第二章 氷雪の魔狼 -9-

 ブリュンホルン村で昼食を摂ると、ブリュンホルン湖に沿って西に進む。

 南にはベルナー山脈の高峰が連なり、威容を誇っている。

 山の頂上付近は白く染まり、冠雪していることを示していた。


「あんなに高いんですか」


 エアル島では、最も高い山でも三千フィート強(約千メートル)しかない。

 ブリューニッヒ峠くらいの高さだろうか。

 だが、あれはその四倍はありそうだ。

 目もくらむような高さである。


「魔狼くらいんでいても不思議はないよな」


 レオンさんもおごそかな表情になる。

 魔物というより神々が住んでいそうな山だな、あれは。

 こんなに離れているのに、神聖な気配で圧倒される気がする。


 ブリュンホルン湖は、東西に長い湖だ。

 そして、湖の西端にインターラキュス村がある。

 村の西にはトゥーン湖が広がっており、インターラキュスとは要するに二つの湖の間の村と言うことであった。


「北も山、南も山、東西は湖。本当に隙間のような村だぜ」


 レオンさんも呆れたように言う。

 それでも、メートヒェン山に行くなら此処から南に伸びる僅かな谷間を進むしかない。

 地元の人間は誰も近付かない魔の山メートヒェン。

 インターラキュス村で情報を仕入れようとしても、村人は怖がって話そうとしない。


 地理を知るレオンさんと一緒でよかった。

 ぼくだけなら立ち往生しているところだ。


 インターラキュス村には小さな宿が一軒あり、今夜はそこに泊まることにする。

 夕食は黒パンにチーズと羊肉のシチューだけだったが、チーズ以外は余り旨くはない。

 贅沢は禁物だろうか。

 菩提樹リンデン亭で口がおごってしまったかもしれない。


 干し草の寝台で眠りにつく。

 粗末なものだが、村では普通だ。

 干し草の甘い香りに包まれながら、いつしかぼくは眠りに落ちた。


 翌朝からは、いよいよ山道に入っていく。

 レオンさんは馬車を宿に預けると、此処からは歩きだと宣言した。

 まあ、ぼくは馬車よりむしろ歩きのが慣れているので、問題はないけれどね。


 ブリュンホルン湖へと注がれるホウエータ川の流れに逆らい、川上に向かって歩く。

 街道の脇には種々の草花が咲き乱れ、少し離れた斜面には緑の木々が生い茂る。

 だが、そびえ立つ山々は途中から全て輝く白の雪化粧を纏っていた。


 目の前に威容を誇るのがフーハーベルク三山であるシュピッツェル、ノネ、メートヒェンだ。

 いずれも劣らぬ高峰であり、荘厳そうごんな美しさを感じさせる。

 魔狼はどのあたりに出るのだろうか。

 できれば山頂まで行くのは避けたいところである。


 インターラキュス村からラウターヴァッサーファル村まではおよそ五マイル(約八キロメートル)の道のりだ。

 ゆっくり歩いても三時間ほどで村は見えてきた。

 ここの標高はまだ二千三百フィート(約七百メートル)ほどだろうか。

 長閑のどかな谷間の村である。


「クライネルパスを越えたら、生きては戻ってこれないでよ」


 牛を追って戻ってきたラウターヴァッサーファルの村人を捕まえる。

 メートヒェン山について尋ねると、肩をすくめながら答えた。


「シュピッツェル氷河グレッチャーが目の前に見えるでよ。すぐにわかる。そこから先に進んで帰ってきた者はいないだ」


 此処から見ると、ちょうど緑と白の境目のあたりだろうか。

 フーハーベルク三山の中間点に位置する場所を、小さな峠クライネルパスと呼んでいるようである。

 そこには、山小屋も建っているそうだ。


 ラウターヴァッサーファル村からクライネルパスまでは大体五、六時間かかると言う。

 このまま進んでも日暮れ前には着ける。

 余裕を持って村に留まるか、クライネルパスまで一気に行くか。

 レオンさんはどうするだろうか。


「準備はできているし、行けるところまで行くぞ」


 待ってました!

 レオンさんも先に進むことを選択したようだ。

 流石に昼前から村でのんびりはできない。

 クライネルパスまで行ってやろうじゃないか。


 牛飼いに別れを告げ、曲がりくねった細い道をゆっくりと登る。

 クライネルパスまでは、道が整備されているそうだ。

 例えどんな杣道そまみちであろうと、ないよりはましである。

 咲き誇るベルナーローゼの花をでながら、九十九折つづらおりの道を進んでいく。


 長大なベルナー山脈の中でも、このフーハーベルク三山が最も美しいと言われているそうだ。

 中でもメートヒェン山は別格の美しさを誇る。

 だが、それは甘えたがりの可愛さではない。

 清冽せいれつ厳粛げんしゅくな美だ。

 一切の侵入を拒む孤高の美しさ。

 少女メートヒェンと言う可愛らしい名前とは裏腹な凶悪さがこの山にはある。


「あの山には怒りが渦巻いている」


 森林限界も過ぎ、周囲にすでに木々はない。

 草花は未だ群生しているが、クライネルパスを越えるとそれもなくなる。

 静謐せいひつな死の世界だ。


 そんな先行きに流石のレオンさんも不安があるのか、斜面に腰掛け蒼穹そうきゅうを見上げながら煙を吐き出した。

 煙は幾つかの輪になって空に昇っていく。

 器用なもんだ。


「伝説によると、ルウム教会の高名な退魔師たちが、邪悪な魔狼を滅すべしと挑んで残らず返り討ちにされたそうだ。あの山では魔狼ファリニシュに地の利があり過ぎる」

「ルウム教会が魔狼を退治しようとしたことがあったんですか」

エルの尖兵たちだ。ああいう超常的な存在は許さない。もっとも、それも昔の話だ。今はもう力のある退魔師なんていやしない。ルウム教会だって冒険者ギルドに金を出して魔物を退治させる時代だ」


 エルの信徒たちも、昔は大魔導師ウォーロックのように超常の力を持っていたんだな。

 何故それがいなくなったのかはわからないが、今はもう数の力だけで十分大陸を支配できている。


「ここからでも魔狼の威圧を感じ取れる。ファリニシュの名を言った途端に威圧が強くなった」

「じゃあ、名前言うのやめましょうよ!」


 思わず突っ込むと、レオンさんは済ました顔で煙を吐き出しながら嘯いた。


「どのみちあれと対峙たいじすることになるんだ。いま名前を言ったくらいで何も変わらんさ」


 あれと対峙する。

 こうして間近に迫ってみると、逆に遠い出来事のように感じる。

 駄目だな、頭で理解していても、体が恐怖を感じているんだ。

 全身の毛が逆立つような威圧は、大鬼オルク・ハイなど比べ物にならない。

 間違いなく危険度はロート級だ。


 休息を終え、再び山道を登り始める。

 ゆっくり休息しながら行くのは、高度に体を慣らすためらしい。

 急に高いところに行くと、体が変調を訴えるそうだ。

 耳鳴りや呼吸困難などになるらしい。


 そうやって体を慣らしながら、ぼくたちは小さい峠クライネルパスの山小屋に辿り着いた。

 標高は七千フィート弱(約二千百メートル)はあるだろう。

 エアル島最高峰のカラトゥーヒル山の二倍は高い位置にいるんだ。

 そして、これからもっと登らなくてはならない。


「今日は此処に泊まって、明日はいよいよ本格的に登山だ。あっちがシュピッツェル山に繋がるシュピッツェル氷河グレッチャー、あれがインデンベルゲンに繋がる万年雪の氷河エーヴィッヒシュネー・グレッチャー。インデンベルゲンってのは、ノネとメートヒェンの間の鞍部あんぶのことだ。大体標高一万フィート(約三千百メートル)はある。まず目指すのはあそこだな」


 クライネルパスから見る氷河グレッチャーは絶景だった。

 荘厳で美しい。

 思わず涙がこぼれそうだ。

 だが、感動に浸っている場合ではない。

 いよいよ明日は魔狼とぶつかるかもしれない。

 どうやって戦うか、考えておかないといけないな。

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