開戦(3)

 半鐘が遠くで鳴り、誰かがドアを叩く音で目が覚めた。金属を打つ拳の衝撃が枕元まで響き、まだ眠りの底に残っていた意識を荒々しく引きずり上げる。

 暗がりの色が、ほんのわずかに薄くなっている。

「作戦準備!」

 仕上げの乾いた声。甲高くも低くもない、喉の奥で絞った音。覚醒はいつだって唐突だ。人間は、命令ひとつで目を覚ますようにできてはいないはずなのに、体は勝手に動き出す。

 ベッドを出て、床に靴底を打ちつける感覚で現実を確かめる。装備は昨夜のうちにまとめてある。順番に身につけ、弾倉を数える。手のひらで重さを量り、残弾を確かめる。ナイフの鞘を腰の位置に差し込み、革のベルトを締めると固い音がした。水筒を手に取り、ゆっくりと振る。中で水が移動する鈍い感触が、残量を教えてくれる。軍手をはめ、すぐ外す。指先の自由を確かめる。

 ポケットの中のコインを一枚、床に落として捨てる。金属が跳ねる軽い音。余計な重さを削ぐのは、もう癖になった儀式だ。少しでも身を軽く――そのわずかな差が、生き残る確率を変える。

 廊下に出ると、同じ儀式を終えた男たちが一直線に並んでいた。誰も口を開かない。無駄話は今ここでは弾薬と同じだ。無駄に言葉を放ったところで、残弾ゼロになればすぐに死ぬ。

 空気は油と金属と塩で満ちている。汗の匂いも混じるが、それさえ機械油にかき消されていた。

 甲板へ上がるハッチを抜けると、夜がまだ残っていた。東の空は雲が低く、そこからわずかに透ける灰色の光が、夜と朝の境目を曖昧にしている。風は雨の匂いを運んでくるが、さっきよりも細くなっている。海は暗い鉄色で、そこにいくつもの影――上陸艇が並び、腹の中に兵士たちを詰めて息を潜めていた。

 整備兵が手信号を切る。指先だけで鋭く動くその仕草が、小さな角度で意味の全てを表し声より速く届く。静かな怒号。片隅で甲板の照明が一瞬だけ白くはじけ、すぐに消えた。近くの砲塔がゆっくりと首を振る。空気が低く唸りをあげる。鋼の軋みが緊張感を極限まで高める。

 遠く、岸の方角で星のような点が一瞬瞬いた。観測班からの合図だ。

 最初の一発は、いつだって長い。息を止めた誰かの肺の中を、重たい鉄球が転がっていくようなしばらくの沈黙。砲身が深く息を吸うように静止し、次の瞬間、世界が裏返った。

 轟音。

 腹の底が持ち上がり、歯茎まで震える。鼓膜が一瞬破れたかと思うほどの衝撃。遅れて閃光が目を焼き、夜が裂けた。遅れて空気の壁が体を叩く。海が反響し、音は倍になって返ってくる。耳の奥に詰め物をされたように、世界がくぐもっていく。

 砲身が後座し、吐き出された薬莢の匂いが風に乗って漂ってくる。焦げた金属と火薬の混じった匂い。立て続けに二発、三発。波間に光が散り、破片が飛び散る影が見えた。遠い岸辺に小さな昼がいくつも生まれては消え、闇の断面がめくれる。

 俺たちの故郷に向けて、俺たちの船が牙を剥いている――そう思った瞬間、胸の奥で何かが固く沈んだ。

「先遣、移乗開始!」

 号令。

 列が動き出す。足の甲から脛、膝、腰と、順番に筋肉が硬くなるのを感じる。鉄の階段を踏む音が一つの塊になり、波音と混ざる。

 背中に軽い衝撃。ジョージだ。

「行くぞ、ユウ」

「ああ」

 階段を降り、上陸艇の腹に吸い込まれる。狭い座席に腰を落とし、銃を膝に置く。艇の壁は冷たく、塗料の匂いがむせるほど強い。ヘルメットの内側で、自分の呼吸音が反響する。息を吸うたび、血の味が喉の奥に広がる。

 隣の若い兵が、親指と人差し指をこすっていた。緊張で皮膚が鳴る癖だ。視界の端でそれを見ながら、俺は何も言わなかった。言葉は役に立たない。視線だけで「大丈夫だ」と嘘をつく。

 上から、海面を打つ雨粒の音が降ってくる。やさしいふりをして、実際は体温を奪う冷たさを運んでくる。

 艇がぐらりと傾き、係留ロープが解かれる気配。エンジンが低く咳払いをし、次の瞬間には喉を裂くような唸り声に変わった。

 甲板の縁が遠ざかり、母船の影が小さくなる。砲声が背後で続き、前方では黒い海面が割れては閉じる。

 ジョージが囁く。

「ユウ、もし――」

「もうもしはなしだ」

 俺は即答した。言葉が硬くなるのを、わざとそのままにした。

「着いたら、やることをやる。それだけだろ」

 ジョージは短く頷いた。それが俺たちの約束だった。

 艇首のランプが一瞬だけ点滅し、また闇に沈む。前方の海面に、潮が逆立つ筋が浮かび上がった。浅瀬が近い。

 砲声の間隙に、遠い岸の犬が吠えるような、きしむ金属の音が混ざった。風向きがわずかに変わり、岸の土と草の湿った匂いが、火薬に薄く混じって届いてくる。

 誰かが吐いた。音は小さいが、匂いは隠せない。別の誰かが肩を軽く叩き、前を向かせた。何も起きていないというふうに、前を向く。起きているすべては、まだ前方にある。

 砲声が一段高くなる。支援射が終わり、迫撃の時間が始まる。計画どおりに、夜は朝へ変わっていく。だが、計画どおり進む戦争など存在しない。

 ポケットに手を入れ、小さな紙切れの感触を確かめる。ロッカーに置いたはずの封筒ではない。切り取った地図の断片だ。自分で書き足した細い線、倉庫と線路の間、歪んだ鉄柵の場所。十年前、よく抜け道に使った隙間。

 まだそこに隙間はあるのか。戦争は風景を一瞬で変える。でも、人間の怠慢は意外と頑固だ。壊れた柵は、放っておかれる方が多い。

 雨が顔に触れ、海の味がした。舌の上でそれを転がし、飲み込む。

 たどり着いたら、まず北側の倉庫帯へ。線路沿いに東へ二百メートル、砕石場の切り欠きから内側へ――頭の中で手順を繰り返す。反復は緊張を噛み砕く。考えることは、恐れることの代わりになる。

 艇が速度を落とし、底が砂を擦る感触が足元に伝わった。船体全体がぎしりときしむ。

 前方のランプがふたたび点滅する。合図。扉が落ちるまでの数秒がやけに長い。全員の呼吸が浅く揃う。

 夜と朝の境目に、扉の蝶番が短く鳴いた。扉が前へ倒れる。

 冷たい水が一気に足元へ流れ込んできた。靴の中にまで海が入り込み、重さが増す。脛を締める冷たさに、心臓の鼓動が一拍分遅れて反応した。

 前方で煙が低く這い、砂の上に薄い幕を作って流れていた。砲撃の残り香が、湿った土と混ざって肺へなだれ込む。朝の匂いは、まっさらではない。火薬、油、焦げた草、遠い場所で燃えている建材の匂い。それらがひとつの季節のように重なっていた。

「――行け!」

 俺たちは水を蹴り、陸へ向かって走り出した。

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