第6話 寄らば斬るのみ
宗二郎は校舎の階段を下り、人気の無くなった廊下を一人歩く。
少し遅くなったが、今から真っ直ぐに帰れば妹に伝えたころには家に戻れるだろう。
これ以上何事も無ければ、ではある。
だが、得てしてこう言う時ほどなにかが起こるものである。
「おや、そこに居るのは宗二郎じゃないか?」
「緋織さん」
横合いから、宗二郎は聞き覚えのある声に呼び止められて立ち止まった。
顔を確認するまでも無く、声の主が誰だか分かった。
それ程、彼女は印象深かったと言うことではある。
果たして、階段の踊り場には緋織が立っていた。
緋織は明代の制服を着ており、今朝とは受ける印象がまた異なった。
彼女は階段を上って宗二郎の方に近寄って来た。
「どうした? また迷子にでもなったのか?」
「またってなんですか、僕は迷子ではないと言いましたが」
「いやだって、新入生の校舎はアッチじゃないか。なんでこんな所にいるんだ?」
緋織は指で窓の外を指し示す。
「……えっと、あの。それは、ちょっとボンヤリしていたようで」
「危なっかしいヤツだな、君は」
彼女はふふっと笑みを浮かべる。無邪気な笑い方だった。
「む、その評価は大変不本意です」
事実無根な言い草に、宗二郎は思わず反発した。
「そう思うのなら、もっとちゃんとしなさい。意地悪な上級生に絡まれても知らないぞ」
「現在進行形で絡まれているので、遅いです」
そう反論すると、彼女はカラカラと笑う。本当に良く笑う人だ。
「ははは、そうだな。それは悪かった」
今日は部活動も無く上級生の授業も半日で終わりなようで、新入生でなくとも学生は皆それぞれ帰宅している。だから今はもう校舎に生徒の影はほとんど見当たらなかった。
「緋織さんこそ、何故まだ校舎に残っているんですか?」
「帰ればきっと鬼のように怒った千尋が待っているに違いない! アイツ、今朝の事でまだ怒っているんだ。学校にいる間は何も言われなかったけど、間違いなくあれは怒っていた……」
「それは、なんともご愁傷様です」
「うん。でも、丁度人が居なくなって寂しくなったと思ってたところなんだ。良い時に現れたな、宗二郎。一緒に帰ろうか」
「ええ、それくらいなら構いません」
宗二郎はその申し入れを快諾した。
「それじゃあ、行こう」
校門を出てからふと思い出したように緋織が疑問を口に出す。
「そう言えば宗二郎の家はどっちだ?」
「僕ですか? 僕は県内の通学ですよ」
「ああ、そう言う生徒は多いからな。かく言う私も県内だが」
とは言う物の、住所が市内ではないので電車での通学らしい。
「では駅までは一緒ですね、通り道ですし」
てくてくと、今朝通った桜並木の通学路を歩く。
「しかし電車での通学は暇なのがなぁ、どうにも。……一駅しか離れてないケド」
「学生らしく勉強でもしたらいいんじゃないですか?」
「ははは、宗二郎は面白い事を言うなあ」
至極もっともな意見のつもりだったのだが、そんなに変な案だったろうか。
「考えても見ろ、あんな狭い空間に老若男女の人間がひしめき合っているんだぞ。落ち着いて集中何て出来ると思うか? いや出来ない」
と、緋織は断言する。
「良く車内で化粧を直す女性を見かけるが、あれは勇者だよ。私にはとても出来ない」
「いや、流石に満員の時はそんな事しないんじゃないですか? 僕は見たことがないので確実な事は言えませんが」
「同じことだ。要はその気骨にあふれている精神を評価しているんだからな」
宗二郎にはよく分からないがそう言うことらしい。
それは彼が男だからだろうか、いやたぶん違うだろう。
他愛のない話をしていると月極の駐車場を境に桜並木が終わり、十字路が現れる。
「おっと、駅にはこっちの方が近道だ」
彼女はそう説明して大通りから外れた、比較的人気のない細い裏路地に続く道を指さす。人気のないと言っても、今は平日昼間なのでその所為も有るだろう。
一軒家が連なる住宅街で、家の中からも人の気配はあまり感じられない。住人が仕事で家を空けているのだと思われる。昼時なのに料理の音もあまり聞こえてこない。
「何時もこんな人気のない道を一人で帰っているんですか?」
「いやまさか。普段は千尋と一緒に──」
緋織の言葉は最後まで続けられなかった。
彼は、緋織に向かって飛来した物体を持っていた鞄で弾き飛ばす。
「ど、どうしたんだ、宗二朗?」
突然の宗二朗の行為に、緋織は困惑した様子だった。
視線の先、十字路の真ん中あたりの空間が陽炎のように揺らめいた。
揺らめきからは毒々しい緑色をした怪物が立ち現れた。
ギョロリと飛び出した二対の目玉に、ヌメって光る肌、頭からは髭のような触角が二本、身体は四つ足で巨大だ。
一番近い生き物で例えるのなら、カエルを巨大化させてやれば、こうなるかも知れない。
決定的な違いはかの存在は、どろりと粘液を固めたかのような姿をしていた。
「な、なんだ?」
キュルキュルと、喉の奥から上げた金切り声が周囲の空気を震わせる。
耳障りな、鼓膜の奥にまで響いてくる鳴き声だった。
「あれはなんだ?」
「緋織さん、見えるんですか?」
「それは、どう言う意味だ?」
顔を青くし緋織が呟く。
しかし、それも無理のない事だった。
アレは、魔に属するものだ。
あるいは怪異、あるいは鬼と、あるいは神とすら呼ばれる宗二朗の斬るべきものである。
それらは、人の原始的な感情を揺さぶる。
即ち、恐怖心だ。
それは本能的な物で、人間であるのなら当然の反応である。
「大丈夫です」
宗二郎は安心させるように、彼女に微笑みかける。
「僕に斬れないものなどない」
◇
宣言し、宗二郎は鞄を地面に捨て、中に収まっていた白刃を抜いた。
こんな時のための仕込み刃なので、強度はあまりなく重さも軽い。
反りが全くない直刀で、長さは二尺三寸、刀身には、臨める兵、闘う者、皆陣列の前に在りと言う意味の九字が彫られている。
「おい、宗二朗!」
ギョッとしたよう、緋織が叫ぶ。
そうだ、宗二郎は彼女を守らなければならない。
それこそ、東雲家の二男として生まれた果たすべき義務だと彼が信じているからだ。
化物の身体から立ち上った水分が細かな霧となり、住宅街を覆い尽くす。
瞬く間に、宗二郎は濃霧に包まれて一寸先も見通すことが出来なくなった。傍らの緋織の顔さえ霞んで見える霧は、相手の姿をも完璧に隠蔽していた。
視界は悪くなったが、逆に彼にとっても悪くない。
人の眼を気にせずに闘える。
それに彼にとって、この程度の霧は問題ない。
一度、瞳を閉じて意識を切り替えると、モノクロの視界にハッキリと景色が映し出された。
しかし、それにしても問題は、緋織の事である。
宗二郎は頭を振って脳裏によぎった気持ちを振り払う。
今気にしても、仕方のない事だ。目の前に集中しなければ。
何故だか理由は分からないが、かの存在はどう贔屓目に見ても友好的な態度ではない。
油断すれば怪我だけでは済まない事態を招く。
先手必勝と宗二郎は動いた。
相手の死角に回り込み、飛び出した目玉に斜め下から直刀を切り上げる。
確かな手応えの下に充血した赤い眼が宙を舞った。
宗二郎も宙に跳びあがり、電信柱を蹴った勢いで、怪異の頭上から脳天に向けて直刀を突き刺す。
重力の加わった落下に、刃は抵抗も無く皮膚を突き破り怪異は断末魔の悲鳴をあげて弾けた。
バシャッと周囲に、緑色の粘液が飛び散る。
「宗二郎、大丈夫か?」
これで終わりだろうか……。
あまりにも呆気なさ過ぎる。
宗二郎は残心を怠らず、そこに緋織が寄って来た。
恐る恐ると彼女は辺りを見渡して尋ねる。
道路や塀には怪異の残骸である緑色の液体がこびり付いていた。
宗二郎はハッと気が付く。
それと同時に緋織の背後、緑色の残骸が一部集まりカエルの頭部を形作った。
ソイツは口を開け、舌を彼女に向けて伸ばす。
宗二郎は咄嗟に緋織を庇うように抱き寄せ、その前にと躍り出た。
直刀を盾にしてその攻撃を防ぐ。
拮抗は一瞬で、直刀が衝突に耐え切れずに折れ曲がる。
衝撃が抜けて来て、緋織ともども宗二郎を吹き飛ばす。
宗二朗は吹き飛ばされながらも、緋織が怪我の無いようにと受け身を取る。
ブロック塀に当たまで飛ばされた。
宗二郎は身体をしたたか地面に打ち付けたが、緋織は被害を受けていなかった。その事に安心する間もなく、飛び散った残骸が頭部に向けて独りでに集まって行き怪異が再生する。
キュルキュルと一鳴きして怪異が跳ねた。
素早く態勢を立て直して追撃に備えた宗二郎の頭上に、巨体が降って来る。
巨体と地面の衝突に周囲が揺れるが、既にそこに彼と緋織の姿はない。
「緋織さん。少しの間、我慢していて下さい」
月極の駐車場まで移動した宗二郎はそう告げて、抱きかかえていた緋織を地面に降ろす。
彼は制服に裏打ちされていた、護身のお呪いが書かれたお札を一枚、彼女の額に貼り付ける。
このまま彼女を連れて撤退するのも一案だ。
宗二郎は此方の姿を見失っている怪異に気配も無く屋根の上から接近した。
直刀が無くなってしまったのが心細いが何とかしなくてはいけない。
きっとこの程度の苦境、彼の兄ならば訳も無く解決してしまうだろう。いや、それ以前に武器を失う愚を犯さない。兄は自分とは違って完璧なのだから……。
思考に不純物が混じる。
どろりとした濁った感情だった。
これは、先ほどあれと接触した所為か、と痛む左腕を確認して宗二郎の冷静な部分が判断する。
アレラは弱い心を蝕む。
「不愉快です」
だから怪異と闘うのなら、一点の曇りも無い鏡のような揺らがない精神が必要なのだ。
神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り、鬼に会うては鬼を斬る。
考えるな。
感じろ。
ようは為せば成ると言う事だ。
──得物がないなら素手で闘えばいいじゃあないか。単純な事だ。
そう考えれば、気が楽になる。
だから笑う。
笑えるのならば大抵の事はどうにかなる、と昔に教えてもらったことがある。
なるほど、確かにそうだ。
先ほどの一幕を思い返して、疑問に感じることがある。
何故、目の前の存在は九字の刻まれた刃に切り裂かれて無事でいられたのだろうか。
退魔の刀だ、実体のない魔を捉える事が出来る。
悠長に疑問の答えを探す間もなく、怪異が吼えた。
それは物理的な破壊力をもって住宅街を襲う。
家々の窓ガラスが割れて、電線が切れた。
それから、その大口を開け宗二郎向かって舌を伸ばして来たが、不意を突かれなければ避けるのは容易い。ただし彼は無事でも屋根の瓦は何枚か持っていかれた。
そのまま、舌とすれ違うように飛び蹴りをお見舞いする。
軽過ぎる手応えと共に怪異が爆散した。道路中に緑の粘液が飛び散る。
此れでは先ほどの焼き直しに過ぎない。
事実、粘液が集まり出している。
頭部から再生して続いて全身。再生は必ず頭部から始まるようだった。
じっと観察する。
「なるほど」
二度も見ればカラクリが理解できた。
最早、態々再生するのを待ってやる事も無い。
宗二郎はまだ身体を形成途中の怪異に接近し、貫き手でその額あたりを突き刺す。
バシャリと、怪異の身体が崩れ落ちた。
そして彼の掌の中には、ほとんど普通のカエルと変わらない小さな姿が収まっていた。
単純な話、本体はこの小さな体で、あの大きな体は外部の衝撃から身を守るための鎧だったと分かる。
鎧をいくら傷つけようとも、その中身を害することは出来ない。
「生まれた所に還ってください」
右手に力を込めると、あっさりと怪異は霧となって消えた。
霧も薄くなって直ぐにでも晴れそうだ。
宗二朗は、緋織が待っている駐車場へと戻ることにした。
あとには、どこにも何も残っていなかった。
初めから存在しなかったように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます