10話:播磨聡介(②)

 救急車で運ばれた帆波が数年ぶりにちゃんとした検査を受けたところ、帆波の病気は原因がわからないまま明らかに進行していた。医師は帆波の両親にそれを説明した上で、学校には行かせず、病院で様子を見た方がいいと説いた。帆波の両親はその提案を受け入れ、そして帆波は入院生活を送ることになった。帆波は、かつて望んでいた「普通の生活」を手放すことになったのだ。

 帆波が望んでいた「普通の生活」というのは、播磨や佐伯、その他の友達と一緒に学校に行き、勉強したり遊んだり、バスケをしたりする生活だった。それは帆波が望む生活であるだけでなく、播磨が望む、帆波の生活の姿でもあった。

 播磨は、残り少ないけれども、帆波には小学校での生活を最後まで楽しんでほしいと思っていた。また欲を言えば、帆波には自分と同じ中学に入学してほしかった。そして再び後輩として、一緒に学生生活を過ごしてほしいと思っていた。

 しかし帆波の両親から現状を聞いた播磨は、帆波の両親の提案――医師の提案に同意するほかなかった。いくら血が繫がっているからとはいえ、家族でもない他人でありただの中学生でしかない播磨には、帆波の家族の決定について何を言う権利もなかった。播磨はその事実を吞み込まなければならなかった。


 そうしてかつて外遊びをするのが好きだった帆波は、病室や病院の敷地内からほとんど出ず、ベッドの上で学校の勉強をしたり、本を読んだり、窓の外を眺めたりしながら過ごすようになった。帆波の病気は体や思考の自由を奪うものではなかったし、一見するとその姿は健常に見える。が、薄いグリーンの病衣の下、帆波の腕の関節の内側には、紫色の小さな斑点がいくつも隠れていた。病気が進行したら現れるというその斑点は、帆波が腕を曲げたり伸ばしたりする時に――ささいな日常動作をする時にさえ――できる内出血の痕だった。それはどんなに小さなけがや打撲をしても大出血に繫がることを示す印でもあった。

 一方佐伯はと言うと、播磨や帆波(播磨と同じ中学校に在籍している扱いになっていた)と異なる中学校に入ったものの、帆波の病室に通い続けていた。もちろん播磨も毎日のように帆波の病室に通い、勉強を教えてやったり帆波の話し相手になってやったりしていたが、播磨が見舞いに行くのとは関係なく、佐伯は空いた時間を見つけて帆波に会いに行った。

 佐伯が帆波のもとに通っていたのは、もちろん、佐伯にとって帆波が一番仲の良い後輩だったからというのもあるし、佐伯の両親が帆波を心配し、定期的に「帆波くん、元気そう?」と訊いてくるのに答えるためという理由もあった。しかし最も大きかったのは、佐伯が帆波のことを、「可哀そう」だと思っていたからだ。

 帆波のところにはほぼ毎日播磨が面会に来ていると言っても、播磨は部活やバイオリンの稽古があるため、帆波の病室にあまり長くはいられなかった。また佐伯が見ていた限りでは、帆波の友達や、バスケットボールクラブのかつてのチームメイト、さらには帆波の両親でさえ、帆波の面会に来ることはほとんどなかった。一応、友達やチームメイトたちは、帆波が入院生活を始めてすぐの頃には複数人で病室を訪れていたそうだ。しかし帆波の病気がすぐに治るものではないと知る、あるいはその様子から察すると、彼らは中学生になって自分の生活が忙しくなったことを理由に見舞いに来なくなった。そして帆波の両親は、帆波の病気の治療費や入院費を稼ぐためと仕事に没頭するあまり、帆波の病室に出向くことがなくなってしまった。


 佐伯は、一人ぼっちで病室に取り残された帆波のことを、可哀そうに思っていた。


 そして佐伯は中学二年生になった。学年が上がるほど友達も後輩も増えて忙しくなったけど、佐伯は部活がない日、時間のある日を見つけて帆波の病室に通い続けた。せめて、一番仲のよかった自分だけは、帆波の見舞いを続けたいと考えていた。

 佐伯が病室を訪れると、そこには帆波が一人でいることもあれば、帆波と播磨が二人でいることもあった。どちらの場合であっても、帆波は佐伯のことを嬉しそうに迎え入れた。佐伯は、自分や学校のことで忙しい日もある中で帆波のところに通い続けることは正直大変で、やめてしまおうかと思うこともあったと言う。が、一人ぼっちで寂しそうにしている帆波のことを思うとやっぱりやめられなかったし、それに自分が病室に通い続けることで、今まではただ「すごい」と別の世界の人のように思っていた播磨が自分に心を開いてくれるようになったのが嬉しかった。播磨は最初佐伯に対して警戒心を持ち、佐伯から距離をとっているように見えていた。しかし佐伯が帆波の他の友人やチームメイトたちとは異なり、帆波が入院して数年経ってからも自ら帆波の病室に足を運び、帆波と話したり談笑したりしている様子を見て、播磨は佐伯のことを信頼するようになっていた。

 佐伯を信頼するようになった播磨は、今まで見せることのなかった一面を見せるようになった。播磨は常に自然体でいて、どんな他人に対しても気を許しているように見せているが、実は彼の気に入った人間以外には絶対に本心を見せない。それはクラスメートやチームメイトだけでなく、自分自身の両親や歳の離れた兄(そう言えば、播磨先生のことだ)、また帆波の両親まで――言い換えれば帆波以外のすべての人間に対してそうだった。播磨はいつも笑顔の仮面を被っているが、その仮面の下には帆波のことを救ってくれない世界に対する怒りと憎しみが渦巻いている。その顔を見せるのは決まって、二人きりで佐伯の部屋にいる時だった。佐伯を信用するようになってから、播磨は病院の帰りに、時間のある時は佐伯の家に寄るようになっていた。

「帆波の両親が帆波に会いに来ない理由はわかるか?」

 ローテーブルの傍らで胡坐をかいていた播磨が一度だけこのようなことを言った。学ランの前を開け、どこかくつろいだ雰囲気の播磨が隣に座った佐伯を見つめる。笑顔というオブラートに包まれていない播磨の視線は削りたての鉛筆のように鋭かった。

「帆波の入院費を稼ぐためじゃないの?」

 播磨は首を横に振る。播磨はローテーブルに肘を置くと、視線を外して部屋の壁に貼られているカレンダーの方を見た。確か、冬のことだった。

「ほんとに金が足りねえなら俺ん家に借りればいいだろ。俺の親父は金を持ってる。親父とおっさんは兄弟だし、おっさんが本当に自分の息子のことを思うなら、頼るなり土下座するなりして親父に金を借りればいい。だけどおっさんのプライドが許さねンだろうな。先に仕事で成功して、奥さんもつくって子どもも授かって円満な家庭を築いている親父に頭を下げるのは兄としてカッコ悪いって思ってんだ」

 播磨は帆波の父への不満や憤りをあらわにする。播磨は普段、間違ってもこんなことを言う人間ではない。播磨が佐伯に視線を向けると、佐伯は自分のことではないはずなのに、なぜか自分が責められているような気分になった。

「それにおっさんは……おっさんとおばさんは、帆波を解放してやる気はないんだ」

「どういうこと?」

 佐伯が聞くと、播磨はギュッと眉間に皺を寄せた。

「あいつらにとって帆波は邪魔なんだよ。爆弾か何かだと思ってる。あいつらは『帆波を大事に思っているから』なんて言ってるけど、本当に大事で愛してるなら、もっと帆波に寄り添いたいと思うはずだろ。そいつのために仕事増やして金を稼ぐのは当たり前のことじゃねえか。大事にするっていうのはそれだけじゃなくて、顔を見に行ってやるとか、話をしてやるとか、『お前のことが大事だぞ』って言ってやることなんじゃねえのかな。金だけ与えられて安全な環境だけ整えられて、それで愛せてるかって言われれば俺は違うと思う。お前も、帆波のことを見てたらわかるだろ」

 病室で窓の外を眺めている帆波を思い出しながら、佐伯は頷いた。一人ぼっちの帆波の瞳にはいつも哀しい光がちらついていた。

「帆波の親はそういうこともわかってねえんだ。昔からそうだった――いや、わかろうともしてねンだろな。あいつらにとって帆波はただのお荷物で枷なんだ。自分の子どもなのに、自分が生きるのに不都合な邪魔ものだと思ってんだよ」

 播磨は吐き捨てるように言うと、「ごめんな」と呟いて押し黙る。佐伯は「ううん」と言い、同じように視線を外した。そして口をつぐむ。

 佐伯は、播磨の考えには偏ったところがあると思いつつも、上手く播磨に伝えられる気がしなくて黙っていた。また佐伯は、感情をあらわにして話す播磨のことを少しだけ怖いと感じていた。もともと鋭くて涼やかな目元が印象的な、よく整った顔立ちの播磨は人懐こそうな笑顔の仮面を取った瞬間にグッと他人を寄せつけないオーラを発した。佐伯はその顔を見るたび、自分もかつては播磨にとって「あっち側」の人間だったんだと思うと背筋が凍る心地がした。

「つみきは、帆波を大事にしてくれるから好きだ」

 佐伯の視線に気づいた播磨がそう言って微笑むと、佐伯は「うん」と言って曖昧に微笑むしかなかった。どういった理由であれ佐伯は、播磨が自分のことを「こっち側」だと認めてくれている今の状態を失ってはいけないと思っていた。それこそ言葉にするのが難しい感情だったが、とにかく佐伯は、今の播磨には「味方」が必要だと考えていた。播磨が本心をさらけ出し、嫌いな人への不満や愚痴をこぼせるような――「この人にだったら本当の自分を見せていい」と思えるような存在が。そして佐伯は、その「誰か」が自分だと強く信じていた。



 彼らはそのようにして中学時代を過ごし、そしてこの春、佐伯と播磨は天野第一高校に進学した。高校が同じになったのはたまたまと言うより必然的で、地元の中学よりもレベルの高い学校に行くため遠くの中学に進学した播磨がこちらに戻って来ただけのことだった。小学生ぶりに同じ学校に通うことになった二人は、廊下などですれ違うたびに軽いあいさつや短い会話を交わした。しかし人気者の播磨はいつも誰かとつるんでおり、特に中学からの友人や播磨のクラスの人間に囲まれていることが多かったので、あまり深く関わることはなかった。また播磨は佐伯相手とは言え、学校という「外」にいる時に彼の仮面を外そうとはしなかった。あくまで平等に、「友人」として接する播磨の意図を瞬時に読み取った佐伯は「そのように」応じた。つまり、一学期の彼らはただの「友人」だった。

 佐伯と播磨は学校ではただの友人を装っていたが、帆波の病室で、佐伯の部屋で、二人だけの話をする時は仲間だった。高校の三年間もそのようにやり過ごすのだろう、播磨もきっとそうようにやり過ごそうとしていたに違いないと言った佐伯は、そして苦しそうに眉を顰めた。

「でも、そうはいかなかった」



 それは数週間前のこと。

 八月二十日。夏休みの後半、まだうだるような暑さの残る夏の日のことだった。


 その日、佐伯は一日中家にいる予定だった。というのも佐伯は夏休みの大半を部活と遊びに費やしており、夏休みの残り日数が一桁になるのを目前にして、ようやく夏の課題に手をつける気になったからだった。

 他に予定もないことだし、そろそろ手をつけないとまずい。そう思って午前中は数学のワークを進めようとしたのだが、もともと勉強が好きではなく、集中力のもたない佐伯は早々に疲れてしまった。早めに昼食をとり、とりあえずだらだらして、それでもやる気が起きなかった佐伯は気分転換も兼ねて帆波の見舞いに行くことにした。

 バスケの試合の後よりずっと重たくなった体をベッドに投げ出し、ケータイを開いて播磨にメールを送る。

『今から病院に行くけど、一緒に行く?』

 送信ボタンを押す。壁にかけているウエストポーチを身に着け、バスカードの残金を確認する。カードの穴を数えれば、あと二往復はできそうだった。

 佐伯がそれを財布にしまっていると、ベッドの上のケータイがメールの受信音を鳴らす。パキンと音を立てて開けば、播磨からの返信だった。

『悪い。今日はコンクール。出番が終わったらすぐ行くつもりだ』

 シンプルな文面を見た瞬間、佐伯はその日が播磨のバイオリンのコンクールの日だったと思い出す。そういえばここ数日は稽古があるからって忙しそうにしていたし、「聞きに来るか」と誘ってもらっていた。佐伯は少し興味もあったが、場違いだからと断っていた。

 誘ってもらったのにすっかり忘れていて申し訳ないなと思いつつ、『わかった、帆波と応援してるから!』と返信する。と、すぐに『ありがとう』と返信が届いた。出番が来る前に、急いで返信してくれたのかもしれない。佐伯はケータイをたたみ、そのまま家を出た。

 財布とケータイしか持たない身体は身軽だった。外は暑かったが、バスの中は冷房が効いていて気持ちよかった。今頃播磨はスポットライトに照らされ、たくさんの人の前でバイオリンの弓を引いているのだろうか。佐伯は播磨のそんな姿を想像しながら、大学病院行きのバスに揺られていた。


 バスから降りた佐伯は、迷わず来客用入口から院内に入る。入口のすぐ隣にある受付カウンターを見ると、ナース服にカーディガンを羽織った受付嬢と目が合う。佐伯が「こんにちは」とあいさつをすれば、めずらしいことに「つみきくん」と呼び止められた。佐伯と播磨はすっかり受付嬢たちに名前を覚えられていた。

「何ですか?」

「つみきくん、聡介くんの電話番号知ってるよね? ちょっとかけてもらえない?」

 受付嬢は優しい口調で言ったが、佐伯は違和感を覚えた。佐伯は何度か接したことがある人だと特に、声の調子などからその人の感情が伝わってくると言う。その時は彼女が何か焦っているように感じた。焦っているのに彼女が笑顔を崩そうとしないことを不自然に思いながら、佐伯はあえて、のんびりとした調子で答えてみる。

「いいですけど……。あっ、でも今、播磨にかけても繫がらないかもしれないです。ちょうど今、バイオリンのコンクールをしているから」

 佐伯がそう言うと、受付嬢は目を見開いた。

「そろそろ出番のはずですし、もう電源を切ってるかもしれないです」

「そういうこと……!」

 受付嬢は言葉を失う。その様子を見た佐伯は何かが起きていると悟った。受付嬢は慌てて「ありがとう」と言うと、「ちょっと待ってね」と佐伯を引き止めた。

「もうちょっとだけ、待ってね」

 そう言いながら、素早く手元のパソコンを操作する受付嬢。片手にマウスを握った彼女は、もう片方の手で備え付けの電話に手を伸ばしかけていた。

 佐伯は彼女に気づかれないように後ずさり、受付から距離を取る。来客用入口の周りに、ほとんど人はいなかった。バスケのコートより狭いが、人はいないに等しい。ここにいるどんな人だって、自分は追い抜くことができるだろう。

「あの、」

 佐伯が声をかけると、彼女はパソコンを睨みつけたままで「どうしたの」と聞いた。佐伯は声が震えないように、はっきりとした口調で言った。

「……もしかしてなんですけど、帆波に何かありました?」

 受付嬢が、真っ白な顔を佐伯に向けた。


「つみきくん!」

 佐伯はすでに走り出していた。受付嬢が背後で佐伯を呼んでいる。廊下を歩く患者や看護師は止まって見えた。ちょうど降りてきて空っぽになったエレベーターに体を滑り込ませる。そして「閉」ボタンと数字のボタンを押した。帆波の病室がある階だ。

 ぐんぐんと体が上がっていく感覚に比例し、嫌な予感は増幅する。何かが帆波に起きている。播磨を呼ばないといけないほどの、受付嬢があんな顔をするくらいの――でもそれって何だろう。

 想像しようとする力とそれを拒む力の両方に引っ張られ、佐伯は耐えられず思考停止した。リン、という音に意識を引き戻されるとわずかな隙間から身を乗り出す。病室の並ぶ細い廊下を目指そうとした背中に「きみ!」と声がかかる。エレベーターの目の前のスタッフステーションからだった。佐伯は無視した。

「そっちに行ってはいけない!」

 何年も通い続けた道を駆けていく。帆波の病室に近づくにつれ、薬の匂いに混じって帆波の匂いが強くなった気がした。そんなはずないのに。

 さらに曲がって、奥の部屋! 廊下には誰もいない。だが生臭さにも似た濃密な「人間」の匂いにくらっとする。それが何なのか、考えてしまう前に脳と体を切り離した。佐伯は帆波の個室の前まで来ていた。

 ドアに手をかけ、スライドさせようとした瞬間。

「あっ⁉」

「コラ!」

 急に羽交い絞めにされる。ドアから引き剝がされ、見上げれば佐伯も何度か話をしたことがある看護師の一人だった。

「先生、帆波は⁉」

「君は待合で待っていなさい!」

 看護師は見たこともないような恐ろしい形相をしていた。佐伯はどうにかして逃げようとしたが腕は鋼のように硬かった。きっと先生自身も信じられないような力が出ているのだろう。

「先生、お願いします! 中は見なくていいから、何があったかだけでも教えてよ!」

「いいから離れなさい‼」

 その時ドアの鍵が外れた。すらすらっと開かれる扉の向こうから生臭い匂いが広がって、佐伯は一瞬意識が飛びかける。

 開いたドアからは別の看護師が出てきた。彼は後ろ手でドアを閉めると「帰りなさい」と言った。看護師は中身の見えないポリ袋を手に持っていた。看護師の表情は氷のように冷たくてぞっとしたが、佐伯は彼の服についた赤色の汚れを見落とさなかった。

「……でも!」

「何かあったら連絡してあげるから、受付の人に電話番号を伝えて帰りなさい。早く」

「先生!」

 看護師たちは目配せをすると、佐伯をエレベーターまで引っ張っていく。エレベーターに二人がかりで押し込まれ、一階のボタンを押される時には佐伯はほとんど観念していた。

「……帆波、何かあったんですよね」

 駄目元で言った言葉に、看護師の一人が「静かにしなさい」と言う。体の拘束は解かれなかった。二人の看護師とともにゆるやかに降下していきながら、佐伯は叫び出したい気持ちを抑えて必死に頭を回転させていた。

 ここで僕が暴れてもしょうがない。だけど絶対、何かあったんだ。しかも、すごくやばいことが起きている。

 っていうかそもそもなんで? 前に会った時には何ともなかったのに。容体が急変したとか? いや、帆波の病気は突然容体が悪くなるような病気じゃないと、播磨が言っていたはず。病気のせいじゃない……となるとけがをしたのだろうか。帆波の病室からは血の匂いがした。それに帆波の部屋から出てきた看護師の服の裾には血がついていたし、何ならエレベーターにも血の匂いが充満している。例のポリ袋はスタッフステーションに預けているようだったけど、それでもこんなに匂いが残っているのはどうしてだろう。答えは一つしかなかった。それほど多くの血が流れたんだ。それに、もしかしたらそれだけの血が、時間をかけて流れ続けたのかもしれない。

 じゃあ何で安全なはずの病室で、帆波はけがをしたんだよ! 誰かに何かされた? 事件に巻き込まれた? まさか。帆波を知っている人――帆波の両親はさすがに今は仕事に行っている時間だし、他に帆波を恨みそうな人は――まさか、いるわけがない。思い浮かべようと思っても頭が動かない! 頭の中がこんがらがってぐちゃぐちゃだ。

 帆波は他の人に比べて傷の治りが遅くて、ちょっとのけがでも死に至る可能性がある病気だと播磨が言っていた。もしそれが今起きている――起きてしまったのだとしたら、帆波はどうなってしまうんだ? もしかして、帆波は死んでしまうの? それともすでに手遅れなのか? いや、「何かあったらすぐ連絡する」と看護師たちが言ったのは、まだ死んだと決まったわけではないからだ……と思う。でも、そんなに血を流してしまって、果たして帆波は無事でいられるのか? 遅かれ早かれ、帆波は死んでしまうんじゃないだろうか……?

 帆波が死んでしまったら、播磨はどう思う? 今、播磨はきっとステージの上、審査員と聴衆の前でバイオリンの弓を引いている。播磨は何も知らない! 播磨が、今の状態を知ってしまったらどうなる? いやむしろ、この世界で一番大切に思い、幸せを願い、毎日寄り添って手を握っていた帆波が自分のまったく知らないところで死んでしまったと知ったら、播磨はどうなってしまうんだ……?


 佐伯の思考は枝を広げ、入り乱れ、もつれ合ううちにある一方へ傾きかけていた。そして、それは徐々に確固たる一つの考えとなって、佐伯の脳を支配するようになった。

 それは、「普通」の人間であればまったく思いつくことのない考えだった。――不幸なことに。



 プルルル! という着信音の途中で佐伯は受話器のマークを押した。スピーカーに耳を押し当てるとすぐに播磨の怒声が飛んでくる。

「つみき‼ お前……今どこにいる⁉」

 電話の向こうから、バタン! ガタン! と音が聞こえてくる。きっと演奏が終わってすぐにメールを見てくれたんだ。メールには帆波の現状について簡単に書いておいた。

「病院の庭のとこにいる!」

「なんっ……、病室じゃねーのかよ!」

「追い出されたんだ!」

 佐伯も負けじと声を張る。しかし、周囲の人には気づかれないように。

 佐伯は病院の敷地内にある庭の、植木の中に身を潜めていた。その庭は、たまに帆波と播磨と三人で散歩したときのルートの途中にある。入院患者向けに開かれている大きめの庭には植え込みや花壇がたくさんあり、佐伯は以前からその隙間や裏にできる数々の死角に目をつけていた。

 炎天下の中、わざわざ屋外スペースに出てくる患者などほぼいない。それでもまばらに人はいたが、この距離なら誰にも気づかれない自信があった。

「帆波は‼」

 焦燥をあらわにした播磨の声が続く。

「まだ大丈夫か‼」

「きっとまだ……だけどこのままじゃ……!」

「でもまだ死んでねーんだろ‼」

 播磨の怒鳴り声に一瞬ひるむ。その隙を突くように播磨が続ける。

「今からそっちに向かう‼ だからそれまで――」

「もうダメなんだよ‼」

 佐伯の声に、スピーカーの向こうで今度は播磨がひるんだのがわかった。……佐伯は静かな声で続ける。

「わかってるよね、播磨。理由はわからないけれど、帆波は大けがをしたんだ。血だっていっぱい出て……だから、もうダメなんだよ……」

「そんな……っ」

 播磨は言葉を失う。佐伯もそれ以上は何も言わない。ただケータイを握りしめて、永遠にも思える長い静寂を共有した。


 佐伯が播磨にメールを送って数十分が経った今、帆波が無事でいる可能性が限りなくゼロに近いことも、そして今から病院に来たところで――そもそも自分にできることなどほとんどないことを、播磨自身が一番よくわかっているはずだった。

 今の播磨は無力で、何もできない。諦めてしまってもおかしくない。絶望したってしょうがない。それならそれでいいんだ、だけど――佐伯は待っていた。強く、拳を握り締めながら。

「……でも、」

 播磨の「声」に、佐伯の拳がぴくりと動く。佐伯は「それ」を待った。


「俺は、やっぱりそっちに行く! もう手遅れだって決まったわけじゃねえんだろ⁉ だったら――可能性があるんだったら俺は行く! そう簡単に諦められねえんだよ‼」


「――そう言うと思ってた」


「……え?」


 佐伯はおもむろに、固く握っていた拳を開いた。

 その中には、帆波の病室のネームプレートの紙があった。色の褪せたその紙には、かつて帆波が今の病室に入る時に「帆波自身で書いた、帆波の名前」が書かれている。佐伯は病室のドアから剝がされる際、体を抑えられながらも無我夢中でそれを引き抜いていた。――自分にできること、自分のやらなくちゃいけないことは体がわかっていたのかもしれない。なんてったって、中学二年生の時から「それ」の記録を任されていたのだから。

「播磨、何でもいいんだけど、近くに紙とペンはある? それか、自分で名前を書いた教科書とかワークとか……」

「つみき、何言ってるんだ? 今そんなこと関係ないだろ‼ 病院の場所ならわかってるからすぐに――」

「播磨!」

 佐伯は必死に呼びかける。これは、播磨が納得しないと起こすことのできない「奇跡」だ。今度は人目も憚らずに声を張り上げる。

「お願い、僕の話を聞いて!」

「なんでだ! 今帆波に関係ないだろ⁉」

「『最後に帆波に会える』かもしれないんだよ!」

 佐伯の言葉に、播磨が明らかに動揺した。佐伯は息を吸い……そして、自分自身を奮い立たせるために口角を上げる。スピーカーの向こうからは意味不明と言いたげな声が聞こえてきた。

「……何言ってるんだ? つみき……」

「いいから、あるかないかだけ言って。紙とペンはある? それか播磨が名前を書いた紙とかは?」

「譜面と、あとはボールペンがある……けど、それが何だって言うんだよ⁉」

「お願い、聞いて! ページの余白のどこにでもいい。ペンで播磨の名前をフルネームで書いて。そして、強く念じて! 『帆波に会いたい』って念じて‼」

「つみき、何のおまじないのつもりか知らないけど、俺はそんなことしてる暇はねえ‼ もう切るぞ‼」

「帆波に二度と会えなくなってもいいの⁉」

 持てる力のすべてを尽くして叫んだ。その言葉に、播磨は返事をしない。佐伯は祈るような気持ちで続ける。

「播磨が信じられないのもわかる! でもお願いだから、僕を信じて‼ これは帆波が生きている今にしかできない『奇跡』なんだよ……!」

「き、『奇跡』……?」

 播磨は、意味もわからないまま佐伯の言葉を繰り返した。佐伯は姿の見えない播磨を必死に説得する。佐伯は播磨を信じていた。そしてこれまで生きてきた中で一番、自分自身のことを信じていた。

「信じて播磨‼ 僕なら、僕だったら、きみと帆波を会わせることができる‼ 播磨が僕のことを信じてくれたら、絶対に‼ だから、お願い‼」

「つみき……っ」

「僕は、きみと帆波を助けたいんだよ‼」


 佐伯の叫びに、シン――と無音が訪れる。

 誤って切ってしまったのだろうか、とスピーカーから耳を離した瞬間に、播磨のかすれた息遣いが聞こえてきた。

「……書いたぞ、つみき」

 それを聞いた瞬間、全身に熱いものが駆け巡った。

「播磨……!」

「次は、念じるんだっけか⁉ 『帆波に会いたい』って!」

 播磨の声は急ぎつつも、落ち着いていた。佐伯はそれに救われるような思いだった。

「そう、そうだよ! 僕も念じるから、一緒に唱えて! 『願い事は、口に出したほうが叶いやすい』んだ……!」

「わかった、じゃあ――」

「あ、待って!」

 今にも願い事を言いそうな播磨を遮る。一番大事なことを聞くのを忘れていた。佐伯はもう一度笑顔をつくって、真面目な声で、播磨に問うた。



「――播磨、帆波に会ったら生きてくれる?」



 再び訪れる静寂。佐伯の言葉に返答はない。

 播磨、と呼びかけようとした瞬間にスピーカーの向こうから乾いた笑い声が聞こえた。佐伯も、合わせて笑った。



「……つみき、唱えるぞ」

「うん」

 二人は呼吸を合わせると、声を張り上げて叫んだ。



「「帆波に、会いたい‼」」



 強烈な眠気が脳をぶち抜き、体から一切の力が失われる。湿った地面に崩れ落ちて、手放しかけたケータイの向こうからも、何かが倒れるような音がした。




 創作部書記――佐伯つみきが起こしたのは、「世界の交差」だった。

 播磨と帆波の存在が「世界の交差点」に侵入してくるのを感じながら、佐伯は目を閉じ、そして意識を闇に溶かした。


 ――これは僕が、僕の大切な人たちのために起こす、たった一つの「奇跡」だ。

 僕は僕だけが知っている「奇跡」で、大切な人たちを救ってみせる。

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