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●テクストと翻訳

Docet ille DOCTOR SUBTILIS in *Quaestionibus super libros de anima* quod cognoscimus enim singulare, et ponit duplicem rationem secundum duas auctoritates : primo, secundum PHILOSOPHUM in II *Posteriorum*, sicut cognoscimus in syllogizando conclusiones, ita principia inductive ; sed inductio est processus a singularibus ad universales, discurrere autem pertinet nisi ad intellectum humanum ; sic ergo cognoscimus singularia. Secundo, secundum AUGUSTINUM in X *De Trinitate* 3, non possumus amare ea quae non cognoscuntur ; amamus autem prius singurale quam universale ; amor enim quis se habet ad universale videtur sequi amorem quis se habet ad singulare ; ergo singulare cognoscimus.


『デ・アニマ問題集』における、かの精妙博士の学説 1) は以下のように教示している。実際に私たちは単一的なものを認識している。彼は、二人の権威に基いて、二通りの論拠を措定している。第一に、『分析論後書』第二巻 2) における哲学者によれば、三段論法することにおいて私たちが諸々の結論を認識するように、もろもろの原理を帰納的なしかたで認識する。ところで、帰納とは単一的なものものから普遍的なものものへの進行であって、しかもそのように進行することはただ人間知性にのみ属する。したがって、その限りで、私たちの知性は単一なものものを認識する a)。第二に、『三位一体論』第十巻第三章 3) におけるアウグスティヌスによれば、私たちは認識されていないものものを愛することはできない。ところで私たちは、普遍的なものを愛するよりも先に、単一的なものを愛する。実際、普遍的なものに対する愛は、単一的なものに対する愛に後続しているように思われる。したがって、私たちは単一的なものを認識している b)。


  1) 訳註。Duns Scotus, *Quaestiones super secundum et tertium de anima}*, q. 22, nn. 18-19 (OPh. V, 231-232).

  2) 訳註。Aristoteles, *Analytica posteriora* II, c. 19 (*Alistoteles Latinus* IV(2) 182; B, c. 19, 100b3-5).

  3) 訳註。Augustinus, *De Trinitate* X, c. 3 (CCL, 50, 315, PL, 42, 975).


●註釈

a) この段落の二つの議論は、いずれも、そこにおいて魂についての研究が進められるところの、アリストテレスの『デ・アニマ』に対してドゥンス・スコトゥスが註解を施した著作である『デ・アニマ問題集』に基づくものである。第一の議論は、アリストテレスのオルガノン 1) の一部を為す『分析論後書』に基づいている。ここでの議論は「帰納」が問題となっている。帰納とは、人間の知性の働きの一種であり、例えば、今まで見てきた個々のカラスが全て黒いことから、「すべてのカラスは黒い」という命題を導くことである。「すべてのカラスは黒い」という命題は、(カラスのアルビノを考えるならば)偽であるがように、帰納によって導かれた命題は必ずしも真であるわけではない。今までに見てきたエメラルドが全て緑色であったからといって、「すべてのエメラルドは緑色である」と主張することは必ずしも真ではない。次に見ることになるであろうエメラルドが青色でないことは、いかなるしかたでも根拠付けられていないからである。


  1) 訳註。アリストテレスの著作群のうち、とくに、論理学を扱うものと伝統的に考えられてきた著作(『カテゴリー論』、『命題論』、『分析論前書』、『分析論後書』、『トポス論』、『詭弁論駁論』)は、ひとまとめにして「オルガノン」と呼ばれている。


 しかしながら、帰納は現代の自然科学において重要な役割を果たしていることは疑い得ない。は、様々な個別的な現象と、一つの普遍的な理論とを結びつける、重要な帰納的な道具であるだろう。このとき、私たちは実際にやの現象を、すなわち個別的な現象を観察しているのでなければ、帰納によって普遍的な理論へと至ることは出来ない。ドゥンス・スコトゥスが取り上げ、無名氏がここで引き継いだ論証はこのようなものである。現に帰納的な推論を行うことが出来ているならば、個別的な存在者を認識しているのでなければならない。したがって、私たちは個別者を認識している、というわけである。なおここで「そのように進行することはただ人間知性にのみ属する」(« discurrere autem pertinet nisi ad intellectum humanum ») というのは、推論的な知が、天使や神と比べて劣った知性を持つ人間に固有なものである、ということを意味している。

 知識として知っていることと、その知識の内実が実際に立ち現れて感じられることとの間には大きな隔たりがある。彼が学んだドゥンス・スコトゥスによれば、この世界に現実に存在しているものはすべて個別者である。個別者のみが、現実に存在することを許されている。彼はそのことをはしていた。理論としては知っていたのだが、彼がこの「第二問題」の解答部分の執筆に取り掛かったとき、それが実践的なしかたで分かった、あるいはのである。「存在するものすべてが個別者である」という、ことばにすれば自明でありつつも、誰もがみなことがらを、彼は見てとったのである。このは、花が咲くような感覚であった。石も、花も、人間も、すべて個別者である。花を愛でる人は、目の前にある花を愛でているのであり、誰かを愛する人は、手を取り、触れ合うことのできる人を愛する。誰もがみな個別者と肩を並べ、個別者とともに生きている。この発見に、無名氏は大いに歓び、打ち震えた。かの精妙博士もまた、この真理を彼の偉大な『オックスフォード講義』に記したとき、同じ感動に打ち震えたに違いない、と無名氏は思った。

 川を流れる水の一滴一滴、風に鳴る木の葉の一枚一枚、空に散りばめられたどの星も、地に蹲るどの石も、神の創ったこの世界はすべて個別者からなっている。パリの街を行く醜い群衆の誰もが個別者であり、彼らがという事実は、無名氏には「第二問題」の完成を前もって祝福しているかのように思われた。彼は希望の眩しさに酔いしれた。彼は『詩篇』から二、三の詩を朗誦し、造物主を讃えた。その際、彼の喉を通じて漏れ出る音すべてが、彼をいっそう酔わしめた。光! 希望は光であり、神が私を照明してくださっている、と無名氏は思った。無名氏は、創世の第一日を思った。無限の色を包含した光に照らされ酔った無名氏は、かのような感覚を抱いた。彼の時は緩慢になっていった。彼はそれを、神の恩寵によるものだと理解した。


b) 第二の議論は、おそらく第四段落で意図されていたであろう、アウグスティヌスの『三位一体論』、とくに第十巻に基づくものである。ただし、アウグスティヌスの意図は、個別者への愛というよりはむしろ精神の自己知の探求へと向けられている。『デ・アニマ問題集』におけるスコトゥスの主張は、アウグスティヌスの「知られていないものを愛することはできない」という点に基づいている。私たちは、第五段落における無名氏の問題の整理を見るまでもなく、素朴な直観によってそのことを理解している。会ったこともなく、その人の噂を聞いたこともなく、名前さえ知らない人間を、私たちはどうして愛することができるだろうか。愛しているということは、知っているのでなければならない。

 ここにはある種の循環が認められる。私たちは第二問題において、当初、「ある人は個別者を愛することができるか」という問題を問うていた。そして、第五段落における無名氏によれば、その問題は「個別者を個別者として認識することができるか」という問題へと回収され、この第二の認識に関する問題が問われることになる。そして第八段落のこの箇所で、アウグスティヌスが引かれ、「私たちは現に個別者を愛しているのだから、個別者を認識しているのでなければならない」と結論付けられる。こうなると、(表面上は)「私たちは現に個別者を愛しているのだから、個別者を愛することができる」という無意味な推論が行われているように見える。しかし実際のところそうではない。無名氏によって問われている「個別者への愛」は、何度も見られたように、個別者そのものへの愛であり、無名氏が彼の愛する人に対して抱いていると信じているところの不変不朽の愛である。他方で、アウグスティヌスを引いて語られているのは、それほどまでに強力である必要はなく、私たちが日常的な言語で語る際の愛で十分なのである。無名氏は何も語ってはいないが、彼はさしあたりこの二つを区別して論じようとしていたと思われる。それゆえ、彼は一見すると何も新しいことを結論付けないような推論を、何の抵抗もなく述べているのである。

 無名氏は、彼の愛する人にパリの街中で出会うたびに、アウグスティヌスの『三位一体論』の該当するテクストを思い出した。「誰も、知らないものを愛し得ないのに、どうして自己を愛しようか」。噛みしめるようにして繰り返す。「誰も、知らないものを愛し得ないのに、どうして人を愛し得ようか」。彼の隣にいる女性は、現実に存在しているのだから、個別者、人間である。そして彼は、パリの街の鬱陶しい群衆から間違いなく彼女を探し当てることができる。それは、茶色く枯れ萎れた花束の中から、瑞々しく色鮮やかに咲く花を探し出すほど容易であると、彼には思われた。実際、視界の端に彼女がすこし映っただけで、愛する人を愛する人として認識することができたのである。そのことに、彼は強い満足を覚えていた。その認識は、たとえ感覚能力に大きく依存するものであるとしても、個別者認識が現に可能であるということを強く示唆するものだからである。

 彼の時の流れは緩慢になっていた。彼は依然として「時間の男」と呼ばれるに値するような生活を送っていたが、無名氏は、彼自身の僅かな変調に気がついていた。眩い光に包まれ、恍惚とした酩酊感を味わってからというもの、彼は腹の底から、焦れるような居心地の悪さが生じてくるのを感じていた。ときおり、周囲の人には気付かれないような、小さなズレのようなものが生じていた。彼は、朝、目が醒めた時には、これまでなかったような倦怠感を感じたし、夜、眠りに就く時には、これまでほとんど見ることのなかった高さの月を見た。無名氏は酔い呆けた頭で星の輝きも、花の色も、雨の音さえも、すべてが祝福であると思考していた。「第二問題」の輝かしい完成を間近にして、急いで至福の世界へ通ずる扉の鍵を開けねばならないと焦っているのだと、無名氏は考えた。しかし、彼に訪れたさまざまな変調は、決して善きことごと来たれり、ということを伝えるところの希望ではなかったのである。むしろそれは、その反対に、彼にもたらされる絶望の前触れであった。無名氏の理性はそのことにまったく無頓着であったが、彼の生を潜在的に、しかし決定的なしかたで根拠付けていたところのは、おそらくそのことに気がついていたであろう。彼の内なる時計の変調は、紛れもなく、彼に絶望がもたらされることを察知していた憂鬱によるものである。

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