。
「麦がおかしくなっちまいますよ、次期領主様」
さすがにデズモンドは次期領主にそう言ったが、
「稲の芽が出るまでは俺の言うとおりにしてくれ。そうだ、今日、道具屋から調達した骨の削り屑が届くから、麦を蒔くついでに、畑にそれを撒いてくれ」
と、さらにわけの分からない返事が返ってきた。
首をひねりながらも、デズモンドは言われたとおりにした。しかし、その効果はまったく信じていなかった。今作もどうせ腐って、大半が駄目になるに決まっている。
しかし半月後、デズモンドは驚くような光景を目にすることになる。
第一章 聞き分けの良い子供
「勉強はしているな」
「はい、父上」
「鍛錬はしているな」
「はい、父上」
「何事もなかったな」
「……はい、父上」
「ならいい。引き続き励めよ」
「はい……」
オーランドは目を覚ました。日光が窓から差し込み、小鳥の歌う声が聞こえていた。
珍しくあの悪夢を見なかったが、苦い夢を見たな、とオーランドは思った。助けて欲しい相手に、助けてくれと言えなかった夢。
領地の視察ばかりでいつも疲れている父親に、子供のことは連れ合いに任せておけば大丈夫だと信じ切っている父親に、とても言えなかった。自分と母親の間に、何が起こっているかなんて。
……やり場のない気持ちは、体を動かして発散すべきだ。オーランドは寝室にまで持ち込んでいる剣を手に取った。
早朝、剣を振るのは小さい頃からの日課だった。千回を振り終える頃には息が弾み、やりきれない思いも、なんとか振り払えるまでになっていた。
オーランドが汗を拭っていると、カーラの声がした。
『あのう、おしゃべりしてもいい?』
「何だ」
『他所の国がないってことになってるのに、戦うことあるの?』
「領地の反乱の鎮圧が主だな……そもそも、そんなことが起きないよう、普段から視察をきちんとしておくべきなんだが」
『でも、あなたは大丈夫じゃない? 領地の人に慕われてるみたいに見えるけど』
「……凶作が続けば、どうなるかわからん。一番食料が不足しないのは城だからな」
この前も、麦の芽が腐る病気がずいぶん出た。これがこの春もだと、城から援助を供出することになるかもしれない。
そこまで考えて、オーランドは不思議に思った。今よりも相当に人間が多かったという旧世界時代は、凶作にどう対応していたのだろうか?
「旧世界時代は、麦の病気はどうしていたんだ?」
『農薬……薬で予防したり治療したりしてたわ。人間と同じよ』
「薬? 麦にどうやって薬をやるんだ。だいたい麦の薬なんてあるのか」
『私の時代は色々あったわよ。種を浸けて消毒したり、植物体に直接撒いてかけたり。でも今の時代で使える農薬って言ったら、ボルドー液くらいかなあ……』
「ボルドー?」
そこへ、デリックがやってきた。どうにも浮かない顔をしていた。
「オーランド様、領主様がお呼びです。その……教会とのことについてだとか」
「……珍しいな」
現領主ローレンス・ガーティン。つまりオーランドの父親だが、膝を壊してからひどく老け込んでしまい、城の自室にこもっていることが殆どになった。オーランドとも顔を合わせない日が多い。周囲はオーランドの次期領主としての仕事ぶりを信用しているからだと思っているようだが、オーランドはあまりそう思っていない。
領主としての仕事だけしていたせいで、父親としての息子との向き合い方が、この年になってもよくわかっていないだけではないだろうか。
実践で使われることのない剣を振るのは、小さいことからの習慣で、父親の言いつけによるものだ。
オーランドは父親が五十になってから生まれた。遅い子供だったので、周囲にひどく大事に育てられた。道を外さないように周囲にひどく厳格に育てられた。
小さいオーランドに、領地の視察から戻って来た父親はいつも聞いた。
「変わりはなかったな? 勉強に励んでいるな? 鍛錬はしているな?」
と。
だからこそ言えなかった。変わりはないどころの話ではないなんて。近親相姦の罪を犯しているなんて。
父親はまめに領地に出向き、まめに領民の話を聞く領主だったが、それ故に城にいることが少なく、母親に城内のことは任せきりだった。
だから、余計に母親とのことは、周囲にもれなかった。
ガーティン家の暮らしは、質実剛健を旨としている。現領主の部屋も、それに則ったものだった。
華美な装飾などない、しっかりしたテーブルと椅子。そこに、オーランドの老いた父親は座っていた。
「おはようございます、父上」
オーランドがそう言うと、現領主は顔をしかめた。
「デリックから聞いたぞ。教会の地下に押し入ったそうだな」
「…………」
「教会と揉めることだけはしてはならん。次期領主として、それだけは肝に銘じておけ」
オーランドは、父親の姿勢に、ひとこと言いたかった。
「そんなことよりも、教会を壊したあの大きな鳥のほうが問題です、父上」
しかし、現領主は首を横に振るだけだった。
「教会と揉めるな。何かあっても、教会がなんとかしてくれる。わしはそれしか言えん」
「しかし……」
反論しかけて、オーランドはふと思った。この国に危機が迫っているというのに、こんなことを言うとは、父は現領主として、何か知っているのではないだろうか。
「父上、爆撃機という物をご存知ですか?」
「ばくげきき?」
現領主は、きょとんとした顔を見せた。それを見て、オーランドは悟った。
この七十代の老人は、この世界のことを何も知らないのだ。少し前のオーランドのように。そう思うと、父親のことがひどく小さく思えた。
「……何でもありません。教会とは揉めないように努力します。失礼します」
この領地を、この国をあの爆撃機から守るために頼れるのは、どうやら胸元の白い蛾に宿る旧世界の女だけらしい。
第二章 真夜中の授業
「オーランド様、中央協会から早馬が参りました……」
昼過ぎに、デリックからそう告げられたオーランドは、顔をしかめた。
内陸の街での一件。一応、消火団や周囲の領民に口止めはしておいたが、オーランドが教会の地下に立ち入ったことは、早々に中央協会の耳に入ったらしい。
「領地を離れてそうそう遠くに行けるか、と言っておけ」
「もうすこし柔らかい言い方はできませんか」
「次期領主として領地を守ることが最大の務めである、国王の命でない限り領地を離れ長く中央に旅することは出来ない、と返しておけ」
「あまり変わっておりませんな……」
「それより、港に人を手配する準備はできたか」
「はあ、素潜りの名人を何人かですな。一体何をされるので?」
「この間、海で煙が出ただろう。そのあたりの海に潜らせて調べさせる」
「一体何を調べさせるので?」
「この間の、教会を燃やした大きな鳥に関係することがあるかもしれないんだ」
「……? はい……」
デリックは、よくわからないと言った顔をした。
「オーランド様、火事の心配もよろしゅうございますが、いい加減、身の回りに下女の一人でも置いてはいかがですか」
「女はいらんと言っているだろう」
「女でなくとも構いませぬ、もう一人おそばに、どうか」
「何故そう勧める」
デリックは、ため息をついた。
「……このようなことを言うのは悔しゅうございますが、私も年でして、オーランド様のお側の世話をすべて行うのが、いささか厳しくなってまいりました」
オーランドは、言葉に詰まった。
確かに、デリックは父親とそう変わらない年だ。身の回りのことは何でもデリックに言いつけてきたが、老人を過酷に扱いすぎていたかもしれない。
「……悪かった。すぐにとはいかないが、考えておく」
デリックに悪いと思ったのは事実だったが、いまオーランドの頭を占めるのは、あの爆撃機のことだった。あんな爆撃機がいつまた来るか、そのことを考えると、ひどく恐ろしい。
前夜、カーラはこう語った。
『私の生きてた時代の情報になるけど、この世界の概要を教えるね。説明がしやすくなるから、まず私の言うとおりに、この世界の地図を書いてくれない?』
そう言われて、オーランドは紙を広げ、ペンを手に取った。
『真ん中に一本横線を引いて。この線の上が南、下が北ね』
『上半分のちょっと左よりに、平べったい逆三角形を書いて』
『その次は、逆三角形の左の辺にくっつけて正三角形を書いて』
『正三角形の下にくっつくかくっつかないかの所に、逆にしたL字の四角形を書いて』
『少し離れた右側に、最初に書いた逆三角形と同じ高さくらいに少し縦長な逆三角形を書いて』
『逆三角形の下の頂点に、左の角をくっつけた逆三角形をもう一つ書いて』
『最後に、空いてるところの、横線の下に楕円形を書いて。はい、出来上がり。すごくおおざっぱだけど、これがこの世界の地図』
オーランドは首を傾げた。
「この、三角やら四角やらの全部が国なのか? 全部に人が住んでいるのか?」
『私の時代には大体に住んでたわね。国の数は全部で二百近くあったなあ』
「二百!?」
いったい、旧世界時代はどれだけ人間が多かったのだ。
『流石に私も二百は覚えてないから、大きな国と大陸だけ簡単に説明するね。まず、一番最初に書いた三角形がユーラシア大陸』
「ユーラシア大陸……」
『ここの大きな国は中国と、ロシアかな。中国っていうのは、ものすごく人が多い国。絹が生まれた国でもあるの。住んでる人はモンゴロイドって言って、肌が黄色っぽい人たち』
「肌が黄色? 病気か何かか?」
どんな人間なのか、どうにも思い浮かばない。
『生まれつきよ。顔もあなた達と比べると、あっさり風味かな。私もモンゴロイドよ』
「お前も肌が黄色かったのか?」
『うん。で、ロシアと、二番目に書いた正三角形、ヨーロッパに住んでる人たちがコーカソイド。肌が白い人たちで、多分あなた達の遠い遠い先祖』
「ここが、か……」
オーランドは紙の上の正三角形に触れた。旧世界時代の自分の先祖は、どんな暮らしをしていたのだろうか。
『で、三番目に書いた逆さのL字が、アフリカ大陸。ここはコーカソイドとネグロイド……肌が黒い人が住んでるの』
「それも生まれつきなのか?」
『うん。太陽の光が強いところにずっと住んでたから、それに適応した結果。で、四つ目に書いた逆三角形が北アメリカ大陸。元はモンゴロイドが住んでたけど、私が生まれた頃にはいろんな人種が住んでる。で、私が生きてたときでは一番強い国の、アメリカがあるの』
「強いって、どう強いんだ」
『ピカイチの技術力。あと資源。この間来た爆撃機なんて、何百も何千も飛ばせるのよ』
「それは……強いな」
『で、その下の五番目の逆三角形が南アメリカ大陸。ここにもモンゴロイドが住んでる』
「最後に書いた楕円形はなんだ?」
『オーストラリア大陸。この大陸も、元はモンゴロイド……アボリジニの人たちが住んでたんだけど、いろいろあって……コーカソイドの人が多くなってたかなあ』
「ふーむ……俺達の国は、この地図のどこに位置するんだ?」
『それが、ぜんぜん手がかりがないのよねえ……あ、あなた紅茶飲んでたっけ、それって何処産?』
「どこででも取れるが……サウザンの紅茶が有名だな。」
『お茶の栽培限界は確か東北あたりだったから……うーん、今の季節の温度も鑑みるに温帯か亜熱帯くらいかなあ』
「どこだそこは」
この女と話していると、訳の分からない言葉ばかり出てくる。
『えーと、真ん中に引いた横線ね、赤道っていって一番熱いあたりで、紙の上下が南極と北極で一番寒い所なんだけど、温帯っていうのは両方から程よく離れた暮らしやすいところ。お茶の木ってある程度あったかい所……温帯か、もう少し赤道に近い亜熱帯じゃないと育ちにくいの』
「というと、俺たちの国はこの線の上下近くの何処かなんだな? サウザンはここより暑いから、多分この、赤道とやらの上の方か?」
『今のところそれで矛盾はないんだけど、問題なのは私の生きてる時、こないだ教会のモニタで見たような大きな大陸も島もなかったってことなのよね』
「お前が死んだあとに出来たんだろうか?」
『そんなに簡単にできるものじゃないと思うんだけど』
「しかし、位置がわからないと困るな。あの爆撃機、おそらく一番近くの国から来たんだろうが、どこから来たのかまるでわからん」
『あ、でも、飛行機を載せられる船もあるし、近くとも限らないのよ』
「そうなのか? そんなものまであるのか……」
『攻撃した爆撃機の破片でも拾えれば、手がかりがあるかもしれないけど』
その言葉に、オーランドはしばらく腕組をして考えたが、やがて言った。
「……人を出そう。煙が立った所までくらいなら、船を出せるはずだ」
何かが拾えればいい。何か拾えれば、あの爆撃機がどこから来たのかわかるかもしれない。一見してわからなくても、このカーラに聞けば……。
オーランドはふと、この白い蛾に宿る声にひどく助けられていることに気づいた。彼女がいなかったら、毎夜続く悪夢に敗北し続けるままだったし、飛行機の存在を知ることもなかった。そして……オーランドの領地は、この国は、次々と襲い来る爆撃機に蹂躙されていただろう。
オーランドは、胸元の白い蛾に触れた。
「……幸運のお守り、か」
これを自分に買うよう勧めた、あの巻き毛の少年には、感謝しなくてはならないかもしれない。
第三章 カストラート
その日、オーランドはデリックを連れて城下の教会に赴いた。日曜日の礼拝に出るだけでなく、城下の視察を兼ねている。
心配症の老人は、馬を降りて教会に入る段階から、すでに気を揉んでいた。
「オーランド様、くれぐれも神父様と揉めませぬよう」
「俺は揉める気はない。俺のすることに文句をつけるのは、だいたい教会の方……」
その時、後ろから声がかかった。
「次期領主様!」
オーランドが後ろを振り返ると、少年が二人いた。恐ろしく貴重な白い絹をあしらったその衣装は、領地内からよりすぐった声の聖歌隊の少年たち、ほんのわずかな間しかその歌声を発揮できない少年たちにのみ許されるものだった。
つり目の少年が名乗った。
「あのっ、次期領主様、俺、ハーヴィー・パーキンズと言います。こっちはニール・エイミスです」
少年二人のうち、声をかけてきたのはつり目の少年らしかった。もう片方、うつむきがちにつり目の少年の影に隠れている巻き毛の少年に、オーランドは見覚えがあった。
「お前、俺にお守りを売りつけた子供じゃないか。あれは役に立っているぞ。あの時の元気の良さはどうした」
『わーい、私お役立ちー!』
カーラの声が聞こえたが、オーランドは無視した。そう言えば、この白い蛾をつけて教会に入るのは初めてだが、女人禁制のこの場所に、こいつを連れて行っていいのだろうか。
巻き毛の少年は、何か思い悩んでいるように、さらにうつむいてしまった。
「あの……その……」
巻き毛の少年は、うつむいたまま、つり目の少年の袖を引っ張った。
「やっぱりいいよハーヴィー、次期領主様にご迷惑かけちゃ……」
「何言ってるんだ、決心つかずに毎日べそべそしてる奴が。もう次期領主様に頼るしかないだろ」
オーランドは首を傾げた。
「どうした、何の用だ?」
つり目の少年は、意を決したように言った。
「あのっ、次期領主様は神父様よりえらいですよね!?」
「は?」
質問の意図がつかめない。オーランドはさらに首を傾げたが、一応こう答えた。
「今は俺が領主としての務めをしているが、現領主はまだ俺の父親のローレンス・ガーティンだ」
「そっ、それでも次期領主様のほうが神父様よりえらいですよね!?」
「神父になにかあるのか?」
つり目の少年が何か言おうとした時、教会の鐘が鳴った。オーランドは言った。
「ほら、礼拝の時間だ、お前たち、早く行かないと遅れるぞ」
「……はい……失礼しました」
つり目の少年はまだ何か言いたげだったが、オーランドに向かって一礼し、巻き毛の少年を促して教会の方へ駆けて行った。
礼拝が始まり、聖歌隊が歌いだした。
光なる君の 共に在しまさば
眼を暗ます 暗闇はあらじ
御助けあらずば 生き行く術
主 共に在さずば 死は実に恐ろし
乏しきを富まし 悩むを慰め
病めるを安けく 憩わしめ給え
独唱の節になり、ひときわ澄み渡るような歌声が響いた。
目を覚ますごとに まず恵み給え
永久の朝 目覚むる時まで
カーラが囁くように言った。
『あ、あの子、さっきの子じゃない?』
独唱しているのは、先程の巻き毛の少年、ニールだった。たいして音楽には詳しくないオーランドが聞いても、よく通る素晴らしい歌声だった。
歌声を堪能するだけで終わればよかったのだが、憂鬱なのは礼拝が終わってからの後のことだった。城下の教会は中央協会と近しい。中央教会の呼び出しを断ったせいで、今度は浄化の教会の神父を通して文句を言われるのだろう。
案の定、礼拝が終わって人が去り始めた頃、神父がオーランドに近づいてきた。
「次期領主様、領地の視察に熱心で、領民の声を聞いてくださるのは、大変結構なことですが、教会の意向も聞いていただきませんとな。港で何か変わった物が見つかれば、すぐ中央協会に持ってくるようにと早馬が来ております」
「聖書には、変わったものを教会に捧げよとは書いていないがな」
デリックがとりなそうとするのをよそに、オーランドと神父は、しばらく睨み合った。やがて神父が目を逸して言った。
「……まあ、変わったものが見つからなければ、それでよろしいのですが。平穏無事が何よりです」
「ところで、聞きたいことがある」
「何でしょう」
「さっき、聖歌隊で独唱していた子供がいただろう」
神父の表情がぱっと明るくなった。
「次期領主様も、あの歌声に気づかれましたか! あの少年、素晴らしい歌声でしょう、あの歌声を長く聞き続けたいものです」
少年の歌声は、ほんのひと時の間だけ許されたものだ。長く楽しめるものではない。オーランドは不思議に思い……次の瞬間、あることに勘付いた。
オーランドは言った。
「……素晴らしい歌声の少年だ、さぞ立派なテノールの持ち主になるだろう」
「…………」
神父は、やや顔をしかめた。オーランドと神父の間に、何とも言えない緊張感が漂った。
カーラも何かを勘付いたようだった。
『ひょっとして……まさか、あの子が泣きそうな顔してたのって……まさか、カストラート……』
返事の代わりに、オーランドは白い蛾に触れた。
「……少し、さっきの二人と話したい。デリック、呼んでこい」
第四章 青の良薬
教会といえど、歌声目的で少年を去勢することは出来ない。出来ないが、不慮の事故で睾丸を失った者か、自ら望んで去勢した者は別だ。
「こいつ、自ら望んで去勢するのだったら、今後の一生の生活を保証できるって神父様に言われてるんです」
教会の裏で、つり目の少年、ハーヴィーはそう語った。ニールは相変わらずハーヴィーの影に隠れていた。
そのニールに、あえてオーランドは声をかけた。
「で、お前は望んでるのか?」
ニールはうつむいた。
「……断ったら、神学校にいられなくなります……。僕は、神学校を出たら身寄りがいないんです」
「望んで去勢する割には、ずいぶん威勢のない顔だな」
ニールの瞳に、じわりと涙が浮いた。
「……ぼくは……」
周囲の期待。自分がそうあるべきもの。ひどく息苦しいものだ。けれど小さく無力な子供は、期待を裏切ると言う選択肢がないのだ。叱られたくなかったら。捨てられたくなかったら。
けれど……それは、自分を殺すことだと、オーランドは思う。そうして自分を殺し続け、がまんし続けて、その果ての自分は、毎夜毎夜……。
ニールの両肩に、オーランドは手を乗せた。
「おい、ニールとやら。よく聞け。お前は周囲の期待に答えることが最良の道だと思ってるだろう。だが、それは違う」
ニールはオーランドを見て、目を見張った。オーランドは大きく息を吸い、そして言った。
「いいか、お前の身体は、お前自身のものだ。それ以外の誰のものでもない。絶対に他の者に自由にさせるな。周りの言うことを聞いて……周りの期待に沿って、自分の体を差し出してしまったら、お前は一生、後悔することになるぞ」
教会の裏から少年二人を連れてきて、いきなりニールを引き取ると言い出したオーランドに、神父は当然のごとく反発した。
「いくら次期領主様とは言え、神学校の生徒はお渡しできません。神の教えを広めるための人材です。ましてや彼は聖歌隊に欠かせない存在なのですから」
デリックも言った。
「オーランド様、たしかに私はもう一人お側に置いてはと言いましたが、貴族の子弟が適切なのであって……神学校の生徒とは言え、みなし児を連れてきてほしかったわけではありませぬ」
何を言われようと、オーランドは引き下がる気はなかった。しかし、前例のないことなのは確かだ。何か、交渉の材料はないか……。
オーランドは思い出した。麦の芽が腐る病気。教会直営の麦畑では、特にひどかったそうだ。ここ何作も、教会の麦畑は腐りっぱなしだとか。
カーラは、今の時代でも麦の薬はあると言っていた。オーランドは、胸元の白い蛾に触れた。
そして言った。
「……教会直営の畑の麦の芽を、今作では腐らないようにしてやる。腐らなかったら、ニール・エイミスをこちらに引き取るぞ」
神父は、何を馬鹿なことを、と言う顔つきになった。
「腐るか腐らないかは神の思し召しです、いくら次期領主様と言えど、自由になるわけがありません」
「では、腐らなかったら神の思し召しだ。ニールを引き取ることに文句は言わせんぞ」
そう言い放って、オーランドは後ろについてきていた少年二人を振り返った。
「というわけだ、麦の芽が出るまで、すべての決断は待て」
ニールはおどおどしながら言った。
「で、でも、麦の芽を腐らせない方法なんてあるんですか?」
「……お前が売ってくれたお守りは、本当に役に立つよ」
「え?」
ニールはきょとんとした。
城下の街から林道を抜けて、少し馬を走らせた所に教会直営の畑はある。
オーランドが教会を出て、畑の様子をまずは見ようと馬に乗ると、さっそくカーラが話しかけてきた。
『ねえ、まだ畑に麦は蒔いてないのね?』
後ろを、やはり馬でついてくるデリックを気にしながら、オーランドはささやいた。
「まだのはずだ。蒔く前から準備がいるのか」
『うん。まず前に作った麦の残渣……麦わらとかが畑の隅に意外と散らばってると思うから、集めて全部燃やして』
「燃やすのか」
『病気の麦をそのままにしとくと、そこから次に蒔く麦に病気が伝染るの』
「そういうものなのか」
『それから硫酸銅と生石灰を調達してほしいの、銅のそばによくある青い鉱石と、石灰石を焼いて粉にしたもの』
「調達は出来るが、そんなものどうやって使うんだ」
『それを同じ重さずつ水に溶かして混ぜて、ボルドー液を作って、蒔く用の麦を浸けて消毒するの』
「それで稲の芽が腐るのを防げるのか?」
『たぶんね』
「たぶんじゃ困る」
『科学者のタマゴとして、絶対っていう言葉はよっぽどのことじゃないと使えません。あ、溶かして混ぜるときも細かい調整が必要だから、あれこれ口出すからね』
馬上のデリックが、不思議そうにオーランドを見た。
「オーランド様、いかがなさいましたか」
オーランドはあわてて胸元の白い蛾を服の中にしまった。
「何でもない。デリック、疲れている所悪いが、あとで色々調達してほしいものがある、頼むぞ」
終章 麦畑にて
半月後。
青々とした芽が茂る麦畑を前に、オーランドは神父へ宣言した。
「では、このニール・エイミスはこちらに引き取らせてもらおう」
神父は、信じられないという目で目の前の畑を見ていた。ニールも目を丸くしていた。そんなニールを、着いてきたハーヴィーが小突いた。
「ほら、もっと嬉しそうな顔しろよ! 今日からお前、次期領主様の側仕えなんだぜ!」
畑の管理をしている男が、それは嬉しそうにオーランドに言った。
「この畑に、こんなに健康な芽が育つなんて、ここ何年もなかった事ですよ! 一体どんな魔法を使ったので?」
オーランドは答えた。
「魔法も何も、麦を消毒したのはお前だろう」
「あっしは、ただ次期領主様の言うとおりにしただけです」
「俺も言われた通りやっただけだがな」
「へ? どなたに言われたので?」
「いや……何でもない」
オーランドは頭を掻いてごまかした。
「それよりもだ、うまく行けば、この麦畑はよその麦畑よりよく育つぞ。一緒に蒔いた骨の削り屑が効けばな」
「へえ!? あれにはそんな効果があったので!?」
「あるらしい。ここがうまく行けば、よその畑でも試させるつもりだ」
オーランドは胸元の白い蛾に触れた。
数年後には、道具屋から出る骨の削り屑は、ごみから一転して高値で取引されるようになり、取り合う農家たちの扱いに四苦八苦するとは、オーランドは知る由もない。
その時の自分の胸元に、同じように白い蛾がぶら下がっているかなどということは、さらに知る由もなかった。
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