4話 それだけが私の取り柄だもの

 魔界の歴史を描く大型本。


 そこにある内容は、少なくとも魔界に、そして世界に伝えられているものではなかった。そのため、真偽は計り知れない。全くの創作物であるという可能性も拭いきれないが、それでも貴重な資料であることは確かだ。


 魔界で失われていた古代の歴史。魔界が魔界として成立するよりも、そして魔族が蔓延するよりも、ずっと昔の時代。それを読み解くことができれば、ひょっとしたら、僕達が求める〈兵器〉の情報も手に入るかもしれない。


 沸き立つ興奮を抑えて、僕は板で挟まれた羊皮紙をめくった。


「この時代の魔術は、魔術として認識されていなかったはずだ。それに、論理的な解析もなされていなかった。今の研究に反映できることは少ないと思うよ?」


「歴史を読み解けるだけでも儲けものです。しかし、魔術が魔術として認識されていなかったとは興味深いですね」


「そのくらい生活に馴染んでいたってことだよ。魔族だけでなく、神族にもそれは当てはまる。彼らにとって、魔術を用いることは空気を吸うことくらいに当たり前のことなんだ。だから、人間族が編み出した魔術の解析方法は、本当に画期的だったんだよ」


「まさかそのような評価だったとは。……なるほど、道理で」


「何かあったの?」


 僕が尋ねると、老婆プランダは身体を揺らす。今度はほんの少しばかり困った様子だった。


「焚書が多く行われたのです。神族との戦争後は、特に顕著でした。その一方で、私や学者の元を訪れる神族が多く存在していた……。おそらく、知識を独り占めしようとしたのでしょうな。まあ、それは叶わなかったようですが」


 ホホホと力強く笑って、プランダはディアナの背を叩く。すでに食事を始めていた若い女性は、突然の衝撃に少しむせるような素振りを示した。


 ディアナ――プランダの養子にして弟子。老婆が発展の一因を担った人間族特有の学問、魔術論理学の継承者である彼女は、食事を進めつつ、僕達の話に耳を傾けていたようだ。


 咳込む彼女の目は、どこか遠い。考え事でもしているのか、彼女の意識は、少なくとも、自分の背を叩いた老婆には向けられていなかった。

 そんな彼女はやがて手を持ち上げる。学問を習い始めた子供のごとく、耳に腕を付けてしっかりと挙手する。


「いくつか質問があるんだけど、いいかしら?」


「うん、いいよ」


 流石は貪欲な魔術士の弟子と言うべきか、盗み聞きの最中にも疑問点を見出していたようだ。


 きっちりと匙や器を机の端から退かした彼女は、口元を拭って少しばかり視線を落とす。次に黒い瞳が持ち上げられた時には、見慣れた学者の目になっていた。


「さっきの、『魔術を魔術として認識されていなかった』っていうところが、よく分からなかったのだけど――じゃあ、神族や魔族にとって、魔術とは何だったの?」


「何だった、か……」


 僕は考える。そして適当な言葉を選び出した。


「さっきも言った通り、この本にある時代、つまり魔界が魔界として成立するよりも前、もう神話の時代と言ってもいいかもしれないね。そのくらいの時代における魔術は、今よりもずっと深く生活に根付いていたんだ。だけどその時に、魔術の構成や魔力を意識していたわけではなかった。あえて例えるなら、文字や言葉みたいなもの――って感じなのかな」


 そう言いながら、僕は首を捻る。例えが正確かどうか分からない。しかし、何となく伝わったのだろうか。ディアナは少し唸った後、躊躇い気味に頭を落とした。


 心残りはある。だが、これ以上有益で的確な解説をできる気はしない。僕は首を縮めてディアナを見上げた。


「理解できた……かな?」


「とにかく、今とは魔術の捉え方が異なっていたということね。それで次の質問だけど、リオ君はそれをどこで学んだの? どこの学校に通ってた?」


「どこって……」


 僕は戸惑う。そんなことを聞かれるだなんて思ってもみなかったのだ。

 そんなに僕が魔術の知識を持っていることが不思議なのだろうか。少し複雑な気分のまま、僕は応じる。


「本からが多いかな。後は人に教えてもらったり」


「学校は?」


「学校は……通ってないよ」


「じゃあ、どこでその本が魔界出身だって分かったの? 魔界の文字、どこで習った?」


 この食い付きも想定外だった。確かに魔界や神界の文字を知ることができれば、知識の幅も広がるだろう。それを得るための質問ならば納得もできる。


 魔術の研究は、どちらかと言えば人間界――この世界の方が進んではいるが、魔術の歴史や経験といった面では魔界や神界に劣る。ディアナが知りたがるのも無理はない。


「魔界の文字は……ええっと、そう、翻訳されたものと原本を見比べて勉強して、それで分かったというか何と言うか。そんな感じ」


「そんな本があるの? 何て題名?」


「題名……」


「もったいぶらないで、お姉さんに教えて! 私、魔界に留学して魔術を勉強するのが夢なの!」


 そう意気込むディアナの傍ら、兄ベンノは随分と呆れた様子だった。空になった皿を何度もパンで撫で、彼は鼻を鳴らす。


「まーだ学生気分でいやがる。もういい歳なんだし、諦めれば?」


「いい歳だからこそよ、お兄ちゃん! 二十代後半の未亡人ともなれば、もう売れ残り確定でしょう。だったら、おば様みたいに魔術に生きるのもアリだと思うのよね」


「全く、逞しいことで」


「それだけが私の取り柄だもの」


 胸を張るディアナ。それだけなんてことはないでしょう、と僕が口を挟むとディアナははにかみ、照れた様子を見せた。


 彼女には知識に対する貪欲さも、旨い料理もある。顔や人柄が悪いというわけでもない。よい人が見つかりそうなものだが、巡り合わせを司る天使は気まぐれ屋なのかもしれない。


 すると、兄妹の会話を眺めていた老婆が、ふとこちらを向く。


「リオ様。よろしければ娘のために、この本を翻訳してはくれませぬか」


「翻訳?」


 僕は目を丸める。すると老婆は、申し訳なさそうに肩を揺らした。


「お忙しいことは十分に理解しております。ですが、今後の研究のため、娘の学習のために、どうかお力添えをいただけないでしょうか」

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