309帖 ハディヤ氏の信望

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 そーっとドアを開けると、黒いスーツを着た少し年配の男性が木で出来た四角い箱を持って立ってた。僕を見るなり深々とお辞儀をして話し出す。


「ミスターキタノですね」

「はい。そうですけど」

「私は、当ホテルのマネージャーです。こちらにハディヤ様のご息女がいらっしゃるとお聞きました。奥様と少しお話しをさせて頂く事は出来ますか?」


 い、今、奥様って言うたよな。それってミライの事やんなぁ。


 受付で自分から言うといて恥ずかしくなってしまう。


「はぁ、分かりました」


 なんのこっちゃろうと思いながら、こっちを見てるミライを呼び寄せる。ミライが来ると、マネージャーさんはお辞儀をしてクルド語で話し出す。それを頷きながら聞くミライ。暫くクルド語での会話が続いた。


 ミライの顔を見てると、時々深刻な表情をしたり困った様な顔をして受け答えしてる。それでも話しが終わる頃には笑顔になってた。


 話しが終わると、


「おにちゃん。荷物を持って」


 と言うと、ミライは自分の鞄を取りに行く。


「えっ、どういう事?」

「部屋を変わるんだって」

「えっ、そうなん」

「行きましょう」


 取り敢えずリュックを抱え、ミライと一緒に部屋を出る。廊下にはボーイの兄ちゃんが居って荷物を持ってくれた。訳も分からず、そのままマネージャーさんと一緒にエレベータに乗り込み、なんと最上階の12階へ。


 一体、何が起こったんやろ。


 ミライがマネージャーさんと話してた事が気になる。


 もしかして、部屋を替えてくれと言うたんやろか? たぶんそんな事は無いと思うけど、後でじっくり聞いてみよ。


 エレベータに乗ってる間のミライは嬉しそうやった。

 12階に着き、エレベータを降りてびっくり。廊下の装飾はさっきの3階とは違ごてめっちゃ豪華や。絨毯の柄や柔らかさも全然違う。

 ほんでマネージャーに案内された部屋は、両開きの扉。中に入って更に驚く。


「ここってスイートルーム?」


 思わず口から出てしもた。


「左様で御座います。ハディヤ様からの指示で御座います」

「えっ! ハディヤ氏の……?」


 部屋をぐるっと見渡し、歓喜の表情でミライが、


「そうなの。お父さんから連絡があったのよ」


 と少し真面目な顔になって話しだす。


 さっきのマネージャーさんとの話しでは、どうやら僕らが3日経っても帰って来うへんから、ハディヤ氏が心配してArbilアルビルのホテルというホテルへ連絡を入れて探したらしい。そやけど見つからへんから、もし僕らがホテルにやってきたら良しなに計らえと各ホテルのマネージーさんに話しがいってるとか。


「だから部屋が替わったのよ」


 ミライはあっさりとしてた。

 流石はハディヤ氏、やることが早い。そんなハディヤ氏の事やし、多分アルビル以外のKurdistanクルディスタン中のホテルにも電話したんやろな。まぁ僕らはそんなホテルがある様な所は行ってへんかったんやけど。


「そや! そしたら早よ家に電話した方がええんとちゃう?」

「はい。先程から私共の方で、ハディヤ様にお電話を差し上げているのですが……、生憎Duhokドゥホックエリアは不通でして……」

「そうなんですか」


 やっぱり戦闘の影響やろか?


「もし繋がりましたら、直ぐにご連絡申し上げます」

「はい。ありがとうございます」

「ねぇ、おにちゃん。早く準備をしましょう」

「そうやな。そやけど、この部屋の支払は……」


 こんな豪華な部屋、目が飛び出るぐらい高いんとちゃうやろか?


「そうそう、そうでした。これは取り敢えずお返し致します」


 マネージャーさんは持ってた木箱から封筒を出して僕に渡してくれる。中を見ると、さっき払ろた64ドルが入ってる。


「これは?」

「はい。代金は後程、ハディヤ様から頂く事になっておりますので、お支払いは不要です」

「そ、そうですかぁ」


 それにしても手回しがええと言うか、凄いと言うか、ある意味ハディヤ氏は恐ろしいなと思た。

 それに、いくらミライが末娘とはいえ、ちょっと甘やかし過ぎやろ。


「ほら、おにちゃん。早くぅ」

「それでは何かありましたら、何なりとお申し付け下さい」

「はい。よろしくお願いします」


 マネージャーさんは丁寧に頭を下げて部屋を出て行く。ほんでドアが閉まると同時にミライが僕の胸に飛び込んでくる。


「よかったね。おにちゃん」


 上目遣いに嬉しそうな顔で覗いてる。


「あ、ああ」


 やっぱりめっちゃ可愛い。


「あのマネージャーさん。私の事を、『奥様』って呼んでたよ。うふふ」


 よっぽど嬉しいのか、顔を僕の胸に埋めて擦り付けてる。ずっとこうやってたいけど、今はそんな事をしてる場合やない。


「ほな、急ごか。ミライ」

「うん、ちょっと待っててね。直ぐにシャワーを浴びてくるから」


 ミライは僕から離れ、カバンの中から下着を出すとシャワールームを探す。手前のドアを開けると、そこはトイレやった。


「あれ、どこかしら?」


 僕も一緒になって探す。

 この部屋は、黒が基調のシックで落ち着いた雰囲気のリビング。如何にもお上品って感じ。

 この部屋にはドアが3つある。2つ目のドアを開けると、そこは広い部屋で、小さなカウンターがあり、壁際にはソファーがたくさん並べてある。中央が広くなってて、まるでパーティールームや。多分、お金持ちやったらここでプライベートパーティーを催すんやろう。


 反対側の3つ目のドアの向こうは、少し小さいけど、ここもリビングやった。ここはプライベートのリビングって感じかな。ほんでその部屋の奥にあるドアを開けると寝室。少し落ち着いた茶色い壁で、大きなダブルベッドが置いてある。壁にはクローゼットがあり、その横の扉がどうやらシャワールームみたい。


「ミライ、ここやで」


 ドアを開けてみると手前にトイレと洗面所があって、その奥に「Bath Roomバスルーム」があった。ちょっと期待して奥のドアも開けてみる。


 凄い!


 浴室の中央には大きな丸い浴槽がある。やっぱり石で出来たベッドもあった。Sulayスレイmaniyahマニヤで泊まったホテルの様に大きな窓は無いし、浴室自体はそんなに広くは無いけど、ほんでもでっかい浴槽は魅力的や。


 ここは欧米人向けのVIPルームかな?


「凄いねー、おにちゃん……」

「あぁ。凄いなぁ……」


 この部屋、一泊なんぼするんやろう?


 僕もミライも溜息をついてた。昨日までの野宿からすると天と地ほどの差がある。


「そや、ミライ。さっとシャワーを浴びて、早よ行こや」

「うん。そうする。後で一緒に入りましょうね」

「そ、そやな」


 なんかワクワクしてしもた。


 僕はミライを置いてバスルームを出る。ほんで荷物をベッドルームに運んでから、リビングの大きな窓のカーテンをずらし、外を覗く。


 おお、ベランダまであるやん!


 僕はロックを外し、広いベランダへ出た。

 太陽が眩しく、一瞬クラっとする。それにめっちゃ暑い。手で日差しを遮りながら、ベランダの先端まで歩いて行く。


 昨日の激しい砂嵐の跡やろか、隅にはまだ少し砂が残ってた。



 つづく

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