44話 甘い
カーンの話を聞いた僕は、ただただ言葉を失った。自分の思考をまとめるべく目をつむった後、まず訪れたのは安堵であった。
咄嗟に用いた〈泡の魔術〉――見様見真似で組んだ術式だったが、それが成功していたことが驚きだった。
失敗するつもりは毛頭なかったが、ほんの少しでも間違いがあれば、今こうしてカーンと話すことはできなかった。相棒の命が助かった、それだけでも
「……貴方には、また助けられてしまいましたね」
「家族として、主人として当然のことをしたまでだよ。気に病むことはない」
「そう言っていただけると……」
カーンが紡ぐ言葉には、心が籠っていなかった。
僕の魔力によって己の命が救われた――それについて、彼にも思うところがあるのかもしれない。
カーンは普段こそ僕に隷属するような姿勢を取っているが、その矜持はおそろしく高い。守られるという立ち位置に甘んずることはまずないし、ましてや僕に――彼が「守る対象」と考えている僕に助けられるなど、受け入れられるはずがない。
表には出さずとも、彼の内で葛藤があることは容易に読み取れた。
「…………」
僕は早急に話題を切り替えることにした。
「助けてくれた人……いや、蛇? 白かったって言ってたね。それに怪物……マリネラに似ていたとも」
話に出てきた白色の大蛇。カーンによれば、それは怪物“黒の母”と酷似していたという。ならば考え至ることは一つだった。
「ハリやヨアニスにも話を聞きたい。彼等はどこに?」
「リオ様。気になるのは分かりますが、安静を第一に考えてください。貴方は魔力を使い過ぎた。あれからたった一日――もっと休むべきです」
「いち、にち?」
僕は思わず目を瞬かせる。
「そんなに僕、寝てたの?」
「はい。丸一日、ぐっすりと」
そうだとすれば、危惧すべき点がいくつかある。
まずはマリネラ――もとい、怪物“黒の母”の行方だ。豊饒をもたらすと意気込んでいた彼女が、僕が目覚めるまで実行せずにいるとは到底思えない。今頃は「豊饒」のため、海を荒らし回っていることだろう。
二つ目に、カリュブディス解放反対派の若者達だ。
神殿前における彼等とレヴァン王との会談は決別に終わった。王はカリュブディスの解放を、若者は封印の維持を主張し、結局どちらも譲歩することなく。
仮に、今もなお王の意志が変わらないのであれば、彼等は謀反人として処罰の対象となる可能性がある。僕の目がない隙に。
最後に、獣人の少女ニーナの所在。
彼女は僕達が神殿にいる間、この城に預けておいた。そうだというのに、姿を見掛けていない。ひょっとしたらどこかに遊びに出ているだけかもしれないし、人払いされた結果かもしれない。
そうであればよいのだが、王の言葉――ニーナを人質にするかのような脅しを聞いてしまった以上、この目でニーナの無事を確認しなければ気が済まない。
「なら、尚更ゆっくりしてられないね」
布団を押し退け、寝台から足を降ろす。大理石のような床材からヒヤリとした冷気が身体を這い上がってきた。
「リオ様、何を」
「次の手を考えないと。まだ終わってないんでしょ?」
「お戻りください」
「質問に答えて。マリネラは生きてるんでしょ。そうでなきゃ、こんなに魔力は騒めいて――」
突然、肩に痛みが走る。カーンの大きな手が、僕の肩を握り潰さんばかりに掴んだのだ。
顔をしかめる僕を覗き込むように、男の瞳が、爛々と燃える鮮血の瞳が近づく。その顔には、先程までの穏やかさは一寸たりとも残っていなかった。
「戻れと、そう申しているのです。貴方は危うく死にかけた。たった一日、深い眠りについたところで、その事実は変わらない。まだ時間はあります。お休みください」
その言葉には、有無を言わさぬ迫力があった。凄むカーンは恐ろしい。平生が甘やかし上手の父親のようであるから、それはひとしおだ。
口論ができるほど元気が有り余っている訳ではない。こうして上半身を起こしているだけでも若干のふらつきを感じるのだ。まだ万全ではないことは明らかである。
彼の言う通り、本来であれば休むべきなのだろう。しかし、そう悠長に構えていられる事態でもない。
僕が口をつぐんでいると、ふとカーンの表情が緩む。抵抗を諦めたと伝わったらしい。
「温かい物をお持ちします。少々お待ちください」
そう言うや否や、カーンは僕に布団を被せて退出していった。
扉が閉まったことを確認して、僕はじっと耳を澄ませる。
記憶する限り、廊下には絨毯が敷かれている筈だ。元より大きな足音を立てないカーンの気配は、緩衝材の効果も相まって、ひどく感じ取りづらい。
僕はそうっと寝台を抜け出して、扉を開ける。相棒の姿はない。
彼は宣言通り、「温かい物」を作りに行ったようだ。平生は海水に沈む城だ、どうせ火起こしや容器、飲料水の確保にも困難するだろう。
すぐには戻って来ないはず――僕はにんまりと口角を持ち上げた。
「長年一緒にいるくせに、読みが甘いんだから」
■ ■
部屋を出ると、道は三つに分かれていた。右と左、そして前方に絢爛とした道が続いている。
万全の体調でない以上、ハリやヨアニス、さらに獣人ニーナを求めて城を――広大であろう城郭を彷徨うなど遠慮願いたいところだ。
「客間と大広間は簡単な道のりで繋がっていることが多いけど、城によってまちまちだからなぁ。こんなことなら、もうちょっと粘ればよかったかも」
カーンは僕の身の安全を考えて行動する。
今回は僕が折れることで口論の収束を計ったが、万が一僕が粘ったら――それこそ、口論によって著しく体力を消耗するようなことがあれば、結果は変わっていたかもしれない。カーンがニーナ達を連れて来るという展開もあり得た訳で――。
「僕もカーンのこと、言えないな」
右手の通路から、白い物体が迫って来る。それを追うのは青年――ハリだった。その顔は必死そのもので、走る姿はあまりにも不格好である。『走る』という行為に慣れていないためであろう。
幼子がそのような走り方ならば微笑ましく見ていられるが、相手は既に成人している年齢の男だ。悪く言えば間抜け、よく言えば愛嬌のある動きである。
「なっ、リオ!?」
こちらに気付いたらしい。ハリは声を張るが、それは惜しくも、白い物体が僕の腹にめり込んだ後だった。
鈍い衝撃と共に僕の身体は倒れ伏す。床に打ち付けたのか、頭やら背中に
「おいおい、大丈夫か?」
苦笑気味のハリが、僕の身体の上から白い塊を持ち上げた。
僕と衝突したそれは、どうやら布のようだった。ひらひらと揺れる布端から茶色の毛束が覗いている。
「ばあっ!」
突然、布の下から獣の顔が現れた。
獣人の少女ニーナ。おばけ布の正体は、つい先日から僕達に同行することになった子供だった。
「えへー、リオ、びっくりした?」
「びっくりした……ニーナ、元気そうでよかった。ハリも」
ニーナの顔に曇りのない、眩いほどの笑みが浮かんだことに、僕は心からの安堵を覚える。
そして、ハリ。ハリがこうして自由に歩き回っているということは、彼の同志も処罰の対象となっていない可能性が高い。かの王も、少しは考え直したのだろうか。
「もう大丈夫なのか」
「うん、この通り。ハリは――」
そう視線を上げれば、ハリは苦笑の後、自分の頬を撫でた。彼の手の下には傷がある。出会って間もない頃、僕の相棒によって付けられた傷だ。
今こそ粘着質な覆い――包帯の類であろう物体が貼り付けられているものの、その奥には依然として三本の痛々しい裂傷が透けている。
「ああ、これな。気にすんな」
「そう言われても……多分、痕が残っちゃうよ? 治そうか」
「いや、いいよ」
「……嫌じゃ、ないの?」
「残しておきたいんだ」
僕は驚きを隠せなかった。
魔族の多くは自分の身体に傷を残そうとしない。傷は恥である。魔族の戦士は口を揃えてそう言う。
傷は勝ち負けに関わらず、己の落ち度を示すものだ。だから傷を受けた際にはすぐに治療を施し、その痕跡を消してしまう。残しておくなどとんでもない。それは負けを享受するということだ。
それなのに――二の句を継げぬ程の衝撃なのに、ハリは重ねて傷は男の勲章だと笑うのだ。
「それなら……うん、分かったよ」
釈然としないが、これも価値観の違いというものなのだろう。となれば、それに従うのが異種族間の礼儀である。
「リオ、リオ! ねえねえ、あっちにね、おっきい蛇がいるの!」
気を引こうとしているのか、ニーナは性急に僕の手を振り回す。
大きな蛇――ニーナならば怖がりそうなものだが、むしろ彼女は興奮していた。まるで新たな友人を得たかのように。
僕が首を捻っていると、ニーナが言わんとしていることを理解したのか、ハリが口を挟む。
「アレのことか。ちょっと付いて来てくれよ、リオ。会わせたい奴がいるんだ」
ハリは歩き出す。それを追って、ニーナもまた駆け出した。
合わせたい人。その言葉が、僕の脳内でこだまする。
この状況――“黒の母”に関する案件が全終着を迎えていない状況にも関わらず、紹介せずにはいられない人物とは。それほど緊急を要する人物なのだろうか。
二人を追う僕は、その理由を知って強く納得することになる。
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