キキッ……と鳴いて、車は止まる。

「……此処は」

 椎名が暗がりに浮びあがる廃工場を見上げていると、少年と少女は黙って歩きだした。

「あ、ちょっと!」


 ガシャーン!

 いちいち通るたびにうるさい音のする入り口を抜ける。中の空気はあの日のままだった。

 マツリは無言であたりを見回した。


 ――本当だ。本当に何もなかったかのように、楓の死体も、楓の血も、メグの血も、全部消えている。

 胸が苦しくなった。

 だって、ずっとだ。本当はずっと葛藤してた。私はまた、人をあやめたんじゃないかって。ずっと考えていた。あの時私が何も言わなければ、楓は……って。

『高いナンバーのほうが、精神が不安定』

 椎名の言葉が頭で響く。

 何も言わなければ、楓のその精神とやらが大きく揺さぶられたりすることはなかったんじゃないか。そしたら、楓の化け物は彼女を襲ったりしなかったんじゃないか。そんな、葛藤。


「寒い……」

 マツリが小さく呟くと、「あぁ」とメグも頷いた。

「私……、昔もこうやって此処に来て、消された血の跡を必死で探した」

 メグはすぐにそれが母親の話だと察した。

「此処、いつもこんな色なの」

「色?」

「色のない、灰色の、世界なの」

 何と答えていいか分からず、メグはじっとマツリを見た。

「メグ」

「……んだよ」

「私、ブラックカルテじゃないよ」

「分かってんよ」

「諦めてくれるまで、耐えるよ私」

「……やめろ」

「私、行くよ。あの場所に」

「それ以上言うな」

「でもメグ……――」

 マツリがメグに手を伸ばした。

「行かせねぇよ、あんな場所には絶対!」

 メグが怒鳴る。その怒りに指先がビリビリした。

「あんな……、っ!」

 不意に心音が跳ね、メグはびくりとした。マツリの細い手で、そっと左手を握られたのだ。

「マッ……――」

「メグまだあそこに、縛られてるんだよね」

 マツリはじっとメグの左手を見つめる。

「メグはまだ、国光から逃げ切れてないんだよね」

 その手は温かく。そして柔らかい。

「そんなの、間違ってるって言ってやりたいし……」

「あのなぁ……っ」

「それに、私も知りたい」

「……?」

「私の、お父さんのこと」

 マツリが真剣な顔をした。ひどく凛した、普段見せない表情だった。

「私のお父さんのこと、私も知りたいから」

 その表情に引き込まれる。その眼に、飲み込まれる。

「行かなくちゃ」

 一切の隙間ない決意に、メグは一瞬ぞっとしてしまった。マツリがふいっと、普段よりももっと、もっとまっすぐな瞳で、あの世界の端っこを見つめる。

 メグは握られた手を握り返した。強く。強く。

「メグ」

「十日だ」

「……え?」

「十日だけ、待っててやる」

「…………」

「十日経っても」

 ――もし。

「もし、帰ってこなかったら」

 ――もしも。

「連れ戻しにいくからな」

 ――もしも、あの時、ああだったら、って。

「……うん。迎えに来て。メグ」



 ――もしもあの時、こうだったら、って。

 いつも思うよね。いつも、嘆くよね。

 もしも、あの時私が何も言わなかったら、楓は死ななかったのかな。もしも、あの時メグが此処に来なかったら、楓は死ななかったのかな。でもきっと、そうしていたら私かメグが死んでいただろうな。

 そんな問答に押しつぶされてしまいそうで、私たちはいつもよりずっともろくって、悲しかった。


 泣き声が聞こえた気がした。隙間風が唸っていた。

 私達は何も言えないまま、その音に撫でられて俯いた。

 その手のぬくもりを。

 そのこぶしの鼓動を。

 ずっと、忘れられないくらい。

 焼き付けておきたかったよ。

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