8章 しばしの休息を
第80話
どこなのか知らない場所を漂っているような気がする。ふわふわと足元の感覚もわからない何もないところを。
大我は周囲に何もない空間の中で、右も左もわからないような状態で仰向けになって力を抜いていた。
なぜだかわからないが、記憶も朧気でぼんやりとしている。何故自分がここにいるかも、いつからいるかもわからない。
でも、ここに居続けるのも悪くない気がする。理由もなくそう思いながら、大我はどれだけ経ったかわからない時間をその場所で過ごし続けていた。
「……何か忘れてるような気がする。絶対に忘れちゃいけないことを」
大我の中にふと、ようやく針の糸が通ったように浮かんだ一つの忘れ物。
その大切なことが感覚的に、抽象的に思い出した瞬間、天を向く大我の目の前に温かな光が差し込んできた。
まるで磁石に引き寄せられるかの如く、大我は自然とその光の先へと右手の伸ばした。
それは目の前にあるわけではない。だけども、進み続ければ届くような気がする。
疎らではあるが、誰かが呼ぶような声も聞こえてくる。優しく呼びかけるような声が。
仰向けだった身体はいつの間にか立ち上がり、身体には裂傷や打撲痕と、無数のおびただしい傷跡が増えていく。
だがそんなことを気にかけることもなく、いつか手が届くその瞬間まで、大我は必死に輝くその何かへと右手を伸ばし続けた。
* * *
「……う……うぅ…………ここ……は……」
どれだけの時間が経ったか、大我はそのまま絶命してもおかしくない重傷を負いながらも、死に至ることなく目を覚ました。
寝起きだからかまだ意識がはっきりとしないが、大我は動かせるだけ目線を動かして自分今どこにいるかを確認する。
そこは少なくとも天国でも地獄でもなく、つい先程までいたような何もない奇妙な空間などではない。そこはティアとその家族が寛大なる親切によって用意してくれた一室だった。
この世界で目を覚ましてから間もないうちに見た夢の時のように、かつての日常から不思議な現実に戻されたというような感覚は無い。むしろ帰ってこれたというような気持ちが強いような気がする。
今は何日で今は何時だろうか。部屋が明るく窓から爽やかな光が射し込んでいるのを確認できることから、おそらくは朝方なのだろう。
大我は一先ず、いつも通り朝食を摂ろうとまずは上半身を起き上がらせようとした。
「――――――っっ!!」
その瞬間、腕に足に身体に尋常ではない激痛が雷光のように走った。
雷鳴のように叫びたくなる声すらも抑えつけられるような痛み。何故か全身を本当に抑えつけられているような感覚もある。
かろうじて自由の利く頭を身体を刺激しないように調整しつつ動かして視界を広げてみると、大我の身体は包帯でぐるぐる巻きにされており、右腕以外は固く固定させられながら、即席ベッドとは違う正しく作られたベッドの上に寝かせられていた。
「……そうか、俺は……帰ってこれたんだな」
その苦痛を浴びた直後に、大我は自分がこれ以前に何をやっていたかを思い出す。
バレン・スフィアへのたった二人の遠征、聞こえてきた女の声。無数のカーススケルトン。空なら見下ろす黒翼のワルキューレ。操り人形の巨人。三人の強い何者か。そして――フロルドゥス。
二刀を持った男や魔女、巨人を操るエルフと戦っていた辺りから記憶がどこか怪しいが、その手には確かな手応えを覚えている。
あの地獄から帰ってきた。もがいてもがいて、そこから抜け出すことができたんだと、少しずつ実感を覚えていく。
その直後、大我はもう一つの大切なことを思い出した。
「そうだ、エルフィは……」
ずっと自分についてきてくれた相棒の精霊、エルフィの姿が見えない。
バレン・スフィアで分断されてから、どのような状態になってしまったのかも一切把握していない。
ボロボロな記憶の中では、なんとか動く身体を側で支えてくれていたような気がする。
そんな相棒がいないことはあってはならない。大我はもう一度周囲を見渡すことにする。
「よかった、いたんだな」
探していたエルフィは、大我の首と目の可動域ギリギリのところで眠っていた。
小さな身体を丸めて、安らかに肩を上げては下げ、苦しんでいる様子も無く目を閉じている。
どうやら無事だったことに心の底から胸を撫で下ろしたその時、部屋の扉が開く音が聞こえてきた。
同時に仄かに漂う、コンソメの胃と脳をくすぐるような旨味を体現した香り。
誰かがエルフィへの食事でも持ってきたんだろうかと思いながら入口を見つめていると、そこに姿を表したのはティアだった。
「…………!! 大……我……?」
どこか寂しげだったティアの表情が、驚愕の色に塗りつぶされた。
硬めのパンと野菜スープのそれぞれ入った器を持ったままその歩みは止まり、じっとその顔を見つめている。
「うう……ああ……おはようティア……」
その香りを声を目覚ましに、ゆっくりと緊張感も無くエルフィが目を覚ます。
呑気に背筋を伸ばして開放の声を上げ、その場に固まるティアの姿を確認する。最初はきょとんとしていたが、その視線の先へと自分の目線を移すと、その理由にも納得した。
「大我! やっと目覚ましたのか!」
大我とは違いすっかりと修復を済ませたエルフィ。怪我の痛みを響かせないようにと、顔にそっと優しく抱きつく。
「よかった……本当に良かった……」
「ずっと心配してたんだぞ! 何日も起きないからさぁ!」
それぞれはっきりと性格の現れている喜び方で、一つの山を乗り越えたことを祝福する二人。
ティアは一度ベッドの側に置かれた小さなテーブルに食器を乗せ、両親へこの吉報を伝えようと部屋を飛び出した。
「先に飯食うか? 相当腹減ってるだろ」
言われてみるとという具合に、その事に言及された途端になんだかお腹が空いているような気がしてきた。
最後に食べたのがあの到底生物が食べるものとは思えない程にどうしようもなくまずいものだったこともあり、久しぶりにちゃんとしたものが食べたいと思った。
その気持ちにおあつらえ向きの食べ物がすくそばにある。ここで大我はふと、自分がどれくらいの期間眠っていたのか気になった。
「エルフィ、俺はどれくらい眠ってたんだ」
「……一週間くらいだな」
「そんなにか」
「無理もねえよ。あれだけの重傷だったんだ、むしろ生きてることが不思議なくらいだし、もっと眠っててもおかしくなかった」
長い間眠っていたようなそこまで長い時間を感じないような、ぼんやりとしていた奇妙な時間感覚。
いざ詳しく言及されると、ただただ生返事を返すことしかできなかった。
「まずは腹に何か入れようぜ。人間の活力はそこから始まるんだからな」
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