空っぽ未満の少女
シン
01 記憶喪失
何故自分が記憶喪失だと判明したかと言えば話は単純で、目醒めた時には病室で記憶障碍だと診断されていたのだ。事実、自分が子供の頃の記憶・・・というか数日前の出来事が思い出せない。それ以外は体に不調は無く、強いて言えば少し鼻が詰まるが、鼻詰まりと記憶喪失が関係しているとは考えにくい。
記憶喪失の多くは、ある一定の記憶のみを失う。つまり言葉が喋られなくなったり、二足歩行のやり方を忘れてしまったりという事は無く、日常生活に必要な行動は何一つ不自由しない。但し、副産物的に不自由な事、というか面倒な事も多い。なまじ喋れたり歩けたりは可能なので、一見するだけでは常人と何ら変らないから、記憶喪失である事を他人にいちいち説明するのが非常に面倒なのだ。何故ならば、記憶を失っているのだから、どういう経緯で、例えば頭部に強い衝撃を受けたとか、強い薬を飲んだとか、そういった事も忘れて仕舞っている訳で、記憶喪失に陥った原因を語る事が出来ないのだ。
記憶喪失の知らせを受けて新幹線、電車、バスを乗り継いで遠方から大慌てで駆け付けた両親と二歳下の妹についても、俺はさっぱり誰だか判らず、その反応を見て両親は落ち込んだり不安がったり、本当に記憶が戻るのかと医師に執拗に聞いたりしていた。若い分、柔軟性があるのか、妹は入院に必要そうな着替えだのタオルだの歯ブラシだのといった日用品を買って来てくれていた。
「ありがとう」
妹に礼を言うと
「おぉ、記憶が無いと随分素直だね。なんか新鮮」
と何処かこの状況を
「いや、別に仲が悪い訳じゃないよ。ただお兄ちゃんに“ありがとう”なんてストレートに言われる亊ってあんまり無かったから、少し面白かっただけ」
「影利、何でこんな事になったの?倒れた時、何をしていたとか、そばに誰か居たとかそういう事も何も分からないの?」
一方で母親は此れ以上無いという程心配そうに矢継ぎ早に質問を投げ掛けて来た。父親は落着いているが、矢張り其の目は不安そうだった。
不幸な亊に俺が記憶を失う瞬間に立ち会った人間は居ないらしい。俺が気を失って(その際に記憶も喪失したと思われる)次に目覚めたのは病室だった。
救急車を呼んで俺を病院へ連れてきたのは同じ大学で同じ研究室に在籍する斉藤という男であったが、斉藤が俺を発見した時、俺は既に気絶していたのだという。所属する研究室の教授の部屋で。
教授は出張中だった為、そもそも何故俺が教授の部屋で倒れていたのか、其の理由すら
其れでも理由を斉藤の話から推測するならば、一つには教授の部屋に在る参考資料を閲覧するために教授室に入ったとか、或は、準教授である十川先生と研究について相談する為だとか、いくつか理由は考えられるし、特別不自然な事でも無い様に思う。とはいえ、俺はその教授も準教授も覚えていないし、その状況から記憶喪失に至る道筋は検討が付かないが。
俺や斉藤が所属する研究室は心理学と哲学を織り交ぜたような、理系とも文系とも言える様な言えない様な、何とも微妙な立ち位置の研究室らしい。自分が選んだであろう研究室を微妙と表するのも如何な物かと思うが、其れに幾ら思いを巡らしても、俺の脳味噌は我関せずと言わんばかりに一向に記憶を恢復させてはくれない。
研究室は教授の姓を取って山本研究室、通称「山研」と呼ばれている。
山研の名前を出すと他学部どころか同学部の他研究室からも奇異な目で見られるのが常であり、一説には怪しい宗教絡みの研究室だの、オカルト研究室だのと呼ばれているらしい。自分の事とはいえ、記憶を失う前の俺は何を思ってそんな怪しい噂が
まぁ、斉藤の話を聞く限り、世間で吹聴されているほど怪しい所ではないらしいし、斉藤自身も信用できる人間の様に思われた。
というのも、入院以降、斉藤は今もこうして俺の見舞いに病室へ足を運んでくれているからだ。入院初日に見舞いに来てくれた斉藤は、見舞いのタイミングが重なった俺の家族とも顔を合わせており、其れなりに俺の入院に至る事情を家族に説明してくれた。彼の口調から察するに、俺と斉藤はそれなりに親しかった様である。そのせいか、家族も斉藤の善意に信頼を寄せた。両親と妹はそれぞれ仕事や学校があるから早々に帰路に着かなければならなかったので、この信頼出来そうな男の存在は幾分俺の家族、特に母親の心配を和らげた様だった。「どうぞよろしくしてやって下さいね」と最後まで不安を口にしながら、母親を初め、俺の家族は帰路に着いた。
入院二日目にも斉藤はやって来た。どうやら研究室からこの病室まではそう遠くないらしい。
大学の授業は高校までとは異なり、みっちり一日中授業を受けることは少ない。単位さえ足りていれば四回生ともなるとほぼ授業は無く、研究室に籠り、実験をしたり調べ物をしたり論文を書いたりというスタンスの様だ。変人の巣窟と言われる山研ではあったが、その辺りは他の研究室同様ラフな雰囲気らしい。
「うちの研究室はコアタイムも無いからな。時間は比較的自由が利く。十川先生なんかも“一之瀬の身の回りの面倒を見てやってくれ”なんて事を言ってたぞ。まぁ、必要な物やら何やらで用事があったら遠慮なく言ってくれ。出来る限りのことはしてやるから。にしても、お前も災難だな。記憶喪失とは。脳について考えてる研究生が記憶喪失なんて、紺屋の白袴というか医者の不養生というか」
斉藤は笑いながら言った。
「僕らが考えているのは脳じゃなくて心じゃないんですか」
なんとなく質問した。最初の説明では心理学とか哲学とか言う言葉で説明されたように思う。
「まぁ其れはそうだがな。でも考えてみろよ。心なんてのは結局ほとんど脳の中に詰まってる訳だろ。そうなってくると心理学と脳科学は密接な関係にあるんだよ。だから心理学をやるなら脳科学の知識も必要だし、哲学の話も出てくる。さらに言えば個人が育った文化的な背景や土着の風習なんてのも個人の心の形成には大きく影響してる筈だ。だから学問として一括りにするのは難しい分野なんだよ」
それから、同回生なんだから敬語で喋るなよ気持ち悪りぃ、と斉藤は付け足した。そう言われても、斉藤から見れば俺は親しい友人かもしれないが、俺からすればほとんど初対面の状況である。それでもここ三日ばかり斉藤が病室に来てくれるおかけで、大分まともに話せるようにはなったし、自分の置かれている状況を把握するには斎藤の存在は大きい。そういう感謝の意もあって、つい畏まって敬語で話してしまうのだが、其れが如何やらムズ痒いらしい。
「そういえば永子も随分心配してたぞ。明日くらい見舞いに来るんじゃないか?」
永子というのは、これまた山研の同期である中野永子の事で、俺と永子は端から見れば中々に親しい仲だったという。事実交際していたのかもしれないと思ったが、斉藤はニヤニヤしながら核心的なことは何一つ語らず、
「本人に訊けよ」
の一点張りである。この場合、交際関係にあったとしても、そうでなかったにしても「貴女は僕の恋人ですか」などという
その後斉藤は俺の着替えやら
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